■伊東悌次郎君、池上新太郎君、竹岡捨蔵君の事蹟(白虎隊事蹟)←伊東悌次郎のページをご覧ください
■池上新太郎君の傳
君は嘉永六年五月十日を以て郭外厩町に生まれた。性質慧敏、学問が好きで倦むことがなかった。十歳で藩校の日新館に入り、尚書塾二番組に編入され、喜徳公(水戸徳川斉昭卿の第十九子で、容保公の養子である。侍従兼若狭守に任じ、従四位下に叙せられ、慶応四年家を襲(つ)ぎ、後天山と号した。会津松平家第十世の主である)に扈従(こじゅう)して安積郡福良村に出張し、八月更に隊長日向内記に随って敵を戸ノ口原にむかい撃ち、戦い利あらず、退いて飯盛山に到り、衆と倶に鶴ヶ城を砲烟の間に望み見て、節に殉ずるのは此の秋(とき)にありと刃に伏して死んだ。時に年十六であった。
既にして母君が君が飯盛山に自刃して死んだと聞き、その山に行って見るに、その時吉田伊惣治という者、その遺屍(なきがら)を市外妙国寺に埋めた後で、遺骨一片とその衣服の残片とを分け取って、之を棺に納めて、以て菩提所の法紹山浄光寺に葬って、法名を義勇院忠達日清居士といった。(智勇院眞行日秀居士だという説もある)
君の母堂は佐藤駒之進の姉で、新子といったが、君が幼少の頃池上家を去ったから、君は継母の三浦氏たみ子君に養われた。たみ子君は側医三浦謙良の娘で賢母の名があった。故に君はその感化を受けたことが甚だ深かった。戊辰の役、君の父與兵衛君は、青龍寄合一番組木村兵庫が隊の半隊頭として楊枝口を警備した。父君出陣の後、君は母堂に向かって、「今や事迫って危急存亡の秋(とき)である、わたくしも大人(ちちうえ)と共に屍を原野に横たえて、君公の御恩に報いねばならぬ」と言った。母上、大いにその志を嘉(よ)みして支度を整い、之を送り出して父の軍に従わせた。
君が父君と一緒に居ることが幾許もなくて、白虎隊に編入されるとの命が下った。君、大いに悦び、奮躍して家に帰り、準備をした。後に父與兵衛君、公事を帯びて家に帰り、御用が了(おわ)って出発せんとする時、君を誡めて、「三春、二本松の二藩は既に落城したから、敵が我が会津に侵入することはいよいよ急であろう。然らば白虎隊の出陣も近い内と思う。父が汝(そなた)を見るのも今日限りならん、汝(そなた)戦に臨んでは人に後れを取るな、併し妄りに進んで軍規に違(たが)うな、また家名を汚すな」と言い聞かせて、別れの盃を酌んで東西に袂を分かった。その後幾程もなくして、君は果たして此の忠勇悲愴の死を遂げた。
因みに記す、君が叔父與四郎君もまた、戊辰殉難者の一人である。
補修 會津白虎隊十九士傳
■池上新太郎伝
新太郎は池上与兵衛の長男なり。与兵衛、家禄百石、外様士を奉し郭外厩町に住せり。新太郎人となり、精神活発、親に事えて孝なり。幼より学を好み、十一歳にして日新館に入り、日夜勉強怠らず、三等、二等、一等に進級し、屡々官の賞典を受く。
戊辰三月、士中白虎隊に編入し、仏式歩法を鍛錬し、八月二十三日、官軍を戸ノ口原に防ぎ力闘、遂に戦没す。年十六。
白虎隊勇士列伝 |