■石山虎之助君事蹟(白虎隊事蹟)
■石山虎之助君の傳
真正の勇気というものは、急躁や過激の人にはなくて、温厚で沈重の士にあるものである。此の真正の勇気は平居無事の日には現れないで、非常の時に当たって初めて発動するものである。察するに石山虎之助君は此の種の人であろう。
君は会津の世臣井深数馬君の二男で、母堂は土屋氏そわ子といい、省吾惟一の三女である。虎之助君、幼名は直次といい、後行田(なめた)虎之助と称した。同藩の石山弥右衛門君が、子がなかったから養って嗣とした。弥右衛門君は世々郭内四之丁に住み、食録が百五十石、外様士(番頭に隷属して騎馬を許される上士なり)で武勇を以て一藩に聞こえた人である。君が三代の祖の安興君は武術に精(くわ)しく、特に槍の名人であった。会津藩で武芸を演習する技のうちに追鳥狩(おとりがり)という事があった。これは毎年秋季に日を決めて、数多の鳥獣を放ち、藩士をして馬上に鞭を揮って之を追捕せしめ、一番から三番に至るまでを特功として藩公より賞賜あるのを例とした。合図の太鼓が鳴り、いざ競争となれば、騎馬が縦横に馳せちがい、呼ぶ声は山々谷々に響き渡り、その猛烈で壮観なこと実戦を見るようである。これは戦場で敵の首を獲る真似をするもので、要するに武術を実習するのである。安興君、寛政五年九月の追鳥狩で、一番獲をなし、銀銭を賜った。実に非常の栄誉である。君の実父数馬君もまた勇武の士で、騎射を能(よ)くした人である。
君は嘉永六年七月二十三日を以て房州君津郡竹ヶ岡で生まれた。(竹ヶ岡は当時会津藩が幕命で衛戍(えいじゅ:護ること)していた土地である) 資性温和であるが、心の内に蓄えている勇壮の精気は、凛として眉宇の間に表れて、犯すべからざるの様子があった。君は穎敏で記憶力に富み、五六歳の頃、百人一首を暗誦して、首(はじめ)より尾(おわり)に至るまで順序を誤ることがなかった。また常に談話を聴くことが好きで、幼より祖父母の膝下に侍り、昔譚(むかしばなし)を聴き、捕殆ど寝食を忘れた。古の英雄豪傑の戦争する有様や、その人々の高義忠勇なる談話を聴く毎に慨然として予も成長すれば必ずかようの人となるべし、と言った。君が他年戦争に出て、節義の為に自刃せしが如き正気は、実に幼少の時の昔譚に因って養成せられたものが少なくなかったのであろう。
君、文久三年、十一歳で始めて藩校日新館に入り、毛詩塾の二番組生徒となった。文武の技芸が共に俊秀で、恩賞を受けたことが屡々であった。
郭内本一之丁に御用屋敷と称する官舎があった。夜半に此処を通る者は、必ず何か不思議を見るといって、人々が通ることを嫌い、恐れる所であった。或る夜、少年五六人某家に会合した。談話が偶々この事に及び、籤を引いて当たった者は彼の屋敷に往くべきことを約束し、籤を引いたところが丁度君が之に当たった。時に夜更けで人は寝静まり、且つ微雨がしとしとと降り頻り、四面は真っ暗で甚だ物凄かった。君、恐るる色なく少しも躊躇せずに行き、しかも数回御用屋敷の前を往環(ゆきき)して帰って来た。一座の人々、之を信じなかった。君、「君等疑わば当地に就いて之を検(しら)べよ、予は目印の栞を為して来た」と言った。そこで人々、燈(ともしび)をつけて往って見れば、果たして門柱に君が家の定紋を彫った小柄小刀を刺して置いてあった。一同、はじめて君が剛胆に感服した。その時、君は僅かに十三歳であった。
戊辰の役起こるに及び、白虎士中二番隊に編入せられ、西軍が国境に迫るや、八月二十三日早朝、城東戸ノ口原に迎い撃ち、突戦奮闘して全隊が四散するようになって、君同志と共に飯盛山に登り自刃した時に年十六である。
君の実父井深数馬君は、軍事奉行添役であったが、八月二十三日、甲賀町口郭門と防ぎ守って遂に戦死し、また君の養叔父石山司君は、原田主馬が朱雀三番士中隊の一員として、八月二十九日、長命寺大進撃の戦争に加わり、奮闘して、これもまた戦死した。
補修 會津白虎隊十九士傳
■石山虎之助伝
虎之助は石山弥右衛門の長男にして、実は同家中井深数馬の二男である。弥右衛門男子なきを以て数馬に請うて虎之助を養い、甚だ之を鍾愛(しょうあい)した。弥右衛門は家禄百五十石、郭内四之丁に住し、外様士を勤める。
虎之助は、嘉永六年癸丑三月、家に生まれた。天性活発怜悧、父母に事(つか)えて孝行した。且つ記憶に長じ、幼時母の膝下に在って種々の談話を聴き、よくこれを記性し、久しくこれを忘れることがなかった。また慈仁にして博(ひろ)く人を愛し、長上に仕えて恭謙であった。かつて、日新館に猿楽を奏し(俗に能狂言という)、桟敷を掛け、藩士の子弟をして縦覧させた時に、南北学館の子弟数十人遅れて来て、桟敷の外に露座(直に座ること)した。偶々俄かに曇り、雨が激しく降り出して騒然となった。虎之助、速やかに立ち、学館の子弟を招いて桟敷内に入れた。狭い場所で肩を寄せ合って雨を避ける人々が、「彼らは卑席の者であるのに、何故君はそんなに親切にするのか」と訊いたところ、虎之助は「私はかつて、師にこのようなことを聞いた。士たる者は己の欲するところを人に施せ、と。また我が父も、人たる者は皆、己を損じ、人を益とみなすべきである、と言われた。それ故、私は彼らを桟敷内に入れて、雨を避けられるようにしたのだ」と答えた。
戊辰三月、撰ばれて士中白虎隊に編入し、仏式撤兵調練を受け、且つ射的術を鍛錬し、八月二十三日、官軍を戸ノ口原に拒(ふせ)ぎ、激戦の後負傷して飯盛山に退いた。西南に鶴ヶ城を望めば城上を黒煙が覆い、大小の砲声が耳を劈(つんざ)いた。因って、城は落ち、主君も城と運命を共になされたと思い、衆と共に屠腹して永く該山の霊鬼となる。年十六。
白虎隊勇士伝
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