篠田儀三郎隆義 (しのだ ぎさぶろう たかよし)
基本事項 住所

郭内米代二之丁(桂林寺通りから西へ三軒目、南側)

身分・家族

篠田兵庫(供番を勤め、家禄二百石)の二男、母はしん子(織部玄孝の娘であるが、後の家老・田中土佐の養女となって篠田家に嫁した)。
父・兵庫は十月中、南香塩村にて死去。兄(叔父説もあり)の蔀(しとみ。伝習第三大隊軍目)は八月二十四日城中にて戦死((二十九歳)。

誕生・特徴

嘉永五年四月十五日生まれ。(十一月生まれ説もあり)
謹直にして勉励。髪はざんぎりにて、やせて背高く、面長にて色赤黒く、鼻高く、両眼の間やや遠し。

日新館での学籍 尚書塾一番組
出陣時の服装

黒のマンテル、黒のズボン、藤色のチョッキ。朱鞘の刀を革にて下げる。

戒名 賢忠院誉英清居士
家系

本姓 : 平
本国 : 信濃

篠田亘理光隆 二男
(初)七左衛門苞矩 ― (2)兵助隆置(婿養子) ― (3)重助隆直 ― (4)金伍隆矩

家紋  蛇目
略伝・逸話

■篠田義三郎君事蹟(白虎隊事蹟)

■篠田儀三郎君の傳

 君は篠田兵庫君の二男、郭内米代二之丁に住み、家禄二百石、父君は供番という役を命ぜられ、謹慎勉励を以て聞こえた人であった。保科家の重臣篠田半左衛門隆吉君、土津公に仕え、禄千石を領し、寛永十四年、出羽国山形に於いて没した。その玄孫(やしゃご)を亘理光隆(わたりみつたか)君という。その二男、七左衛門苞矩(もとのり)、召し出されて土常公(つちとわこう:名は容貞(かたさだ)、会津松平家第四世の主で、少将兼肥後守に任ぜられ、従四位下に叙せられた。卒後、土常霊神と謚(おくりな)した)、恭定公(ゆうしづこう:名は容頒(かたのぶ)、会津松平家第五世の主で、贈従三位左中将兼肥後守、謚(おくりな)は恭定霊神)の両公に仕え、小姓より御刀番に遷り、禄二百石を領した。是、儀三郎君の先祖である。
 苞矩の養子、兵助隆置(たかやす)君、専ら心を殖産に用い常に人に語って言う。「今や天下泰平で、汗馬の御奉公をする方法がない。依って余は国益を計り、国恩に報いんと思う」と。願い出て植林を努め、また楮(こうぞ)の苗を移し植え、栽培して怠らなかったから、遂に各地に繁殖した。我が会津に製紙の業のあるのは、之を以て嚆矢(こうし:はじめ)とす、ということである。公、深く之を悦ばれ、物を賜って之を賞された。文化年間、蝦夷地の警備に往った。その帰って来た時、公また勤務を賞して物を賜った。
 兵助君の子、重助隆直君、武術を好み、当時槍術に熟達しようと思い、畫夜鍛錬して倦まなかった。後、果たして大内流の達人と称せられ、締方(武学寮師範の補助役なり、重助君と儀三郎君との関係は今分からない。併し、年代から考えれば儀三郎君の祖父君か)を命ぜられた。
 母堂は田中氏、名はしん子、織部玄孝君の娘であるが、従兄田中土佐玄清君(後家老、会津九家の一)の養女となって篠田家に嫁した。
 儀三郎君、人となり信実で、未だかつて人との約束を違えたことがない。六七歳の頃、友人と蛍狩りを約した。期日になって折悪しく暴風狂雨(おおあらし)で、一点の蛍火も見えない。偶々、その友人の門を叩く者がある。その人、出でて見れば乃ち儀三郎君である。右手に蛍籠を携え、左手に箒(ほうき)を把(と)って来た。その人驚いて、「風雨このとおりで一つの蛍も見えぬ夜に、君は何故訪(と)い来たのか」と(訊くと)、儀三郎君、「余(わたし)は君との約を守り、蛍の有無には構わず訪れたのである。風雨のため蛍が居ないならば、また他日蛍狩りをしよう」と言って帰ったということである。
 また或る時、朋友某の家に集会することを約束した。是の日、朝から絶えず雹が降って、寒気が骨に透るようであった。某が思うに、この天気では必ず一人も会合するものはなからんと、未だその準備もしなかった。然るにその約束した時刻になり、君は袴の股だち高くかかげ、徒跣(はだし)にて来た。某、驚き迎えて之を謝した。その信義を重んずること此の通りであった。
 十一歳で藩校に入り、尚書塾一番組に編入され、屡々賞賜を受けた。
 戊辰の役、君白虎士中隊に編入され、その教導に任命された時、同僚某々等と約束して曰く、「大丈夫たるもの當さに屍を原野に晒すべし」と。西軍を戸ノ口原に逆(むか)え力戦、利あらず、飯盛山に退き腹を屠って死んだ。年十七。
 君の厳父兵庫君は、某隊の小隊頭であったが、重傷を負って城下の南香塩村で没し、叔父の幕兵伝習隊軍目、蔀(しとみ)君は、八月二十四日、城内で敵弾に斃れ、一家三人節義を全うした。

                              
  補修 會津白虎隊十九士傳


■篠田儀三郎伝

 儀三郎は篠田兵庫の二男にして、郭内米代二之丁に住し、家禄二百石、父兵庫は供番役を奉し、謹慎勉励を持って聞こえる。儀三郎は、嘉永五年壬子十一月、家に生まれる。人となり、剛直勇猛、飢渇、寒暑、毫(すこ)しも意に介せず、朋友に交わるに信実を以てし、また曽て、盟約に背きしことあらず、其の年の冬日、朋友某氏に会することを約す。偶々其の日朝より吹雪道路を埋め、冽風肌膚を擘(つんざ)き、道路行く人を絶つ。某氏謂う、今日必ず一人の会する者なかるべしと、集会の準備を為さず。然るに儀三郎一人、例刻より蓑笠を以て身を纏い、来会せり。主人驚き之を見るに、足に足袋も着けず、草鞋を穿き、雪を踏み来る、其の剛なること、概ね斯くの如しという。
 十一歳にして日新館に入り、日夜勉強怠らず、三等より二等、一等に進み屡々賞典を受け、また武術を習い、慶応戊辰三月、撰ばれて士中白虎隊に編ぜられ、仏式撤兵調練を受け、八月二十三日、官軍を戸ノ口原に拒き、力戦の後、飯盛山に退き、衆と共に自刃す。年十七。

                                     
  白虎隊勇士列伝


注意 : 略伝・逸話は、管理人の判断によって原文にはない句読点を入れたり、( )等でふりがなや説明を加えている箇所があります。

参考文献 : 宗川虎次『補修 津白虎隊十九士傳』、二瓶由民『白虎隊勇士列伝』、神崎清『少年白虎隊』

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