沖田 総司を巡る謎


謎:其の四 〜総司には養家があった?〜

沖田総司を数年間育てた家がある、そんな説があった。
左利き説同様、一般に知られる説にはあまり聞かない珍しいこの話は、新選組に関する研究を続けておられる菊池明氏の数多い著書の内の一つ、タイトルもずばり『沖田総司の謎』に記されている。

記述によると、沖田総司の墓石には総司の戒名の他、左右に一つづつ戒名が刻印されているという。
専称寺にあるという沖田総司の墓は、現在一般の墓参は禁じられている。かつては連日のように墓参者が絶えなかったと言うが、元々は一般の墓地であるので寺側の困惑、迷惑を考えれば当然の措置であろう。
故に、この戒名に関しては確認が出来ないが、解説本に掲載されていたモノクロの墓石では不鮮明であるが、それらしき影はある。しかし、一方は文政9年、もう一方は嘉永7年没となっているというから、沖田総司没時より10年は遡って没した人の名が何故共に刻まれているのか、これもまた奇妙な話である。

さて、菊池氏によると、過去帳からこの二つの戒名はどちらも大野源治郎と判明している。おそらく大野と言う家の代々の当主であったのだろう。『新選組再掘記』に沖田ミツ(総司の姉)氏の子息、卓吉氏の妻ハル氏の聞き書きとして「総司の墓を建てた人が、たしか大野と言う人だったと思う」と残しているそうだ。
墓石に並刻する場合の多くは同族のもの、あるいは志士たちの墓碑のように志を同じうしたものであるというから、この並刻はかなり奇妙と取れる。
そして、ここでまた一つの謎が浮かび上がる。
沖田総司の墓石の建立年と依頼者である。
新政府が賊徒とした者たちの墓の建立を許したのは明治7年以降ではなかったかと思われるが、もちろん、大っぴらに新選組の沖田の墓だと言って建てた訳でもあるまい。元々沖田家の菩提寺でもあったことから、多少の融通はきいただろう。菊地氏は永代祠堂金五両から江戸期の可能性が強いとされている。通貨が円になったのは明治2年以降のはずだが、一般市民にすぐに浸透したとも思えず、旧貨が通用した時期と被さってはいるだろうから、必ずしもそうとは言えないかもしれないが、明治7年になってようやく東京に戻った姉一家でないことは確かである。

そこで大野氏の存在が、沖田総司と密接な関係をもっていたという推測が成り立つのだ。
菊池氏は戒名から二人の大野氏の身分、居住の可能性を推察し、江戸府内の「工・商」の身分であったと推定、江戸詰めであった沖田の家と交流があったのでは、とする。
そして、沖田総司を預り育てたと推論する根拠として、沖田総司の父親、勝次郎の没年と総司の試衛館入門までの空白の年月を当てはめているのだ。
勝次郎の死亡による家計の逼迫から迫られた口減らし。しかし道場に預けるにしてもあまりに幼かったため、旧知の間柄であった大野氏が預り、内弟子として入門するまでの間を育てたのではないかというのである。
東西を問わず、他家の養子となったり、行儀見習い/修行の為に預けられると言うのは珍しい事ではなかったそうなので、この仮説が全く間違っているとは言い切れないだろう。
むしろこの説を取る事で、新たな沖田総司の物語が生まれる事も考えられる。

残念ながら大野氏のその後は分っていないそうだ。

 


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