西川勝太郎 (にしかわ しょうたろう)
基本事項 住所

郭内本二之丁(六日町通りから東へ二軒目、南側)

身分・家族

西川半之丞(物頭を勤め、家禄三百石。一刀流の達人として評判が高かった)の長男、母はせき子(神尾織部の五女)。

誕生・特徴

嘉永六年一月生まれ。
沈着にして度量あり。髪は総髪。背丈高く、面長にて色白。額広く、耳ゆたかにて、眉濃く、眼尻上がり、鼻高い。

日新館での学籍 三禮塾二番組
出陣時の服装

黒のマンテルに、黒のズボン。下にビロード襟のメリヤス、脚絆。栗色石地塗鞘の刀を革にて下げる。

戒名 節顯霊神
家系

本姓 : 不詳
本国 : 勢州

西川治郎右衛門重家 二男
(初)仁左衛門重次 ― (2)治左衛門重房 ― (3)仁左衛門重代(婿養子) ― (4)仁左衛門重矩 ― (5)治左衛門重建 ― (6)治左衛門重光 ― (7)新兵衛重徳

家紋  丸に九枚笹
略伝・逸話

■西川勝太郎君事蹟 (白虎隊事蹟) 

■西川勝太郎君の傳

 君の父君は半之丞と称し、食録三百石、塁遷して物頭となる。一刀流の達人を以て評判があった。伏見の変には身を擢(ぬき)んでて奮戦し、砲丸に傷つき鮮血淋漓たるをも顧みず、衆を励ましてやまなかったから、時人その勇烈成るを歎称した。
 母君は神尾織部友善君の五女、名はせき子という。織部君は食録五百石を領し、学校奉行より奉行(家老、若年寄に次ぐ本藩の重要文官で、会計を司る)に塁遷した人である。
 君、嘉永六年正月、郭内本二之丁の家に生まれる。故に君の学籍は、三禮塾二番組であった。君、人となり沈着で度量があった。戊辰の年、白虎二番士中隊に編入された。母君かつて君に教えて言うに「汝(そなた)の祖先、治左衛門は細川越中守殿の先手に属し、或る合戦に奮戦して敵首二級を獲られた勇者だ。後堀田加賀守殿に仕えられしが、故あって浪人となられ、それより御当家に仕えて今の禄を戴くようになられた。嗚呼、汝(そなた)は斯かる武功の人の末裔で、今日国家危急存亡の秋(とき)に遭遇しては、勲功を彰(あら)わさないでおめおめとしていてどうして済もうか。よくよく考えて先祖を辱めてはならぬぞ」と、くれぐれも訓戒した。君、これを聞いて非常に奮慨し、「誓って御教訓に背かず」と言った。
 八月二十二日、白虎二番士中隊、容保公に従って滝沢に向かった。既にしてこれを分かち、一は進んで敵に当たり、一は留まって滝沢を守るべきの議があった。その時君はこれに服せずして、「敵は衆我は寡、一以て百に当たるもまだ足らない、然るにこれを分かつ時は、恐らくは進撃にも留守にも両方不利ならん。依って我々少年達は共に進んで敵に当たるのが上策だ、留守の任務は壮者に譲る方がよかろう」と言い、皆々その言を賛成し、一緒に戸ノ口に行って胸壁を設けて屯(たむろ)した。
 二十三日夜明け方、敵軍来る迫り、勢い頗る猖獗で、衆寡敵せず、君等且つ戦い且つ退き、隊長とは相失し、衆皆飢え且つ疲れた。皆曰く「事此に至る寧ろ自殺して臣節を全うすべきのみだ」と。君、これを止めて、「事既に此に至るも、弾丸は未だ尽きず、刀は未だ折れず、且つ城既に陥るや否や、君公は既に国に殉ぜらるるや未だ分からない。我が刀折れ城陥り、君公は殉ぜらるるのを見てから後、従容として義を取り、命を捨つるもまた遅いとはせない」と言った。衆、またその言に従った。因って相携えて城に入らんとしたるも、一人もその近道を知る者がなく、深山幽谷を跋渉して居るうちに、ふと不動滝の畔に出で、新堀(猪苗代湖より用水を若松に導く水道)に入れば、滝沢峠に居た敵兵が、狙撃することが甚だ急である。因って匍匐(ほふく)し洞穴を通って飯盛山に登り、城郭を展望すれば、黒烟は天に漲り、砲声は地に震えた。君、慨然、衆に謀って言うに、「今こそ殉ずべきの秋(とき)である、諸君覚悟し給え」と。皆、終にこれに同意した。抑々十九士がその死に場所の好かったのは、君の力であるというのも決して誣言ではない。当時、母君の教誡の語が之が元素(もと)となったものか、死するの年十六である。その遺骨数片は之を菩提所の某寺に葬り、神祭してその霊号を節顯霊神と号した。君が屠腹の時用いた所の刀は、現に同家に残っていて、血痕が班黒で観る者をしてその当時を想像せしむるということである。

                              
  補修 會津白虎隊十九士傳


■西川勝太郎伝

 勝太郎、父を半之允と称し、若松郭内二之丁に住し、世禄三百石、職物頭に任じ、慈仁にして下を愍(あわれ)む。母は同藩士神尾織部の三女、織部は食録五百石、頗る儒学に達し、方正廉潔を以て聞こえ、初め学校奉行より累進して、後三奉行に至る。
 勝太郎、嘉永六年癸丑正月、家に生まれ、父母の鍾愛、最も篤し。幼にして穎悟深沈にして度量あり、父母に事(つか)えて至孝、朋友に交て信義あり。
 十歳にして藩校日新館に入り、儒学を学び、四書五経、小学の素読、大試験に及第し、賞として四書集註を受け、十二歳にして一等に及第し、賞として近思録を受く。また弓馬槍刀の道を習い、戊辰の春、士中白虎隊に編ぜられ、脱幕士沼間氏(旧幕府歩兵教官沼間守一)等に従い仏式歩法撤兵調練を習い、且つ小銃射的術を鍛錬し、慶応戊辰六月、儲君天山公(会津藩主松平容保)を守衛し、安積郡福良に在り、八月二十一日、石筵口危急の交且つ帰城し、急に官軍の進撃を防がん為、隊長日向内記に属し、戸ノ口に出つ至れば、則官軍破竹の勢いをなし、一は笹山より、一は十六橋より猛進し、其鋒当る可らず、故に先ず戸ノ口原に埋伏して、官軍の横を撃ち、血闘力戦、大いに人目を驚かせり。然れども、衆寡敵せず遂に敗衄死傷多し、余兵一角を衝き、負傷を佐け、間行して城中に入らんと欲し、滝沢の飯盛山に登り、西南鶴ヶ城を眺めば、官軍既に若松に進入、黒烟城を覆い、大小の砲声、雷霆の如し、皆謂う、城巳に陥り主君もまた亡う、是我儕国難に殉ずの秋(とき)なり、と。倶に共に死を約し、其の度量あるを以て衆に撰ばれ、介錯の任に当たり、任畢(おわ)りて従容として自死す。年十六。

                                     
  白虎隊勇士列伝


注意 : 略伝・逸話は、管理人の判断によって原文にはない句読点を入れたり、( )等でふりがなや説明を加えている箇所があります。

参考文献 : 宗川虎次『補修 津白虎隊十九士傳』、二瓶由民『白虎隊勇士列伝』、神崎清『少年白虎隊』

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