安達藤三郎清武 (あだち とうざぶろう きよたけ)
基本事項 住所

郭内米代一之丁(桂林寺通りから西へ二軒目、小野田家)

身分・家族

小野田助左衛門の四男(三男とも)、故あって安達姓を名乗る。父は物頭を勤め、家禄四百石。母はみさ子(中林助左衛門の長女)。家督は長兄の雄之助が継いだ。

誕生・特徴

嘉永五年生まれ。
優柔温和。髪は総髪、身体大柄、色赤黒く、丸顔。眉濃く、眼大きく、唇厚い。

日新館での学籍 尚書塾一番組
出陣時の服装

柿色の筒袖羽織、黒の小袴に脚絆、陣刀ごしらえの蝋色鞘の刀を革にて下げる。

戒名 信忠院殿英山見雄居士
家系

本姓 : 藤原
本国 : 伊勢
土方河内守様家来 小野田与三衛門正吉 三男
(初)助之進直方 ― (2)官兵衛直成 ― (3)助左衛門直胤(婿養子) ― (4)助右衛門直昌(嫡子) ― (5)与左衛門直俊 ― (6)午助直行(嫡子)

家紋  蔓木瓜
略伝・逸話

■安達藤三郎君事蹟 (白虎隊事蹟)

■安達藤三郎君の傳

 光格天皇の御字、文化二三年の頃、ロシアの国が我が北辺に寇(あだ)を成した時、幕府は役人を蝦夷地に遣り、また奥羽の諸侯に命じてこれに備えさせた。我が藩もまたこれに与(あずか)って、軍将内藤源助信周(ないとうげんすけのぶちか)、陣将北原采女光裕(きたはらうねめみつひろ)をして兵員約千五百名を率いて蝦夷地に赴かせた。
 時に本藩の侍で小野田弥右衛門(おのだやえもん)という者、部屋住の身を以て奮って従軍し、彼の地に赴いて功績があった。事が済んで会津に帰った時、その日すぐに旅の支度も取らず、そのままで君公の前に召され、酒肴を給いてこれをねぎらい、慰められた。蓋(けだ)しこのようなことは滅多にないことで、時の人はこれを非常に栄誉とした。この人が実に君の祖父の午助君の兄君である。(弥右衛門君を君の祖父君だという説もあるが、何れが本当か判らない)
 君の父君を小野田助左衛門君という。君はその四男である。幼名を速橘(はやきつ)といい、故あって安達姓を名乗った。(本藩の俗士人の二三男で、或いは母の生家の氏またはその家に縁故ある氏を称する者が稀ではなかった。白虎隊の生残者飯沼貞吉君が、加納貞吉と称したるが如きその一例である。小野田家と安達家が如何なる関係であったか、その訳は今知ることが出来ない)
 助左衛門君、物頭(ものがしら)という役を勤め、食録四百石を戴き米代一之丁に住んでいた。母堂名はみさ子、中林助左衛門の長女である。
 君十一歳で藩の学校日新館に入学し、尚書塾一番組に編入された。(日新館内で毛詩(もうし)三禮(さんれい)尚書(しょうしょ)二経(じけい)の四塾があった。塾中の生徒を二組に分け、一番組、二番組といった。生徒の宅(やしき)の所在地によって何塾何番組に入るべきかの規定(きまり)がある。同塾同組の生徒は堅い団体をつくり、交誼を厚くし、互いに切磋琢磨して兄弟も及ばない程の交際をしたものである。毛詩塾では、一番組にも二番組にも各二つの団体があったのである)
 君、文も武もどちらも好きで、しばしば賞典を戴いた。人となり優柔(やさ)しく、温和(おとな)しくあった。
 ある年の四月八日に、学友某と若松城下の北一里余りの木流(きながし)村に遊んだ。村に馬頭観音の堂がある。四月八日はこの堂の例祭日で、農家で馬を飼っている者は我劣らじとその馬を綺麗に飾り立て、牽いて来てお詣りをさせ、それから堂の周囲を乗り廻し、その雑踏なこと非常である。たまたま一農夫が酔って馬に騎(の)り、麦畑を踏み躙って狼藉を極めた。君、馬上からこれを望み見て、忽ち馬の首を回(めぐ)らせた。友人、大いに訝って、「木流村は是から僅か数丁に過ぎぬ、何故馬蹄を南に回らせるのか」と言うと、君は笑って答えず、再び(友人が)問えば君は「季下に冠を正さず瓜田に沓を容れずということがある、しばらく嫌疑を避けるまでである」と言い、遂に観音にお詣りもせずに帰ってしまった。
 戊辰の役、白虎二番士中隊に編入され、西軍と戸ノ口原の頭(はしり)で戦い、疵を蒙り、鮮血が淋漓としたたり、衆と共に飯盛山に至り自刃して斃れた。年、甫(はじ)めて十七である。
 時人、君が性質優柔温和で、騎馬で麦畑を蹂躙する嫌疑を避ける人であるに拘らず、一旦事に臨み慨然として剣に伏したのは、彼の張子房(張良のこと)が容貌は婦女のようであっても、博浪沙(はくろうしゃ)という処で秦の始皇帝を大槌で撃ったよりも尚勇壮で、人の意の測ることの出来ぬのは、その容貌性質によらぬことこの通りであると評した。
 君の大叔父の小野田午太夫君は、元治元年甲子の年、京都蛤御門で戦死した。藩ではその功を追賞し、一家を立てさせ、禄五十石を給い、君の季(すえ)の兄速太君をしてその家を継がせた。速太君は砲兵隊長であったが、九月十四日、敵弾の為に斃れた。

                              
  補修 會津白虎隊十九士傳


■安達藤三郎伝

 藤三郎は小野田助左衛門の三男にして、兄二人あり、雄之助及び速見という。助左衛門は食録三百石、米代一之丁に住し、職を物頭に奉す。藤三郎は故ありて安達を冒す(安達姓を名乗る)。幼より敏捷、記憶に長ぜり。十一歳にして日新館に入り、漢学を勉め、三等、二等、一等に進み、屡々賞典を得、次に武術を学び、稍々(そうそう)其技に長ぜり。人となり精神活発、正直、勇猛、苟(しか)も義を見て成さざることなく、郷党朋友、皆之を敬信す。
 其年四月八日、朋友某と郊遊を約し、共に騎して北行、木流観音に詣らんと欲し、駢騎行くこと一里余、柳下に馬を休め、遥かに目を放てば、無涯の郊野、黄緑色を争う風景、甚だ好し、黄なるは即ち菜花にして、緑なるは麦田なり。此日、乃ち観音の例祭にして(俗に馬頭観音と言う)農家馬ある者は、皆馬を壮飾し、牽て同所観音に詣り、堂の周囲を廻乗するを例とす。故に其雑沓、言う可らず。偶々一農夫酔に乗し騎して麦田を踏み、青麦を倒す者あり。藤三郎、之を眺み、忽ち馬首を回(か)えし、蹄を南にす。友人曰く、此より木流僅か数丁に過ぎず、何か故に馬蹄を回えす。藤三郎答えて曰く、君知らずや、古語に言う、季下に冠を正さず、瓜田に沓を容れずと、是嫌疑を避くるの教に非ずやと。遂に観音に詣らずして還ると言う。
 慶応戊辰三月、士中白虎隊に撰ばれ、沼間守一等に従い、仏式歩法を受け、八月二十三日、官軍を戸ノ口原に拒き勇戦激闘、大いに人目を驚かし、負傷して飯盛山に退き、城上の煙焔揚るを望み、遥かに城中を拝し、衆と共に自頸して死す。年十七。

                                     
  白虎隊勇士列伝


注意 : 略伝・逸話は、管理人の判断によって原文にはない句読点を入れたり、( )等でふりがなや説明を加えている箇所があります。

参考文献 : 宗川虎次『補修 津白虎隊十九士傳』、二瓶由民『白虎隊勇士列伝』、神崎清『少年白虎隊』

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