■永瀬雄次君事蹟 (白虎隊事蹟)
■永瀬雄次君の傳
君は永瀬丈之助君の二男である。丈之助君は入江庄兵衛君の実弟であるが、永瀬氏に贅壻(いりむこ)となった人だ。
庄兵衛君は籠城の時、天神口の進撃に、小室隊の組頭として武名を内外に轟かせて戦死した。この進撃の成否は実に鶴ヶ城の運命を決するものであったが、敵を撃退し、且つ追撃して見事に成功したのは、庄兵衛君の力が多かったという。
君の母堂は永瀬熊四郎興雅(おきまさ)君の長女で、名をくら子といった。所謂家付きの嫁はその夫に対し、とかく従順でないものが世間には多いけれども、くら子君は人の妻たるものの模範とすべき婦人であったという。
丈之助君、祐筆という役を勤め、禄十八石三人扶持を賜いて郭外花畑に住んだ。故に雄次君の日新館学籍は尚書塾二番組であった。
君、幼より人の武事を談ずるのを聴くことを好み、また英雄に名乗(なのり)のあるのを羨み、父君に名乗を命ぜんことを請うてやまない。父君、因って『利勝』と命名した。雄次君大いに喜び、これより人がその通称を呼んでも応えなかったという。(明治以前に於いては、普通使用する名、即ち通称と、武家等にて平常余り用いないけれども、儀式等の折に使用する名乗、即ち実名とあった。通称は誕生まもなく命名され、長じて変ずることもあり、また変ぜざることもあった。名乗は稍々(やや)長じて命名された。維新後、名を一つにする令があった。依て通称、実名のうち一つを選択することとなった)稍々(やや)長ずるに及び、武術に熱心し、殊に砲術を善くし、夙(つと)に銃丸製作所に入りてその業を学んだ。
戊辰の役、白虎二番士中隊に編入され、八月二十三日、石莚口が守りを失い、猪苗代城もまた陥り、敵、まさに若松城下に入らんとすと聞いて、朝飯がまだ終わらないに、出陣の支度をそこそこにし、脚絆を両脚に穿(うが)つに及ばず、つと蹶起(けっき:躓いて起きること)し、銃を取って馳せて出た。母君、脚絆の半足を携え、追いかけて諏訪通り(花畑口より郭内に入り、米代を横貫する道路で、永瀬邸より日向邸に至る順路)に至って、漸く追いついて片足を着けさせた。その僕もまた弁当を背負って後を追いかけてきた。時に君、既に隊長日向氏の邸に至り、速やかに出戦しようと促していた。少時(しばらく)ありて衆漸(ようや)く集まった。ここに於いて隊伍を作り、容保公に従って滝沢に向かい、進んで戸ノ口に往って奮戦したけれども、衆寡敵せず終に飯盛山で死んだ。年十六。
雄次君、かねて出陣の用意に、母君に請うて草色の洋服を作ってもらった。草色は即ち緑色である。蓋し山野に於いて戦争するに、草木の葉とその服装と、彩色を同一にすれば、敵の注目を避けて、狙撃される患(うれい)を少なくするに足る訳である。その用意の周到なること感心の次第である。
君に姉君があった。出陣の朝、乾栗(ほしぐり)、大豆、胡桃、松葉を盆に盛り、首途(かどで)を祝った。蓋し乾栗はかち栗と訓し、大豆はまめ、胡桃はくるみ(くる身)、松はまつと呼ぶ。故にこれは戦い勝ちてその恙なく帰り来るのを待つの義に取ったのである。我が国の風習、古よりかようにしたものである。君、そこで皆様の御志は誠に忝(かたじけな)いことであるが、今日はこの御餞(はなむけ)を頂く場合でないと思うと、一つも喫(たべ)ないで辞して去った。これを以ても、死を決して出陣したことが分かる。
君の兄の雄介君は、伏見の変に当たり、大砲隊頭林権助に従って砲戦し、砲弾が尽きて槍を揮って踊り進んだが、敵丸その胸を貫いて斃れた。年二十である。一家から二人の殉難者を出せば光栄というべきである。
丈之助君、戊辰の役に、公命を奉じて水戸に使いに行ったが、帰途捕らえられて獄に繋がれた。一夜大風雨で四面暗黒咫尺(しせき)も分からぬ位であった。因って君、獄丁を欺いて言うに、「余(わたし)は明朝青天白日の身となりて出獄を許されること必定である。故にこれまでお世話になった御礼に、子(おまえ)と一杯を酌んでお別れしたいと思う。どうぞ余(わたし)の為に一樽の酒を買って来て下され」と頼んで、これに金一片(ひとひら)を与えた。獄丁、これを信じて承知して出て行った。丈之助君、その不在をよき折りとし、鍵を探し求めて獄舎の戸を開き、風雨に乗じ虎口をのがれて猪苗代謹慎所(戊辰の九月二十三日、若松開城の後、十五歳以上六十歳以下在城の男子を、猪苗代町に幽閉して謹慎せしめた)に来たのは、開城後であった。その後始めて雄次君が飯盛山で殉難したことを聞き、「嗚呼、倅もまた能(よ)く家名を汚さないでくれた」と言って喜んだそうである。後、斗南(会津藩、戦後陸奥国北郡に移され、斗南藩と称した)に移され、少属に任じ、ついで商法方に転じ、会津移住人取締となったが、明治十一年四月二十七日、病気で死んだ。三本木神道塚に眠る、年五十三であったという。
補修 會津白虎隊十九士傳
■永瀬雄次伝
雄次は永瀬丈之助の二男にして、郭外花畑に住す。父丈之助食禄十八石三人口にして、祐筆たり。兄を又助と呼ぶ。雄次、人となり、深沈、寡黙、戍卒に遭うと雖も、曽(かつ)て疾言(しつげん)遽色(あわてる)せず、居常心志を執ること固く、苟も人と約せば、其の言を食むことなし。某年の春日、滝沢石部桜を観んと欲し、朋友数輩と郊野を散歩す。道に金嚢を遺失する者あり、雄次これを見て拾わず、友人怪しみ之を問う。雄次曰く、「余嘗て師に聞く、君子は道遺ちたるを拾わず、と」。一友これを拾い、中を閲するに其の主を証すべき片紙あり。依って尋ねて之を其の主に還すと言う。
十一歳にして日新館に入り、三等、二等、一等に進み、また武術を修め、戊辰三月、士中白虎隊に編入し、仏式撤兵調練法を受け、八月二十三日、時爽官軍を戸ノ口原に拒き、激戦の末、飯盛山に退き、衆と共に自死す。年十七。
白虎隊勇士列伝 |