有賀織之助満道 (ありが おりのすけ みつのり)
基本事項 住所 郭内本三之丁
身分・家族

有賀権左衛門(豊之進)の次男。父(家禄二百五十石)は元治元年七月十九日、京都蛤御門にて戦死(四十六歳。四十一歳説もあり)。母はいく子(高木小十郎の妹)。兄は衛士。
叔父の有賀勝平(遊撃遠山隊指図役)、四月二十日白河にて戦死(二十九歳)。

誕生・特徴

嘉永六年十一月三日生まれ。
英敏勇剛。髪は総髪。中肉中背にて丸顔。肌は小麦色。眼はやや細く、鼻筋が通り、唇薄い。清秀な少年。

日新館での学籍 三禮塾二番組
出陣時の服装

薄茶色の筒袖羽織、定紋付の鼠色無地の着物、紺の小袴、赤塗鞘の刀を革にて下げる。

戒名 秋峰院戦譽義道清居士
家系

本姓 : 神
本国 : 信濃
有賀讃岐某 嫡男
(初)権左衛門満盛 ― (2)弥左衛門満家 ― (3)権左衛門満忠 ― (4)権左衛門満仙(婿養子) ― (5)権左衛門満嘉 ― (6)織左衛門満賓(婿養子) ― (7)弥左衛門満皓 ― (8)権左衛門満敬 ― (9)此母満備(婿養子) ― (10)豊之進

家紋  丸に梶の葉
略伝・逸話

■有賀織之助君事蹟(白虎隊事蹟)

■有賀織之助君の傳

 君は会津の世臣有賀権左衛門君の次男である。元治甲子の年長州の賊徒等が禁闕(きんけつ)を犯した時、権左衛門君は番頭一瀬要人隆知(いちのせかなめたかとも)隊付の目付役として蛤御門を守り、力戦して斃れた。君の母堂いく子は高木小十郎の妹である。
 君、身体は壮偉、相貌は清秀、一見人をして畏敬せしむるの風采を備えた。幼より父母の膝下に居て純良厳正な薫陶を受け、日新館に入り三禮塾二番組に編入され、文武の教育を受けた。天資の英敏夙(はや)くから同輩よりも遥かに抜け出でて、技芸大いに進んだが、君の得意とする所は文ではなくて武であった。萬延元年四月、藩士達が相会して城下の西、鴨川原という処で、武芸の大演習があった時、君は九歳で薙刀を縦横に振り回し、身軽に敏捷の手際は大人も及ばぬ位で、大に衆士の賞賛を取った。
 君、腕の力が人に勝れ、剣術仕念(しあい)の時は剣が鳴り、風が生じ、対抗の出来ぬ勢いがあった。君性勇敢、事に当たって少しも躊躇うことがなく、険(はげ)しきを犯し、危うきを踏みても少しも意としなかった。
 或る時、朋友十四五人と城下の南一里余り、鶴沼川の岩崎という処に遊泳(およぎ)に行った。時に雨上がりて濁水が両岸に漲り溢れ、激しき浪が怒号して凄まじい勢いであったから、誰も入り得る者がなかった。然るに君は忽ち衣を脱ぎ捨て、身を躍らせてザンブとばかりに川中に飛び込んだ。衆、之を止めたけれども聞かず、浪にうたれ、急流に押し流されること数丁、屡々溺れんとして辛うじて前岸に達した。衆、また戒めて、今度は陸路から還るように勧めた。君、休息すること少時(しばらく)で、また水中に入り、ようようの事で元の岸に戻った。身体疲労、気息喘々、溺死しなかったのは実に僥倖(ぎょうこう:けっこう)であった。衆、君が何故斯かる冒険の事をするかと聞いた。君、答えて「大丈夫、艱難に出会わねば肝を練ることが出来ぬものである。それ故にわざと険を冒して之を鍛えるのである」と言った。皆、君の剛快の壮気に驚いた。
 君、また常に然諾を重んじた。或る時友人と、日と時刻とを決めて某氏の宅に会合することを約束した。恰(あたか)もその時刻に及んで暴雨降り来たり、大雷天地に轟き、一歩も戸外に出ずることが出来ぬ程であるのに、君は蓑笠に身を装い、裸足にて一刻も誤らずにその約束せる処に行ったということである。聞く者皆、之を感嘆した。君、性質峻(けわ)しく、烈しきようなれども、決してそうばかりではなく、度量は広く懇切で思いやりがあり、靄然(あいぜん)として親しむべきの美質を持っていた。故に人皆、君と交わり遊ぶことを望んだ。而して未だかつてみだりに人と争闘をしたことがない。以てその人と為りを知ることが出来よう。
 戊辰の戦いが起こった時、白虎士中二番隊に編入された。事が急なるに当たり、将(まさ)に出陣せんとする時、母君が戒めて言われるに「汝は忠臣の子であるぞ、決して臆病なことをして家名を汚してはならぬ」と。君は謹んで之を聞き、唯々(はいはい)と言って家を出て、深く決心するところがあった。
 西軍の侵し来るや戸ノ口原に戦い、軍破れ間道を辿って飯盛山に退き、城が陥ったものと思い、自刃して斃れた。年十六である。
 是より先、本藩で遊撃隊を編成し、遠山伊右衛門をその隊の頭とした。また小隊頭二名指図役二十六名を置いた。その指図役は、藩中で武勇の士を選んでこの役を任じ、足軽十名の長とした。指図役の位置は高いわけではないが、壮者(わかもの)はその選に入ることを望む者が甚だ多かった。君の叔父の勝平君、この指図役に任ぜられ、閏四月下旬、白河口の戦に奮闘して没した。時に年二十九であった。
 有賀家父子兄弟三人共に国に殉じた。父権左衛門氏は食録二百五十石で郭内三之丁に住んで、人に勝れた真直ぐな立派な士であった。遠祖の権左衛門満盛が始めて藩祖土津公(台徳院秀忠公の第四子、贈従三位左中将兼肥後守、後に土津霊神と謚(おくりな)した、会津松平家始祖(保科正之)である)の養祖父正直君に仕えて勲績(いさおし)があり、爾来子孫相次いで後の左衛門に至るまで十世で、実に会津藩の名家であった。

                              
  補修 會津白虎隊十九士傳


■有賀織之助伝

 織之助は有賀権左衛門の二男なり。権左衛門、初豊之進といい、職を使番に奉し、家禄二百五十石、郭内三之丁に住す。兄あり、衛士という。権左衛門、慶応元年乙丑六月、京都蛤御門の役に忠死せり。
 織之助、人となり天稟活発、心志剛直にして、物に屈コウせず。十一歳にして日新館に入り、漢学を受け、三等、二等、一等に進み、屡々賞典を受く。又武芸を習い、慶応戊辰年、撰ばれて白虎隊に編せられ、仏式調練を受け、八月二十三日、官軍を戸ノ口原に逆い、激戦の余、飯盛山に退き、衆と共に自死す。年十六。

                                     
  白虎隊勇士列伝


注意 : 略伝・逸話は、管理人の判断によって原文にはない句読点を入れたり、( )等でふりがなや説明を加えている箇所があります。

参考文献 : 宗川虎次『補修 津白虎隊十九士傳』、二瓶由民『白虎隊勇士列伝』、神崎清『少年白虎隊』

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