簗瀬勝三郎 (やなせ かつさぶろう)
基本事項 住所

郭内本二之丁(三日町通りから東へ四軒目、南側)

身分・家族

簗瀬源吾(物頭を勤め、家禄三百五十石)の三男、生母はとく子(石川定記の叔母)、継母はみお子(神尾織部の次女)。

誕生・特徴

嘉永五年六月一日生まれ。
孝悌。髪は総髪、やせて背高く、面長にて色白、額狭く、眼尻やや下がり、鼻高く、顎とがる。

日新館での学籍 三禮塾二番組
出陣時の服装

黒のマンテル、黒のズボン、韮山笠。黒塗鞘の刀を革にて下げる。

戒名 仁顯院忠壮剣光居士
家系

本姓 : 源
本国 : 不詳

簗瀬三左衛門正真 二男
(初)源左衛門真明 ― (2)源左衛門真利 ― (3)源左衛門真光(婿養子) ― (4)源吾真品(婿養子) ― (5)監治真茫 ― (6)源吾真淳 ― (7)太郎

家紋  石持に木瓜
略伝・逸話

■簗瀬勝三郎君事蹟(白虎隊事蹟)

■簗瀬勝三郎君の傳

 君は源吾君の三男である。源吾君は家禄三百五十石、職を物頭に奉じ、郭内二之丁に住した。母堂は石川定記の叔母で、名をとく子という。軍蔵君及び勝治君は君の兄である。軍蔵君は戊辰の役、某青龍隊の小隊頭を以て白河口に出張して負傷した。
 君は嘉永五年六月を以て生まれ、十歳で母を失い、継母神尾織部友善の二女、みお子君に養われ、親に孝に、兄に悌であった。その年藩校に入学し、三禮塾二番組に編入され、西川勝太郎、野村駒四郎等と親しく交わった。そして馬術は大場儀助に、弓術は一瀬甚五右衛門に、槍術は長坂源吾に、仏式調練は旧幕人畠山五郎七郎、沼間守一に学び、白虎二番士中隊に列し、奮戦激闘したれども、遂に利あらずして飯盛山上に自刃した。年十七、法名を忠壮剣光居士といった。
 君の祖先に監次という人があった。文学を好み、学校講師に任ぜられ、釋奠(せきてん)の際奏楽を司る役であった。その子源吾は兵学の師範である。また以て君が家の古より文武に達せる名門であることが分かるであろう。

                              
  補修 會津白虎隊十九士傳


■簗瀬勝三郎伝

 勝三郎は簗瀬源吾の三男にして、兄二人あり、軍蔵及び勝次という。父源吾は家禄三百石、職を物頭に奉じ、郭内二之丁に住す。勝三郎、嘉永五年六月、家に生まれ、幼時屹として衆児と殊なり、性鋭敏、怜悧にして能く二親に仕え、二兄に悌順なり。
 十一歳にして日新館に入り、漢籍及び武芸を学ぶ。その年の秋、一僕を従え某山に行き、携える所の行厨を一松下に置き、茸を索め把り採て漸く籠に充つ。時巳に午を過ぎ、飢を覚え、よって山を下り、置く所の行厨を索むるに、鳥の食する所となり、余す所幾何もなし。此に於いて帰途に就き、一村落の前を過ぐ。柿樹あり、実既に熟して、黄赤叢す。僕、大いに呼べども、左右人なし、よって一、二実を取りて、勝三郎に呈す。勝三郎、一見之を投し、僕を叱って曰く、「汝聞け、孔子は渇して盗泉の水を飲まず、今吾等飢えるも、何ぞ耐えざらんや。且つ父言えることあり、士たる者は仮令伯夷(はくい:舜の時代、礼を司った人)となりて死すとも、盗蹠となりて生けること勿れと。汝その主を索めて、之を謝せよ」と言えしとぞ。慶応戊辰三月、士中白虎隊に編ぜられ、仏式撤兵調練を受け、八月二十三日、官軍を戸ノ口原に逆い、激戦の余、飯盛山に退き、衆と共に自刃して死す。年十七。

                                     
  白虎隊勇士列伝


注意 : 略伝・逸話は、管理人の判断によって原文にはない句読点を入れたり、( )等でふりがなや説明を加えている箇所があります。

参考文献 : 宗川虎次『補修 津白虎隊十九士傳』、二瓶由民『白虎隊勇士列伝』、神崎清『少年白虎隊』

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