井深茂太郎 (いぶか もたろう)
基本事項 住所

郭内本三之丁(六日町通り角、南側)

身分・家族

井深守之進(家禄三百石)の長男。茂太郎は、しげたろう、とも。母は清子(井深茂右衛門の次女)。

誕生・特徴

嘉永六年十二月二十一日生まれ(十月生まれ説あり)。
温順にして沈毅。ざんぎり髪にて、体肥え、丸顔で色白く、額広く、鼻高く、唇厚い。

日新館での学籍 三禮塾二番組
出陣時の服装

上下黒ラシャの洋服、下着に型付の襦袢を着る。たたき鞘の刀を革にて下げる。

戒名 深明院殿忠道義入居士
家系

本姓 : 源
本国 : 信濃

井深茂右衛門武常孫 伝大夫重興 嫡男
(初)井深内記重休 ― (2)半弥常慶

■会津の九家、井深家(慶應四年時の本家当主は、若年寄を勤める井深茂右衛門、家禄1000石)の分家

家紋  丸に井桁
略伝・逸話

■井深茂太郎君事蹟(白虎隊事蹟)

■井深茂太郎君の傳

 文あるものは武に乏しく、武あるものは多く文に通ぜざるは、古今の通弊である。能く之を兼ねるものは、実に数十百人中僅々であるが、井深茂太郎君は乃ち其の人であろうか。
 君は会津の世臣井深守之進重教(しげのり)君の長男で、嘉永六年十月、郭内三之丁の邸に生まれた。守之進君は内記光慶の長男で、その宗家(会津九家の一)井深茂右門重孝君の二女、清子君を娶り、世禄三百石を領し、外様組付から段々進んで、朱雀一番寄合組中隊頭となった。(寄合組中隊頭は、表用人即ち御側御書簡と同席の役である)
 戊辰の役には白河口に出ていたが、勇敢で善く戦い、屡々西軍を苦しませた。母堂、清子の君はその性質温柔で能く良人(おっと)に事(つか)え、良妻を以て称せられた人である。
 茂太郎君、性温順で沈毅、十三歳で講釈所(俗に大学校という。止善堂が本名である。日新館四塾に於いて、四等、三等、二等より一等に昇り、試験を経て止善堂に入学を許可する。試験には学校奉行もしくは同添役、儒者もしくは儒者見習二名立会い、「禮記」(らいき)一ヶ所、「近思録」(きんしろく)もしくは土津公の編纂された「二程治教録」(にていじきょうろく)の内一ヶ所、「前後漢書」、「史記」の内一ヶ所、無點本で二枚を読み、且つ講義させ、入学の許否を定むるのだ。十六歳以下で及第すれば賞品(書籍)を与うるを例とす)に及第し、「詩経集註」、「易経本義」を賞賜せられた。当時、青年文学の士を挙げれば、君は必ず其の一人に数えられたという。
 ここに黒川即ち湯川に左岸に、深澤天神という社があるその西側、路傍に一つの辻堂があって、石地蔵尊を安置してある。深夜この堂に往く者があれば、必ず何か不思議があると伝えられてあった。君思うに、かようのことのあるべき道理がない、万一これありとすれば、狐か狸の仕業であろう。その実否を試み呉れんと、殊更暗黒の夜を選び、夜更け独りで密かに往って、その社前にしゃがんだり起(た)ったり、或いはその附近を徘徊したりして暁天(よあけ)に及ぶも、終(つい)に一つの怪しきことがない。君、後人に話して、「世の中に怪物(ばけもの)なるものはない、併しこれのあるのは唯臆病の輩が、心にまず之を想像し、その人だけに幻の如く見ゆるのみだ」と言った。
 君、また仁恵の心が深い。ある日、旅の装束(したく)をした老翁が、七八歳ばかりの幼児(こども)を連れ、顔色痩せ衰えて路傍に寝ているのを見た。君、忽ち惻隠(そくいん:あわれみ)の心を起こして、その理由(わけ)を問うた。翁、「私は越後の者であります。零落してご当地に来ました。孫が二人あります、一人は女で年二十でありますが、数ヶ月前、この老体を見棄てて、行く所が分かりません。一人は即ち此の児(こ)であります。行こうにも家がなく、その上病気は日増しに重くなり、生きながら地獄の呵責を受けているようで、こんな苦しいことはありません。私はたとえ道路に窮死(のたれじに)するも詮方なきも、此の児が不憫で、死んでも浮かぶことが出来ません」と言い、潜々(さめざめ)と泣いた。君、之を聞いて可憐(いとしさ)の情を禁じ得ず、嚢中にあるだけの銭を残らず与え、且つ慰め諭して去らせた。後、数ヶ月を経て、此の老人は終(つい)に路傍に倒れ死んだ。而して子供は、町のある慈善家が引き取って、之を養育したということである。時に君、歳十五であった。
 戊辰の役が起こり、喜徳公が福良村に出陣される時、白虎士中二番隊三十七名、之に従った。君もまたその中に居て、擢(ぬき)んでられて記録を司ったが、文才のある君のことだから、筆を執って軍隊の行動を詳細に遺すところなく記した。西軍が破竹の勢いを以て城下に迫らんとした時、君は同隊士と共に之を戸ノ口原に逆(むか)い撃ち、利あらずして退軍し、飯盛山に登り、自刃して斃れた。生年十六歳であった。厳父の守之進君は、君を忠孝節義の士にしようと覚悟し、常に意を留めて教訓せられたから、志気が幼少より衆人に卓越して青年中の好丈夫であると、人々に賞揚されたが、終にその素志を全うすることが出来て、厳父も定めて満足せられたことであろう。

                              
  補修 會津白虎隊十九士傳


■井深茂太郎伝

 茂太郎は井深守之進の長男にして、嘉永六年癸丑八月、郭内三之丁の宅に生まれる。家禄三百石、父守之進、初め奏者番役を勤め、戊辰の役、朱雀中隊長となり、越後口に防戦し、勇敢を以て聞く。茂太郎は、父母の愛子にして、幼少より能く二親に仕え、万事命に違うことなし。また朋友に交じるに信を以てし、人となり力行勉強、甚だ記憶に長じ、十歳にして日新館に入り、日夜勉強怠らず、三等、二等、一等を経、十三歳の春、遂に講釈所生に及第し、賞典として詩経集註、易経本義を受く。人皆之を栄とす。また習字を能くし、試みられて賞として良硯を賜る。
 慶応戊辰三月、撰ばれて白虎隊に編ぜられ、仏式歩法を調練し、八月二十三日、官軍を戸ノ口原に逆(むか)え、大いに戦いて力尽き、衆と共に自刃す。年十六。

                                     
  白虎隊勇士列伝


注意 : 略伝・逸話は、管理人の判断によって原文にはない句読点を入れたり、( )等でふりがなや説明を加えている箇所があります。

参考文献 : 宗川虎次『補修 津白虎隊十九士傳』、二瓶由民『白虎隊勇士列伝』、神崎清『少年白虎隊』

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