■簗瀬竹次君事蹟(白虎隊事蹟)
■簗瀬武治君の傳
土津公の老臣に、簗瀬三左衛門正眞(まさざね)という人があった。純忠且つ直実で、しかも博愛の心が深く、体躯が偉大で腕力があった。老年になり、隠居するに及び、願の上で五男監治直久君に、知行の内百石を分けて与えた。直久君、供番を命ぜられ、功労があった為、更に五十石を加増され、郭内本三之丁に住んでいた。七世の孫を久人君といい、忠恭公(まさおこう:名は容敬(かたたか)、会津松平家第八世の主。贈従三位左中将兼肥後守、謚(おくりな)は忠恭霊神)の近侍であった。
二子あり、長は勝吉君、慷慨の士である。戊辰の役、西軍を防ぎ、各所に転戦し、後雲井龍雄が挙に与し、江戸小塚原(東京府南千住町にあり、昔時死刑を執行したところ)で斬られた。時に年二十。蓋し、薩長政府を倒し、君公の冤(むじつ)を雪(すす)がんとせし赤心(まごころ)であったのである。次は即ち武治君である。
君の母堂は、明治九年、思案橋事件の首謀者として世に名高き永岡久茂の長姉、八重子君である。その性、活発で情義に厚く、能く人の窮を恤(めぐ)んだ人であった。
武治君は嘉永六年八月、家に生まれ、挙動沈静で状貌処女のように優しかったが、志気は勇敢でなかなか動かすことが出来なかった。
十一歳で日新館に入り、三禮塾二番組に編入され、文を学び武を修め、その技量優に同輩に秀でていた。弓術は得意とするところで、かつて飛鳥を射て大いに栄誉を博したことがあった。君、義の為には如何なる事でも為さざる所がなく、また人の急難を救う場合など、躊躇したり回避したりする所がなかった。
十三四歳の頃、父に従い、会津陶器を以て著名な本郷村に至る途中、小松の渡しと称する所の假橋(かりばし:大川に架かる橋)を通った。偶々、一老農婦が来て、君の行列を避けようとして、誤って川に落ちた。時に水漲り、流れ激しく、まさに溺死せんとした。君、着衣のまま忽ち水中に飛び入り、これを救った。見る者、皆々感嘆した。
また、かつて友人数輩と若松市内を散歩した。たまたま火を失するものがあった。時に東風が猛烈で、忽ち数戸を焼き払い、火勢蔓延まさに救う可からざるに至らんとした。君、自ら率先し、諸友と共に消防夫を指揮し、大いに防御に力を尽くした。その為に毛髪半ば焦げ、衣服は所々焼け、身体もまた数ヶ所の火傷を負った。火が沈静して後家に帰り、詳細にその始終を父母に告げた。父母も大いにこれを賞称した。時に慶応三年、君年十五の時であった。
同じく四年三月、白虎二番士中隊に編入され、訓練を受けた。西軍が城下を衝(つ)かんとする時にあたり、八月二十三日、戸ノ口原頭に逆(むか)い戦い、次いで飯盛山で自刃して死んだ。時に年十六である。
父久人君は、一に忠節の大道を以て子供達を訓戒した。故に兄弟皆よく忠孝節義の志に厚く、終に皆節に斃れ国難に殉じた。
武治君がはじめ戦に出んとした時、父君は二子に刀各々一振りを授け、且つ諭して言った。「此の度の戦たるや、彼は衆にして我は寡である。もとより勝ちを得ることが期し難い。唯一死を以て社禝(しゃしょく)に殉ずべきである。我が公の誠忠で毫(ごう:少し)も私曲のないのは、天地神明も照覧ある筈だから、汝が曹苟も未練の行を為して笑を後世に残してはならぬ」と。兄弟感激し、嗚咽拝謝して訣(わか)れた。後、各々訓諭に違わず、天晴れ忠孝の大義を全うした。
補修 會津白虎隊十九士傳
■簗瀬竹次伝
竹次は父を簗瀬久人といい、兄を克吉という。戊辰の役、越後口にて戦死す。父久人、家禄百石、郭内三之丁に住し、近侍を勤む。竹次、嘉永六年八月に生まれる。幼より怜悧活発、性善を好み、悪を悪み、義を見て必ず為さざることなし。また水泳を好みて、之を能くす。かつて父に従い、本郷の陶器を見んと欲し、大川の仮橋を過ぐ。一老農あり、橋を渡り来たり、竹次等を避けんとして、誤って川に墜つ。竹次、忽ち衣を脱し、裸身水に投し、之を救い得たり。またかつて若松市街出火せり、竹次往きて之を見る。偶々風起こり、看々数十戸を延焼す。竹次、傍視するに忍びず、草鞋を求め之を穿ち、消防甚だ力む。沈静の後、家に帰り衣を脱せば、衣袴皆焼け穿ち、また身体微傷あり。家人或は曰く、「汝何為ぞ此の無益の事を為す」と。竹次、笑って曰く、「余聞く、古え身を殺して仁をなす者ありと。身傷つけ、衣を損す、何ぞ顧るに足らん」と。
十一歳にして日新館に入りて学問し、また武芸を演じ、戊辰三月、士中白虎隊に編ぜられ、仏式撤兵調練法を受け、八月二十三日、官軍を戸ノ口原に拒き、激戦の後、飯盛山に退き自死す。年十六。
白虎隊勇士列伝 |