津川喜代美 (つがわ きよみ)
基本事項 住所

郭内米代二之丁(桂林寺通りから東へ五軒目)

身分・家族

高橋誠八(家禄百石)の三男、家禄百五十石の津川瀬兵衛の養子となる。生母はえつ子(有賀惣左衛門の三女)。
次兄・高橋八郎(朱雀町野隊)は八月十日小松関門にて戦死(二十歳)。養父・津川瀬兵衛(玄武伊与田図書隊)、九月十七日一堰にて戦死(六十三歳)。

誕生・特徴

嘉永六年生まれ。喜代美は清美、潔美とも。
仁慈にして勇敢。髪は総髪にて背丈高く、面長にて色白く、眉濃く、眼丸く鋭く、鼻高く通る。

日新館での学籍 尚書塾一番組 (毛詩塾一番組?)
出陣時の服装

上下とも黒洋服、小袴、脚絆。

戒名 清進院良誉英忠居士
家系

【津川家】(養家)
本姓 : 藤原
本国 : 肥後

津川勘右衛門勝生 男
(初)文左衛門勝尚 ― (2)五助勝美(婿養子) ― (3)四郎左衛門勝治 ― (4)七左衛門勝興 ― (5)七左衛門勝休 ― (6)権次郎

【高橋家】(実家)
本姓 : 不詳
本国 : 不詳

高橋外記重元(ママ) 四男
(初)藤八重宮 ― (2)雄蔵重兼 ― (3)藤八重雄

家紋  七曜
略伝・逸話

■津川潔美君事蹟 (白虎隊事蹟)

■津川喜代美君の傳

 君は藩士高橋誠八重固(しげかた)君(世禄百石)の三男である。誠八君の養父高橋某氏没し、其の子金吾氏は猶幼少だから、誠八君を養嗣子として、そして金吾氏を誠八君の嗣とならせた。
 母は有賀氏、惣左衛門君の三女で、幼名をあぐり子といい、後えつ子と改めて、戊辰の乱に青龍一番士中隊の中隊頭となり、驍名を轟かせた、後の惣左衛門君は、えつ子君の弟である。えつ子君、身体強健で身の丈高く、志操堅実で侵すことの出来がたい威望があった。
 喜代美君、幼名八三郎、津川瀬兵衛君の養子となった。瀬兵衛君、家禄百五十石外様士で、郭内米代二之丁に住んでいた。津川氏は元肥後の人、津川茂兵衛は加藤清正に仕え、使番を勤め禄千石を領した。朝鮮征伐の役に従って、戦功があった。其の子勘右衛門勝生(かつなり)もまた清正に仕え、抜擢されて普請奉行となり、禄八百石を領した。後、その家老加藤右馬之丞が、八代城を預かる時に当たり、勘右衛門これに従って移り総奉行に任じ、且つ清正の命により右馬之丞の妹を娶った。このようなことは蓋(けだ)し稀に見る栄誉であった。
 清正既に没し、忠廣が領地を召し上げられる時に及び、故あって会津に来た。そうして、其の子の文左衛門勝尚の時になって、召し出されて北原采女(会津九家の一)の組与力となった。時に寛文二年で、これが瀬兵衛君八世の祖である。
 喜代美君、情深く勇気あり、十歳で日新館に入学し、尚書塾一番組に編入され、在学中屡々賞賜を受けた。或る日、同窓生数名と学校から帰ったその時、道に蛇が横たわっているのを見た。衆、これを殺さんとした。君、これを止めて、「今蠢爾(しゅんじ:うごめく)としている一匹の小蟲を殺した所が、固より我が技倆(ぎりょう)を示すには足らぬ、さすれば何の益もないわけ故、殺すのは止め給え」と言った。皆々、その言に服して各々家路に就いたという。
 また或る時、母に従って中田観音に参詣した。中田村は城下の西二里余の処にある。一茶店に憩い、午餐を食べた其の時に、一大斑(ぶち)犬が蹲っており、頗る獰猛に見えた。君、去るに臨み、残った肴を取って之を与えた。其の時犬は高く躍り上がって、誤って君の親指を噛んだ。鮮血が未だ迸らぬうちに、君自らその指の端を噛み切り、之を地に投げ打って母に言うに、「こうしておけば犬の歯の毒が身に及ぶ患(うれい)がない、どうぞご心配下さるな」と。併し尚、碧血淋漓と滴れば、母君の驚かれんことを恐れ、あり合う木綿切れを以て包帯し、従容として緩歩し、参詣し終わって帰った。
 また、かつて家の系譜を見て慨然として言うに、「嗚呼、我が祖先は明主の重臣で、忠節を尽くし、遂に武名を海の内外に輝かせた人であった。余不肖なれども、いやしくも其の後を襲(つ)いだ以上は、焉(いずくん)ぞ戦功を立て名を歴史に残し、祖先の徳を顕(あらわ)さないで止(や)まれようか。況して四彊(きょう)敵を受くるの今日に当たりては、尚更安閑として日を送ってはおられぬ」と、聞く者皆これを壮(さかん)なりとした。
 戊辰三月、白虎二番士中隊に入り、仏式調練法を修めたが、国事の日々に非なるのを見て大いに慨歎し、遂に戦場に出て奉公の義務を尽くさんことを希望した。折しも春日和泉の白虎一番士中隊、原早太の白虎一番寄合組隊が、越後方面に出るのを見て羨ましくて堪えられず、同方面に出ていた朱雀四番士中隊員たる長兄金吾、次兄八郎両君の許に八月十一日の日付で左の書を送った。
  (上略)壹番白虎並(ならびに)寄合組御表へ出張仕候小子義は当方にて安楽いたしおり、誠に以て不安事(やすらかざること)には候得ども是(これ)以(もって)よりどころ無き次第に御座候(下略)
 八月二十三日、君西軍を戸ノ口原に防ぎて奮戦したが、力尽き退いて飯盛山上で自刃して死んだ。時に年十六。君が首途(かどで)の詠(えい)に、
  かねてより親の教のときはきてへふのかどでぞ我はうれしき
 瀬兵衛君は戊辰の年、齢(よわい)六十三、伊与田図書が長たる玄武士中隊に属し、九月十七日、一ノ堰の激戦に死んだ。嗚呼、瀬兵衛君父子が共に節を全うしたのは、実に津川家の為に祝す可きである。
 君の実兄高橋八郎君は、町野主水が朱雀士中四番隊に属し、越後方面石間口小松関門を守り、八月十一日目覚しい働きをして遂に戦没した。時に歳十九であった。

                              
  補修 會津白虎隊十九士傳


■津川喜代美伝

 喜代美は津川瀬兵衛の長男、実は同藩士高橋誠八の二男なり。瀬兵衛男子なきを以て養うて子とす。家禄百五十石、瀬兵衛職外様士にして、郭内米代二之丁に住す。
 喜代美、人となり天性温良、恭謙能く人に遜(ゆず)り、二親に事(つか)えて孝なり。十歳にして日新館に入り、三等、二等、一等に進級し、屡々官の賞与を受く。また習字を能くし、試みられて良硯を賞せらる。戊辰三月、士中白虎隊に編入し、仏式撤兵調練法を習い、八月二十三日、官軍を戸ノ口に拒き寡を以て衆を撃ち奮戦大いに人目を驚かせり。然れども蟷螂(かまきり)の竜車に向かうか如く衆寡敵せず、遂に力竭(つ)きて飯盛山に退き、衆と共に自刃し、永く該山の鬼となる。年十六。

                                     
  白虎隊勇士列伝


注意 : 略伝・逸話は、管理人の判断によって原文にはない句読点を入れたり、( )等でふりがなや説明を加えている箇所があります。

参考文献 : 宗川虎次『補修 津白虎隊十九士傳』、二瓶由民『白虎隊勇士列伝』、神崎清『少年白虎隊』

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