沖田 総司を巡る謎


謎:其の壱 〜不明瞭な出自〜

沖田総司藤原房良。奥州白河藩阿部家家臣沖田勝次郎嫡子。
幼少時に父母と死に別れ、姉みつが母親代わりとなって彼を育てた─。
総司の略歴は一般にこう言われている。実際、私も長くこの説を真実であると思っていた。しかし、数少ない史料の中に浮かぶ最初の謎は、他ならぬ彼の出自である。
彼の両親は果たして誰だったのか。何故その出自が謎とされるのか。一つ一つ見てゆこう。




<沖田家と白河藩との関わり>

沖田家が奥州白河藩阿部家の家臣であったことはまず間違いはない。史料によると、阿部藩分限帳に『二十二人俵二人扶持、天保二年卯七月二十二日、友部時右衛門組、沖田勝次郎』とあるそうだ。因に廃藩置県後の藩士名簿録には記載がないともある(白河女子高校教論金子誠三氏調査による:出典『沖田総司おもかげ称』森満喜子氏著)総司自身が白河藩脱藩とされることも多いが幼くして試衛館の内弟子になっていることや、総司が出仕した明確な記録もない事から、実際に仕えていたのは父とされる勝次郎の代までであったと思われる。




<専称寺過去帳>

沖田総司は、東京は港区麻布の専称寺に祀られている。この専称寺は元々が沖田家の菩提寺であったということで、過去帳も納められているそうだ。そこには勘右衛門から総司の姉のみつに至るまで、二十名の戒名が記されていると言う。その過去帳によると

沖田勘右衛門 ─ 三四郎 ─ 勝次郎 ─ 総司

となっており、これを見るに、沖田勝次郎嫡子というのは間違いがないようにも思われる。
しかし、同じく過去帳の総司の戒名の下には『沖田林太郎次男』と記されていると言うのだ。さらに総司の姉のみつの父親が『日野の農家、井上惣蔵の弟』とされる文書の発見が確認された。姉二人の出自、また縁戚関係であったとされる井上源三郎(新選組副長助勤六番隊隊長)の出自が明確であるにも関わらず、総司の出自を示す文書は一切発見されていない。いかに下級武士とは言え、仮にも嫡男とされる総司の出自が明確にされていないのは何とも解せないことである。



<二人の林太郎>

『沖田林太郎次男』─この一文が示す意味は何であるのか。

沖田家は総司の前に二人の林太郎によって継がれた、とも言われている。ここで問題になるのは”二人”ということである。一人はほぼ間違いなく、姉、みつの夫である沖田林太郎であろう。一般には沖田家を継ぐ為にみつが婿養子として迎えたとされているが、谷春雄氏が古文書を元に調査/推理した異説を『新選組隊士遺聞』において述べている。それによると、日野の農家であった井上家の井上林太郎元常が、沖田勝次郎が弘化二年に没した後、沖田家の武家の株を買い取り相続し、みつ、きん、総司と三人の子供をなし、井上宗蔵(名表記は史料より)の弟である林太郎房正をみつの婿養子に迎え、沖田家を継がせたというのだ。これにより、『沖田家は二人の林太郎によって継がれた』と言われるのであるが、果たしてその林太郎元常が総司の父親であったのか。なお、過去帳によると元常は嘉永五年に、その妻は文久二年に没していると言うから、『幼少時に父母と死に別れ』という説は覆される事になる。
(注:幕末には逼迫した武家の株を商人や郷士/富農が買い取る事はよくあったそうだ。女流作家、樋口一葉の生家も元々は町人であったのが、武家の株を買い取ったという話もある)




<勝次郎か林太郎か>

果たして総司の父親は勝次郎か、林太郎か─。

総司の生年には天保十三年と十五年説の二通りがあるが、どちらであっても勝次郎の子供である可能性は否定できない。総司一人の出自が明らかにない事から、森満喜子氏はその著書において『総司は井上家とは関わりはなく、二十代半ばで亡くなったと思われる沖田勝次郎の実子であり、沖田家の株を買った井上林太郎が引き取ったのではないか』と仮説をたてている。その古文書を実際に見た訳ではないので断定は出来ないが、私はむしろこの森氏の仮説が真実に近いような気がしてならない。そうであるとすれば、子母澤寛氏による『沖田勝次郎嫡子、幼少時に父母と死に別れた模様』もあながち間違いではないと言える。


何れにせよ、総司には”家族”という最初の社会単位でさえ不明瞭であった。真実は如何なものかは、今となっては解らない。しかし、『いつも笑って冗談ばかりいう子供好きの青年』は、生まれながらにして色濃い影を背負っていたと言えるだろう。


注:文中に引用した史料他は主に森満喜子氏著『沖田総司おもかげ抄』による。


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