津田捨蔵朝可 (つだ すてぞう ともよし)
基本事項 住所 江戸、芝の会津藩邸
身分・家族

江戸常府新番組士(家禄十三石三人扶持)津田範三の二男、竹岡姓を名乗る。母はすぐ子(石澤太治右衛門の四女)。
兄・助五郎(遊軍士中小池繁次郎隊)、八月二十三日赤井村にて戦死(二十五歳)。

誕生・特徴

嘉永六年生まれ(嘉永五年九月説あり)。
質朴にして活発。身体大きく、面長、色赤黒く、頬やせ、あばた痕あり。額広く、口は小さく、鼻高い。

日新館での学籍 江戸日新館
出陣時の服装

上黒・下白の洋服。刀を革にて下げる。

戒名 清進院勇猛義忠清居士
家紋  丸に釘貫
略伝・逸話

■伊東悌次郎君、池上新太郎君、竹岡捨蔵君の事蹟(白虎隊事蹟)←伊東悌次郎のページをご覧ください

■津田捨蔵君の傳

 房州竹ヶ岡の御固(おかた)め地に生まれた故に、竹岡捨蔵と称したという説がある。本文に芝の藩邸で生まれたとあるのは、或いは誤りかもしれない)
 君の本姓は津田、範三朝則(とものり)君の二男で、範三君は家禄十三石三人扶持、江戸常府新番組士である。芝の会津藩邸にて君を生んだ母君は石澤氏、太治右衛門義則(よしのり)の四女、留守居役民衛(たみえ)君の妹で、名をすぐ子といった。母君は志操堅固で、非常に然諾を重んじた(軽々しく引き受ける事はないが、一旦引き受ければ必ずこれを成し遂げた)人であった。
 君、名は朝可(ともよし)、人となり質朴で且つ活発であった。幼少から武術を嗜み、また文芸も好きであった。而して藩邸の校舎に学び、勉学怠ることがなかった。 また時々両三人の友達と一緒に、芝浦から一艘の小船に乗り、時には風波の荒い沖中に至るも、泰然自若その行くままに任せて、書を読んでいることが時々あった。
 天下多事ならんとするに当たり会津に帰り、戊辰の年三月、白虎士中二番隊に編入され、戦利あらず飯盛山で死んだ。享年十七であった。
 君、或る時その家に蔵せる所の古鎧一領を見て父君に「これは何人の着た鎧であるか」と問えば、父君は「これ即ち我が家の遠き祖先なる大谷吉隆君の遺物である」と答えた。君、また「吉隆君は如何なる人であるか」と問うと、父君は答えて、「吉隆君は豊臣氏に仕え、石田三成と仲が善く、三成が密かに上杉景勝と謀って、東照公(徳川家康)を除かんとした時、君はその非謗なることを言葉を極めて諫めたけれども、三成が聴き容れない。君、そこで思うに、吾三成と古き誼(よしみ)がある、今度の軍(いくさ)の到底勝てないのを知りながら、これを棄てるのは義でないと、遂に三成に与し、平塚爲廣等と関が原に出陣した。時に君、病気であったから、輿(かご)に乗って爲廣等をして代わって指揮せしめた。爲廣、東軍と戦い、その敵すことの出来ぬのを知り、打ち取る所の首級と辞世の和歌とを君に贈った。歌に曰く、
  君の為捨つるいのちは惜しからずつひにとまらぬうきよと思へば
 吉隆君、返歌して曰く、
  契りあれば六つのちまたにしばし待ておくれさきだつことはありとも
 そうして遂に自殺したという。以てその人物が分かるであろう、その遺物なれば先祖から今に至るまで、大切に所蔵してきたのである」と。君、これを傾聴し慨然としてその鎧を取り出し、直ちにこれを着て刀を抜き放ち、三回踊り上がって敵の首級を斬る真似をしたという。
 君の令兄助五郎朝成(ともなり)君は、堀半右衛門の隊に附属し、伏見の戦闘に参加し、後、朱雀士中第四中隊頭佐川官兵衛の隊員となり、五月中越後妙見附近で負傷し、その為帰藩し、八月二十三日、遊軍寄合組小池繁次郎の手に属して赤井村で戦死した。齢二十四。

                              
  補修 會津白虎隊十九士傳


■竹岡捨蔵伝

 捨蔵は津田半蔵の子なり、半蔵は江戸常詰新番組士にして、東都芝会津藩邸に在り、禄十三石三人口なり。捨蔵、人となり、怜悧活発、甚だ品行を重んじ、未だ曽(かつ)て過失あらず。幼より学に就き、芝藩邸の学校に入り勉学、夙夜怠らず、三等より二等及び一等に進み屡々官の褒賞を受く。戊辰の春、挙家会津に帰り、三月、士中白虎隊に編入し、仏式歩法を鍛錬し、八月二十三日、官軍を戸ノ口原に防ぎ奮激力闘、遂に戦没す。年十六。

                                     
  白虎隊勇士列伝


注意 : 略伝・逸話は、管理人の判断によって原文にはない句読点を入れたり、( )等でふりがなや説明を加えている箇所があります。

参考文献 : 宗川虎次『補修 津白虎隊十九士傳』、二瓶由民『白虎隊勇士列伝』、神崎清『少年白虎隊』

戻る時は、ウィンドウを閉じてくださいm(_ _)m