沖田 総司を巡る謎


謎:其の弐 〜総司は何時生まれたのか〜

沖田総司藤原房良、白河藩江戸藩邸にて生まれる。

彼は一体何時生まれたのであろう。出自が不明な点は既に述べたが、多くの史料は生年不詳、あるいは天保十三年、十五年両説が記載されている。なぜ二通りの説があるのか。これには各々根拠がある。

まず一つには沖田家古文書に記された『文久三年新選組成るや歳僅か二十歳にして』の一文にある。これから逆算されたのが天保十五年説。
もう一つは総司が浪士隊に参加した折の『浪士組上洛名簿』である。これには二十二歳と記されたことから、これを逆算して天保十三年説が唱えられている。
ここ最近の出版物では殆どこの天保十三年説を取り上げており、本志耀館では吉田稔麿との年齢差を考慮して十三年説を選んだ訳だが、どちらも信頼性は半々と言った所だろうか。十三年説を唱える殆どは『浪士組の名簿という公的機関の史料であるから信頼性が大きい』という理由だが、考え様によっては公的なものであるからこそ、信頼性がないとも言えなくはない。当時の社会において、生年月日や年齢に如何ほどの重きを置いていたのかは解らないが、片隅の町道場とは言え総司は免許皆伝の塾頭である。二十歳になるかならないかの若造が塾頭では大した事はない、などと他の参加者から思われはしないか、そんな思惑がもしもあったとすれば…。(最も二歳程度では大差ないではないか、と言われればそれまでだが)また現代ではしばしば混乱の元となる”数え年”の問題もあって、どちらにしろ不明瞭さは拭えない。
ただ、沖田家に残る伝承には、総司の生年月日を決定するに重要な説があるらしい。なんでも総司の生まれた日は酷い暴風雨であったとか、或いは日蝕であったと言われているそうだ。これを元に推理した説があったらしく、仮に其の日蝕説をとれば天保十三年の六月一日となるそうだ。残念ながら、私はその年の暦も気象状況も未だ知らずにいるので、これはあくまでも伝承による仮説であることを明記しておく。

試衛館への内弟子入門の年齢もまた二通りあり、沖田家の伝承では九歳とあるものの、近藤勇の甥で跡を継いだ勇五郎氏によると『十二、三歳頃』という。もしかすると、当時から総司の年齢、その出自に不明瞭な点があったのかもしれない。


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