伊藤俊彦 (いとう としひこ)
基本事項 住所 川原町堀端
身分・家族

伊藤亘(五人扶持)の長男、慶應四年当時、家督を継いでいた可能性あり(役職は新番組士、五人扶持)。生母はりよ子(玉木兵左衛門の娘)、継母は孝子(藤森儀右衛門の娘)。

誕生・特徴

嘉永五年生まれ(嘉永六年十二月二十日説あり)。
温厚信実。髪は総髪、やせて背丈高く、面長。色白く、鼻高く、口大きく、眼尻上がる。

日新館での学籍 二経塾二番組
出陣時の服装

黒マンテルに黒の小袴、紺色の脚絆。太刀造の朱塗の刀を革にて下げる。

戒名 浄忠院心誉義善居士
家紋  丸に木瓜
略伝・逸話

■伊藤俊彦君の傳(白虎隊事蹟)

 君の父は新作と称し、後亘(わたる)と改めた。家禄若干石五人扶持、新番組士(新番組は下級の士分で、花色紐を許される)で川原町の堀端に住んでいた。家が裕福で、施与(せよ)が好きであった。君はその長男で、母は玉木兵左衛門の娘りよ子である。君、十二三歳の時、母堂は没せられた。継母は藤森儀右衛門の長女で名を孝子といい、賢婦人で君との関係は実母子も及ばぬ位であったという。
 君、人となり温厚信実で、甞(かつ)て家の系譜を見て慨然として、「我が祖先八郎君は、追鳥狩に於いて二回一番獲物をして、君前に召され賞賜を受けた。今や国家騒擾(こっかそうじょう:国が乱れること)、また昔のように追鳥狩を以ていくさの稽古をする場合ではない。敵、もし国境に迫って来たならば、余は一番槍を揮い敵狩りをして、君公の御恩に報いねばならぬ」と言い、短刀を以て机を拍(う)ち立って道場へ行ったこともあった。之を聞く者は、或いは狂気したではないかと疑った位であった。後、白虎士中隊に編入され、戦い利あらざるに及んで同志と飯盛山に登り、鶴ヶ城を拝し、衆に先立ち屠腹して死んだ。年十七であった。
 君の外(ははかたの)叔父玉木徳之助は、戊辰九月十四日、郭内諏訪社で、同玉木徳五郎君は、八月二十三日戸ノ口原で、継母の弟藤森八太郎君は、八月二十五日、津川でいずれも戦死した。

                              
  補修 會津白虎隊十九士傳


■伊藤俊彦伝

 俊彦は伊藤新作の長男、新作川原町堀側に住し、禄五人口、新番組士なり。家富み、甚だ施を好む。嘗(かつ)て東山温泉に至り、其楼に投宿し、各楼の芸妓を尽く招き、酒宴遊興、各妓に其技の長ずる所を演せしめ、点頭として大皿にらふく(大根のこと)屑を充たし、之を一嚢(ふくろ)の二朱粒金を撒し、下物(かぶつ:酒の肴)に供せしと言い、其の灑落(しゃらく:物事に執着せず、度量の広いこと)此の如し。
 俊彦、人となり温和柔順、能く二親に事(つか)え、未だ曽て命に違うことなし。また朋友に接するに信実を以てし、未だ曽て人の批評を受けしことなく、喜怒恒に色に見わさず故を以て、郷党挙て之を誉む。十歳にして日新館に入り、日夜勉強怠らず、三等、二等、一等に進み、屡々官の賞与を受く。家富むを以て常に数名の良師を家に致し、旦夕教えを受けしむ。故を以て学力大いに進み、将に講釈所生に昇らんとして此の災厄に遭い、戊辰三月、士中白虎隊に編せられ、八月二十三日、官軍を戸ノ口原に逆い激戦の余、衆と共に永く飯盛山の鬼となる。年十六。

                                     
  白虎隊勇士列伝


注意 : 略伝・逸話は、管理人の判断によって原文にはない句読点を入れたり、( )等でふりがなや説明を加えている箇所があります。

参考文献 : 宗川虎次『補修 津白虎隊十九士傳』、二瓶由民『白虎隊勇士列伝』、神崎清『少年白虎隊』

戻る時は、ウィンドウを閉じてくださいm(_ _)m