林八十治光芳 (はやし やそじ みつよし)
基本事項 住所 郭外新町三番丁
身分・家族

林忠蔵(家禄十六石五人扶持)の長男、生母はみよ子(上田甚太夫の長女)、継母はとき子(筒井一学の妹)。

誕生・特徴

嘉永六年一月六日生まれ。
才智あり、敏捷。髪は総髪、背丈低く、肥え、面長にて色赤黒く、耳大きい。

日新館での学籍 二経塾二番組
出陣時の服装

上下黒の洋服、黒ラシャのチョッキ。黒鞘の刀を革にて下げる。

戒名 義光院剣誉忠勇清居士
家系

本姓 : 不詳
本国 : 不詳

(初)林喜左衛門某 ― (2)喜左衛門某 ― (3)喜左衛門光重 ― (4)喜左衛門光伴(婿養子) ― (5)与左衛門光甫 ― (6)与左衛門光興 ― (7)忠蔵府光

家紋  黒持横木瓜
略伝・逸話

■林八十治君事蹟(白虎隊事蹟)

■林八十治君の傳

 八十治君、名は光芳、嘉永六年正月六日、郭外新町三番丁の宅に生まれる。父は忠蔵光和(みつまさ)、食録十六石五人扶持、母君みよ子は上田氏、甚太夫次須(つぐとも)の長女である。君、四歳で母君没したから、継母とき子筒井氏、一学の妹に養われた。
 忠蔵君、博識多才を以て称され、外様士より日新館の素読所勤めとなり、子弟の薫陶方宜しきを得、その評判が非常に善かった。後、擢んでられて用所役人となり、幾許もなくて用所密事勤となり、近習一の寄合席にのぼった。その時分には、家老の多くは門閥の出身で、無能無識であったから、実権はその属僚たる用所勤務の人々に帰した。其の頃の俗謡に、
  御用所様には及びもないが、責めてなりたや御家老に。
 というのがあった。以て用所勤務の人々の権威あったことが分かるだろう。故に用所役人の人選は頗る厳正にしたものだという。
 戦乱起こるに当たり、忠蔵君は陣将である家老一瀬要人隆知(いちのせかなめたかとも)に従って、越後方面に出張し、隆知を輔佐して功績があった。
 八十治君は父母に孝に、兄弟に友に、朋友に信で、文久二年四月、十歳で日新館に入学し、(君の住所は新町に在るを以て、学籍は二経塾二番組にあった)十一歳で既に四書、五経の素読を卒え、三等にのぼり、特別試験に合格し、賞として四書集註一部を戴いた。(昇級の権は素読所勤にあれども、十二歳未満ならば、儒者の特別試験を願うことができる。これに合格すれば賞を受けるのである)十二歳で二等に進み、十三歳で一等に進み、十四歳未満なるを以て特別試験に合格し、賞として小学、近思録、各々一部を戴いた。十五歳で講釈所即ち止善堂に入るを得た。入学は儒者の行うところであれば、別に特別試験がない。而して君、十六歳未満なるにより、賞として詩経集註、周易本義、各一部を戴いた。
 慶応二年、十四歳で書学一等に進み、特別試験に合格して、甲州雨畑産の硯一面を戴いた。また、印西派の弓術を小川有太郎に、眞天流の剣術を石澤外次郎に学び、その技に長じた。また、好んで詩を作ったが、戊辰の兵燹(へいせん)に罹り遺稿の残っているものがない。上述の如く連年賞与を得た人はその例の少なき所で、君が天性の敏捷で人に過ぎたる才智の致す所だけれども、父君の指導が宜しきを得たからである。戊辰の三月、白虎二番士中隊に編入され、教練を旧幕府の歩兵差図役頭取畠山五郎七郎に受け、七月天山公が東方面へ出張の際、その護衛の為に、君は所属の隊と共に従って、安積郡福良村に行った。この頃、国事は益々非にして、八月二十一日、勝軍山は遂に守を失い、敵兵まさに城下に迫らんとした。八月二十二日、白虎二番士中隊が出陣を命ぜられ、君もまさに家を出でんとし、皆々に暇乞いをした。時に祖母いし子君戒めて、「諸事油断なく心がけ、大切に御奉公すべし」と。君、答えて言うに、「かねての庭訓も充分よく心得ており、今また祖母君の御教えがある、大節に臨んでは身命を以て、君恩に報ゆる一事あるのみです」と、勇んで出陣し、それより隊頭日向内記に従い、滝沢村に至り、翌二十三日戸ノ口原に激戦して負傷し、力尽き、遂に飯盛山に退き、鶴ヶ城に向かって再拝し、従容として屠腹した。時に歳十六。
 明年四月十八日、君の祖母君、飯盛山に登り白虎隊士が節を全くせし現場に至り、遺骨を拾い集め、これを徒(かち)の町頓教山一乗寺先塋の次に葬り、法名を義光院剣誉忠勇清居士といった。
 因みに記す、君の叔父角田(つのだ)五三郎君は、朱雀二番士中小野田雄之助の隊員であったが、九月二十四日、大沼郡大蘆村に於いて戦死した。時に歳二十三。

                              
  補修 會津白虎隊十九士傳


■林八十治伝伝

 八十治は林忠蔵の長男なり。忠蔵は博学多才の人なり、禄十石三人口、郭外新町三番丁に住し、外様士より擢ぜられて、用所役人となる。用所役は、藩士の撰挙法を司る枢密の官なり。故に公用の外、親族朋友といえども来往交通せず。居常謹慎自重、其の職に適う。後に日新館の教職となり、能く子弟を薫陶す。
 八十治、嘉永六年九月に生まれる。人となり、温順恭謙、居常謹重にして未だかつて過失あらず。父母に事えて孝あり、父母また甚だ之を鍾愛す。かつて朋友数輩と大川の漁を約す、時方に天陰りて雨ふらんとす。母、之を止む。八十治既に調度を畢(おわ)り、朋友また門に至る。然れども母の言に背かず、徐かに門に至り、縷々友人に陳情し、謝らせりと言う。
 十歳にして日新館に入り、三等、二等、一等を歴、爾来益々勉励し、十四歳にして講釈所生に及第し、賞典を受く。人、之を栄とす。
 戊辰三月、士中白虎隊に編入し、仏式撤兵調練法を受け、八月二十三日、官軍を戸ノ口原に拒き、激戦負傷、剣に仗(よ)り間口、飯盛山に退き、衆と共に自刃し、永く該山の鬼となる。年十六。

                                     
  白虎隊勇士列伝


注意 : 略伝・逸話は、管理人の判断によって原文にはない句読点を入れたり、( )等でふりがなや説明を加えている箇所があります。

参考文献 : 宗川虎次『補修 津白虎隊十九士傳』、二瓶由民『白虎隊勇士列伝』、神崎清『少年白虎隊』

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