白虎隊士の略伝 (1)

士中二番隊の自刃十九士と生存隊士


は飯盛山での自刃十九士。
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隊士の名前の読み方・漢字表記については諸説ありますが、ここでは一般的な研究・解説書に従っています。←参考 : 白虎隊士の名前表記便覧

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安達藤三郎
あだち とうざぶろう
郭内米代一之丁、小野田助左衛門の四男、嘉永五年生まれ。故あって安達姓を名乗る。父は物頭を勤め、家禄四百石。母はみさ子(中林助左衛門の長女)。
十一歳で日新館に入学、尚書塾一番組に編入。性質は優柔温和、文武に優れ、しばしば賞典を戴いた。隊の嚮導役の一人。
有賀織之助
ありが おりのすけ
有賀権左衛門の次男、嘉永六年十一月三日生まれ。有賀は、あるが、とも。父(家禄二百五十石)は京都蛤御門にて戦死(四十六歳)。母はいく子(高木小十郎の妹)。
日新館では三禮塾二番組に編入。性質は英敏勇剛、体格は壮違にして容貌は清秀。
池上新太郎
いけがみ しんたろう
郭外厩町、池上與兵衛の長男、嘉永六年五月十日生まれ。戊辰戦争時、父は青龍寄合一番隊(隊長は木村兵庫)の半隊長を勤めた。生母は新子(佐藤駒之進の姉)、継母はたみ子(三浦謙良の娘)。
十歳で日新館に入学、尚書塾二番組に編入。十一歳で四書、十三歳で小学の賞賜を受けた秀才。
石田和助
いしだ わすけ
若松紺屋町、石田龍玄の次男、嘉永六年九月生まれ。父は農家の出で公家の側醫格となり士分に登用された(七人扶持)。母はちえ子(中村為七郎の娘)。
十一歳で日新館に入り、毛詩塾二番組に編入。性質は剛直で、酒を嗜んだ。
石山虎之助
いしやま とらのすけ
井深数馬(家禄二百石)の次男、嘉永六年七月二十三日生まれ。郭内四之丁、外様士(武官)の石山弥右衛門(食録百五十石)の養子となる。母はそわ子(土屋省吾の三女)。
十一歳で日新館に入り、毛詩塾二番組に編入。性質は温厚にして沈重、記憶力に富み、英雄豪傑の談話を聞くのが好きだったという。
伊東悌次郎
いとう ていじろう
郭内米代四之丁、伊東左太夫(家禄百三十石)の次男、嘉永五年(安政元年説あり)生まれ。母はすみ子(武川頭軒の姉、容姿美麗だったらしい)。井深茂太郎とは親戚。
十一歳で日新館に入学、尚書塾一番組に編入。隣家が砲術家の山本覚馬宅だったので、砲術をよく習っていたという。性質は温柔で勤勉。
伊藤俊彦
いとう としひこ
川原町堀側、伊藤亘(五人扶持)の長男、嘉永五年生まれ(嘉永六年十二月二十日説あり)。生母はりよ子(玉木兵左衛門の娘)、継母は孝子(藤森儀右衛門の娘)。
性質は温厚信実。
井深茂太郎
いぶか もたろう
郭内三之丁、井深守之進(家禄三百石)の長男。茂太郎は、しげたろう、とも。嘉永六年十二月二十一日生まれ(十月生まれ説あり)。母は清子(井深茂右衛門の次女)。
日新館に入学後、十三歳で講釈所(止善堂)に及第した秀才。白虎隊の出陣嘆願書の起草委員に選ばれた。
篠田儀三郎
しのだ ぎさぶろう
郭内米代二之丁、篠田兵庫(供番を勤め、家禄二百石)の次男。嘉永五年四月十五日生まれ。母はしん子(織部玄孝の娘であるが、後の家老・田中土佐の養女となって篠田家に嫁した)。
十一歳で日新館に入学、尚書塾一番組に編入。性質は謹直で、約束を違えた事がなかったという。隊の嚮導役の一人。
鈴木源吉
すずき げんきち
郭外長町、鈴木玄甫(側醫、百二十石)の次男、嘉永六年生まれ(嘉永五年九月説あり)。母はさだ子(玄甫重積の娘)。
十歳で日新館に入り、毛詩塾一番組に編入。文武の技芸に長じ、性質は温柔。
津川喜代美
つがわ きよみ
高橋誠八(家禄百石)の三男、嘉永六年生まれ。喜代美は清美とも。郭内米代二之丁、家禄百五十石の津川瀬兵衛の養子となる。生母はえつ子(有賀惣左衛門の三女)。
十歳で日新館に入学、尚書塾一番組に編入。性質は仁慈にして勇敢。
津田捨蔵
つだ すてぞう
江戸常府新番組士(家禄十三石三人扶持)津田範三の次男、江戸の会津藩邸にて嘉永六年に生まれる(嘉永五年説あり)。竹岡姓を名乗る。母はすぐ子(石澤太治右衛門の四女)。
性質は質朴にして活発。
永瀬雄次
ながせ ゆうじ
郭外花畑、永瀬丈之助(祐筆を勤め、家禄十八石三人扶持)の次男、嘉永六年生まれ。母はくら子(永瀬熊四郎の長女。父は婿養子である)。
日新館では、尚書塾二番組に編入。出陣前、敵の注目を避ける為、山野で目立たない草色の洋服を母に作ってもらった。
西川勝太郎
にしかわ しょうたろう
郭内本二之丁、西川半之丞(物頭を勤め、家禄三百石。一刀流の達人として評判が高かった)の長男、嘉永六年一月生まれ。母はせき子(神尾織部の五女)。
日新館での学籍は、三禮塾二番組。性質は冷静沈着で、度量があったという。隊の嚮導役の一人。
野村駒四郎
のむら こましろう
郭内本二之丁、野村清八(家禄百三十石)の三男、嘉永五年生まれ。母はみね子(永野保の妹)。
十一歳で日新館に入学、三禮塾二番組に編入。槍術を好み、十七歳で切紙下に進んだ。性質は勇猛、赤毛のざんぎり頭だったという。
林八十治
はやし やそじ
郭外新町三番丁、林忠蔵(家禄十六石五人扶持)の長男、嘉永六年一月六日生まれ。生母はみよ子(上田甚太夫の長女)、継母はとき子(筒井一学の妹)。
十歳で日新館に入学、二経塾二番組に編入。十一歳で四書、五経の素読を終え、十五歳の時に止善堂に入った。
間瀬源七郎
ませ げんしちろう
郭内二之丁、間瀬新兵衛(家禄三百五十石、家老組組頭、用人、奉行等を歴任)の次男、嘉永五年六月十四日生まれ。母はまつ子(黒河内図書の三女、気品高く容姿端麗だったらしい)。
十歳で日新館に入学、三禮塾二番組に編入。性質は温和、母に似て美少年だったという。
簗瀬勝三郎
やなせ かつさぶろう
郭内二之丁、簗瀬源吾(物頭を勤め、家禄三百五十石)の三男、嘉永五年六月一日生まれ。生母はとく子(石川定記の叔母)、継母はみお子(神尾織部の次女)。
十歳で日新館に入学、三禮塾二番組に編入。西川勝太郎、野村駒四郎らと親しかった。
簗瀬武治
やなせ たけじ
郭内本三之丁、簗瀬久人(家禄百五十石)の次男、嘉永六年八月生まれ。母は八重子(永岡久茂の姉)。
十一歳で日新館に入学、三禮塾二番組に編入。性質は沈静にして勇敢、優しい顔立ちだったという。
飯沼貞吉
いいぬま さだきち
郭内本二之丁と三之丁の間の大町通り、飯沼時衛(物頭を勤め、家禄四百五十石)の次男、安政元年三月二十五日生まれ。加納貞吉と称した。母は文子(西郷十郎右衛門の三女、玉章たまずさという雅号を持つ歌人でもある)。家老・西郷頼母の妻千重子の甥。白虎隊には、年齢を一歳ごまかして入隊した。
十歳で日新館に入学、二経塾一番組に編入。十五歳で止善堂に入った。上記十九士と共に飯盛山にて自刃に及んだが、後にただ一人蘇生、救出される。白虎隊の真相を後世に伝えた。長身だったらしい。
維新後は貞雄と改名、電信技師となり、日清戦争にも従軍。昭和六年二月十二日、仙台にて死去。墓は仙台市の輪王寺と飯盛山にあり。
詳細プロフィールはこちら→■飯沼貞吉FILE
酒井峰治
さかい みねじ
上記二十士と同じ士中二番隊に所属。酒井安右衛門(家禄四百石)の次男。同じ隊に坂井峰治がいるが、子供の頃、仲間達は彼らの顔色から酒井を「赤ミネジ」、坂井を「青ミネジ」と呼んで区別していたという。
戸ノ口原での戦闘を経て退却の際、仲間とはぐれ、一人飯盛山中を彷徨い、自刃に及ぼうとしたところを牛ケ墓村の百姓・庄三とその知人の妻に諭され、自刃を思い止まった。
家族にも戊辰戦争の事を語る事は殆どなかったと言われるが、平成になってから、彼が書き残した『戊辰戦争実歴談』を子孫の方が発見され、白虎隊の行動がより詳しく解明された。
維新後は若松の一箕村で精米業を営んでいたが、明治三十八年に北海道紋別郡雄武村に移住、弟の酪農業を手伝い、その後旭川に移って精米業を営んだ。昭和七年、旭川にて死去。

『戊辰戦争実歴談』現代語訳はこちら→■史料■
伊藤又八
いとう またはち
伊東又八郎とも。士中二番隊所属。甲賀町通り二之丁角、伊藤(伊東)只右衛門(家禄四百石)の子。峰治と同じく、途中で仲間とはぐれ、農民の姿になって逃げていたところ、峰治と再会。北方漆村で家族が集まる事になっていたので、彼は城中には入らなかったらしい。維新後の消息は不明。明治35年頃、若松近郊の村役人を務めていたとも言われる。
庄田保鉄
しょうだ やすてつ
士中二番隊所属。庄田又助(家禄二百石)の長男。父の又助は朱雀士中三番隊の小隊長で、八月二十九日に長命寺の戦で戦死。祖父の久右衛門も籠城中に敵の砲弾を受け負傷、開城の報を聞いて自刃した。保鉄は士中二番隊の嚮導役の一人。戸ノ口原からの退却中、飯盛山の奥山の辺で、一人の仲間が重傷でダメだから介錯を頼むと言われ、やむなく涙をのんで介錯したことを孫に語ったというエピソードが、早川喜代次著『史実会津白虎隊』に紹介されている。
維新後は漆器業を営み、工業高校の教師となる。宮崎に赴任後、帰郷し、若松に創立された県立工業高校の漆工科の教員として招かれた。在職中、生徒を引率して旧滝沢峠から戸ノ口原の古戦場を巡る遠足に出掛けたという。
多賀谷彦四郎
たがや ひこしろう
士中二番隊所属。日新館での学籍は二経塾一番組。家禄四百五十石、多賀谷勝右衛門(勝左衛門)のおそらく二男。兄の勝之進が既に家督を継いでいた。勝之進は朱雀佐川隊(朱雀士中四番隊)の小隊長を務めていたが、慶応4年6月26日、越後福井にて戦死。伯父の勝次郎(砲兵小原隊教導)も8月23日、城内三ノ丸で戦死。隠居の父以下家族も自邸にて自刃している。彦四郎は8月23日早朝、原田小隊長の斥候隊に居たが、途中で仲間と逸れてしまう。後に入城を果たしているが、『会津白虎隊のすべて』所収の前田宣裕氏の記述によると、旧藩士の言い伝えに「永瀬雄次は上人塚下の堰畔で多賀谷彦四郎が介錯した」という話があるらしい。
藤沢啓次
ふじさわ けいじ
士中二番隊所属。白井大砲隊の記録を残した藤沢正啓の弟。猪苗代謹慎中、庄田・酒井・遠山とともに飯沼貞吉から飯盛山での自刃について聞いたといわれる。墓は会津若松市内の建福寺。
城取豊太郎
しろとり とよたろう
士中二番隊所属。原田半隊では嚮導を務めた。維新後、明治9年に「郵便汽船三菱会社」に船舶士官職(現在の航海士あるいは機関士にあたる)に採用される。海運の道を進み、日本郵船の名機関長となった。
坂井峰治
さかい みねじ
士中二番隊所属。戸ノ口原の戦いの後、退却中にはぐれ、塩川で河原田治部の隊(河原田精神隊)に加えてもらった。維新後、名を正義と改め、のちに郵船会社函館支店の課長に進んだ。
参考文献: 『補修 會津白虎隊十九士傳』、『白虎隊事蹟』、『少年白虎隊』、『会津戦争の群像』、『史実会津白虎隊』、『会津白虎隊のすべて』、『要略 会津藩諸士系譜』、『會津藩戦死殉難者人名録』

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