鈴木源吉君事蹟 (白虎隊事蹟)
■鈴木源吉君の傳
寛永年間(東山天皇の御宇)、備中の人鈴木玄的(げんてき)といえる者、徳翁公(とこおこう:名は正容(まさかた)、左中将兼肥後守に任ぜられ、正四位に叙せられた。卒後、徳翁霊神と謚(おくりな)した、会津松平家第三世の主である)の侍医となった。公、ある日従容として問うて、「汝讃州長尾全庵の家傳である保眞丸(ほしんがん)の製法を知っているか、もし之を知らば、余が為に之を製してくれよ」と言われた。玄的、答えて「臣もまた愚案がござる、然し薬剤の種類分量、或いは少しの異同があるかも知れず、就いては是非使いを讃州にやって、親しく全庵に質問されるのが宜しいでしょう」と丁寧懇切に申し上げた。公、因って使いをやって之を質問し、其の処方を記載して送らせたところ、毫(すこ)しも玄的の処方と異なることがなかった。是に於いて、公、玄的を寵用したから、玄的の名は遠近に聞こえた。
玄的君、自ら奉ずることは、頗る勤倹を旨としたけれども、貧者が薬代を持参するものがあれば、固く辞退して受けなかった。
玄的君五世の孫を、玄甫重積(げんほしげもち)君といった。祖先からの家業を受け継いで、藩医を命ぜられた。男子なきを以て、鈴木傳内重哉(しげちか)の弟を養子とした。(傳内重哉は澤田名垂の高弟で、詠歌を以て称せられた人である) 是(これ)実に源吉君の父、後の玄甫君である。側医となり、禄は百二十石を領して、郊外長丁に住し、内科を以て評判が良く、診察を頼む者が常に門前に充満した。源吉君の母堂は重積君の娘で、名をさだ子といった。
源吉君、十歳で日新館に入校し、毛詩塾一番組に編入され、文武の技芸に長じた。槍術は宝蔵院流、剣術は眞天流を学び、最も砲術が好きであった。
戊辰の役、白虎隊に入り、奮闘して利あらざるを慨(なげ)き、飯盛山に於いて刃に伏して死んだ。時に年十七、顯忠院達誉義勇居士は其の法名である。
初め、君が出陣に当たり、家兄の金次郎君、その愛蔵する所の冬廣の短刀を与えて言うに、「もし負傷の為に虜とならば、速やかに自殺して敵の辱めを受けてはならぬ、是が其の用意であるぞ」と。君、拝謝して、「有難き御訓戒、謹んで御言葉を守ります」と言い、仏壇を礼拝し、其の短刀を帯び、雀踊(こおど)りして家を辞したという。
補修 會津白虎隊十九士傳
■鈴木源吉伝
源吉は玄甫の二男なり、兄を金次郎という。博学篤行の人なり。父玄甫は藩医にして食録百二十石、郭外長丁に住し、内科術に巧にして、頗る名望あり、故に診薬を乞う者、絡繹絶えず(往来が絶えず)。
源吉、人となり沈静、黙人、人と抗争せず、幼より学を好み、十歳にして日新館に入り、三等、二等、一等を歴、爾来益々勉強、既に講釈所生に昇らんとして、此の災厄に遇し、戊辰三月、白虎隊に編ぜられ、八月二十三日、官軍を戸ノ口原に逆(むか)い、奮戦の後、飯盛山に退き、自刃す。年十七。
白虎隊勇士列伝 |