■伊東悌次郎君、池上新太郎君、竹岡捨蔵君の事蹟(白虎隊事蹟)
■伊東悌次郎君の傳
君は郭内米代四之丁に生まれた。十一歳で日新館に入り、尚書塾一番組に編入され、勤学を以て藩公から屡々賞賜を受けた。大伯父の某氏は柔術に精しく、また君の家は砲術家山本覚馬氏の宅と接近していたから、君は柔術と砲術との二つの技は子供に似合わず中々上手であり、また馬乗りが好きであった。戊辰の年三月白虎二番士中隊に編入され、喜徳公に従って安積郡福良村に出張した。その時、平素通学の際に佩(お)びる所の大小を腰にして赴いた。在陣数日で福良村から父君に宛てた手紙が来た。被(ひら)き見れば、「武士たるものが主君を衛(まも)るのに利刀がなくてはならぬ、切に冀(こいねがわ)くば良き鍛冶の鍛えた物を頂戴したい」という趣意であった。是に於いて父母は嚢(ふくろ)を傾けて備前兼光が作る所の大小刀を購(あがな)った。而して未だ之を送らぬ内に、君は君公に扈従(こじゅう)して帰り、その刀を視るに、凛乎たる(気高く立派で)秋霜夏猶寒く(鋭利な刀であり)、鋼鉄でさえも斬れそうである。君、欣然拝謝して父君に、「之を佩(お)び、国家に報うべし。誓って父上の恩賜を空しいものにはしない」と言い、八月二十二日、その刀を佩(お)び、容保公に従って滝沢に向かい、夫(そ)れより進んで戸ノ口原に戦ったが、利あらず、衆と倶(とも)に剣に伏して飯盛山に殉難した。時に年十七。
明年の三月、親戚井深茂太郎君の遺族が茂太郎君の死所を卜(うらな)った。占者は、「茂太郎君は飯盛山に殉じ、戦友と共に同所に葬った」と言う。遺族がその言を頼りにして飯盛山に到り、屍体を掘り起こして視、その着ていた陣羽織の紋章に因り、茂太郎君なることを認め、また氏名を書いた板札を帯びていたのを以て君の屍が分かり、直ちに君の親戚に報せた。時に君の遺族は新屋村に居り、茂太郎君の遺族は冬木沢村にいた。因って共に各々その頭髪を棺に納めて之を菩提所に埋め、屍体はそのまま飯盛山に留めた。
君の父君、名は祐順(すけより)、初め辰之助と称し後左太夫(さたいふ)と改める。母堂名はすみ子、武川氏、青龍五番足軽中隊頭武川頭軒(むかわずけん)君の姉で、陸軍一等主計正武川房之進君の伯母である。容姿美麗で、然も婦徳があり、能く左太夫君に仕えた。左太夫君は幼にして学を好み、本藩の鴻儒宗川儀八郎茂に師事した。茂は育英の道に長じて、その門下から人才が続々出た。広澤安任、永岡久茂、柿澤勇記の如きがそれである。祐順君もまた、宗川門下の優れたる才物の一人で、学成ってから世禄百三十石を継ぎ、儒者見習、用所密事頭取、軍事方、大目付等の役々に累進し、戊辰の乱後には喜徳公の侍講に任じ、在任中東京で没した。時に年四十六。
俊吾君は、左太夫君の父である。金山奉行の役にまでなった。西軍の外郭に迫るや之を甲賀町口に防いで戦死した。年七十三であった。
補修 會津白虎隊十九士傳
■伊東悌次郎伝
悌次郎は伊東左太夫の二男にして、兄あり、栄吾という。左太夫、食録百三十石、外に役料六十石付す。郭内米代四之丁に住し、その性温恭にして、能く人を愛し、好んで漢籍を読み、初め儒者見習となり、日新館講釈所に奉勤し、後、職を大目付に進む。
悌次郎、人となり温柔恭和、能く父母に事(つか)え、能く朋友に交じる。殊に姿容優美なり。十一歳にして日新館に入り、日夜勉学怠らず、三等、二等、一等に進級し、屡々官の賞典を受け、既に講釈所生に昇らんとして此の役に遭い戊辰三月、士中白虎隊に編ぜられ、仏式歩法調練を鍛錬し、八月二十三日、官軍を戸ノ口原に防ぎ、激闘遂に戦没す。年十七。
白虎隊勇士列伝
■山本八重子による逸話
私の兄覚馬はご承知の通り砲術を専門に研究していましたので、私も兄に一通り習いました。当時白虎隊は仏国式教練をやっていましたので、射撃の方法はよく知っていますが、それでも時々射撃の事で遊びに来ました。隣家の悌次郎は十五歳のため白虎隊に編入されぬのを始終残念がっていましたが、よく熱心に毎日来ました。そこで私は「ゲベール銃」を貸して、機を織りながら教えましたが、最初の五、六回は引き金を引く毎に雷管の音にて眼を閉じるので、其の都度「臆病、臆病」と私に叱られ、案外早く会得しました。次に櫓(照尺)の用法や各種姿勢の撃ち方などを教え、大概できたので、今度は下げ髪長ければ射撃の動作を妨げる理由を説き、これを短く切ってやりましたが、特に厳格な伊東家に無断で断髪したのは乱暴極まるとて、痛く母に叱られました。しかし悌次郎はあの通り生年月の正誤を上表して白虎隊に入り、敢えて人後にも落ちず、立派に飯盛山上の露と消えましたが、あのような子供も君の為を思うて熱心に習いに来てあったかと思いますと、誠に可哀想でなりません。
會津戊辰戦争 |