「天理可楽怖」第三号の記事

 

「天理可楽怖」(テリカラフ)は、明治二年四月に東京浅草において日本で最初に発行された新聞です。明治二年四月二十八日発行の第三号にて、会津戦争に於ける会津藩の健闘が、会津以外の地で初めて報道されました。
原文にはない句読点や送り仮名、
( )(←説明の補足)等、文章を判りやすくする為に補った箇所があります。



テリガラフ第三号 明治二年己巳四月廿八日

此の頃、東京鍛冶町なる医師の家にて客死せる北越の士、萩原源蔵という人、病床にありし時談話し次、去年討会の事に及びしかば、其の筆記せる心情新話と題せるもの数葉を示せり。今や此の人既に世を去り、其の筆記の存せるを見るに、啓発事どもあれども、僅々たる所篇にして、一小冊を為すにも足らざる新聞故、世に出す。

  心情新話

余の友人に次原某という人あり。毎に博聞を好み、能く時事を聞知せり。一日、余、問うて曰く、吾子は広く交わり、遠く聞いて時事に詳らかなり。昨年、北方の事、今は愈(いよいよ)要領を得られしならん。討会の一条を考うるに、孤城に大軍を引き受けて火器の戦争に三十日を保てるも、必ず由縁あることなるべし。其の辺は如何に聞かれしや。
次原答えて曰く、御不審はむべなることなり。西洋にて火器戦争の時刻を調べたることのあれども、籠城に三十日を費やすというも聞かざることなり。会藩の事は余の識る処に、即ち囲城中に在って目撃親聴せし人あり。私に聞ける件々の大略を語るべし。

抑(そもそも)官軍、神纂妙計を以て会人の不意に出でられし故、城中には備えなく、壮強の兵は四境に散在して、僅かに老弱婦女、留守の者、倉卒に入りて守衛せしのみにて、粮米を運び入れ、弾薬を装い、蓄える暇もなく、実に狼狽せしとなり。此にて官軍一挙に圧されなば、卵を破るのごとくなるべしと見えしが、官軍の力も此に至らず、城中は此を幸いと、あらん限りの力を尽し、守備せる中に、散在せし兵も追々帰り来て、処々の戦争となり、防御の備えも漸々整い、後には閑暇にして攻手の来るのを待つ程になりたる由なり。
此守備の整いたるも、窮迫の上とは云いながらも、互いに奮発して死を畏れざりしは殊勝なることなり。第一に、七十に余れる老翁の、銀毛(しらが)を乱し、禿頭を振い、手に長槍を把り、奮って城外に出撃時に、戦死を遂げたる有様などは、壮強の者も為に励まされ、一倍の勇気を増せしとなり。
幼弱者には、自ら平心に、囲城中とも知らざる如く、折々には紙鳶など飛ばして慰み居れ共、十五歳より十七歳までは組み合わせて白虎隊と名づけ、処々に戦い用いし中に、少人数にて大軍を防ぎ、奇功を奏せし事ありしとなり。その憐むべきことには、正直一片に号令を守り、進退少しも指揮に違うことなく、死して隊伍の尽るに至るも、知らざるが如しと、其の将帥たる者、屡涕(なみだ)を灌げることありしと、語れる由なり。

此に御談あり。一の老媼ありて其の子の行方を知らず、尋ねて山を攀じ行けば、各両裸をぬぎて腹を屠れるも有り、喉を突けるもあり、刃に伏せるもあり、伏屍相據りて鮮血淋漓たるを見るに、何れも幼弱にて年頃其の子と相均しければ、老媼憫然と涕を流し、親しく閲し視るに、一人刃を喉に刺しはさみ、気息猶通ずるの如くなれば、除(おもむろ)に刃を抜き、其の儘負い帰り、漸く養を加えければ、其の人遂に蘇生せり。其の始末を尋るに、始め滝沢辺なる山間にて敵を受け、戦いしが、味方散々(ちりぢり)となり何くに往けるや知らず、敵は既に疾く進んで城際に迫りて、烟炎空を蔽(おお)い、誰一人来り援くるものも見えざれば、迚も叶わじと各心に決定し、此の上は敵の手に係らんも口惜しと、互いに相談し、暫く其の場を遁(しりぞ)き、城陰の見ゆる所を択(えら)び、各遙拝して死に就きたり。自己も頻りに喉を突きたるとも貫き得ざる故に、突きたる刃の儘にて両手に木株を引き、身を以て圧しければ、人事無證(おぼえなく)となり、此に助けて連れ帰られしことなどは、夢にも覚えざりなしという。
凡て十六人、何れも白虎隊にて悉く死に就き、一人蘇生せるに因って、外十五人の姓名も詳らかになりける由なり。かかる幼弱の身として決心の潔きを見れば、成長の後は英材となるべきものありつらんに、惜しきことなりと人々云えりとぞ。

又、婦人も城に籠れるもの数多く有りて、縫針執れる女の業は論もなく、弾薬を製し、傷者を看病し、或は火防を任する等の事には、鎮静詳密にして男子に勝れることありて、軍事には大いに助けありという。中にも鋭気なるものは、髪を断(き)り、銃を執り、進戦を乞いぬれども、隊伍に入るべきにもあらで、許されざりければ、自ら男装に変じ、私(ひそか)に兵間に雑入し、親しく発砲して功を奏せしものあり。或は其の夫討死せるを聴き、老母の為に親しく介錯し、幼児をも其の手に懸け、自己は薙刀を提げ、心置きなく出起て奮戦し、勇を表せしものなり。或は敵の来たるをむかえ、姉妹共に城外へ進戦し、姉は重傷を負いければ、妹之を介錯し、其の頸を提げ来たれるなどあり。其の他、敵の手に掛らじと、家挙て灰燼となりしもの等は、指を屈するに暇あらずという。

廿三日より昼夜の砲声絶え間なく、城は屈曲も宜しく堅固なれども、四面には棲櫓(やぐら)もあり、殊に五重棲臺巍然として高く聳え、巨砲には好的にて此に一度火起これば、満城足を留むべきの地なければ心安くなく、官軍は東は五六十丁を隔てて山の頂より巨砲にて射下し、北は外郭に依て小砦を築き、何れも弾道宜しきを得て、飛丸雨の如し。城中にて誠に之を数えるに、其の多きは一字(時)間に二百丸余、一日間には三千丸に及べるを、数日ありて拾い集める片丸は小山の堆きをなせり。此の有様にて、迚も堪べきに非ざれども、火防委任の者どもは巨砲の声に熟し、温袍類のものを水に浸し、大丸の墜つるを待ち受けて、手づから之を包みしとなり。其の包める時に直に発し、満室黒烟となり、五体砕裂せしものあれども、別人跡を継いで之を包み渡すには、疵をも受けることありしかど、我より先だちて制すれば、破裂の勢いも衰え、傷者は少なりしとぞ。然れども、委任の者、弾丸と共に打死せるは、職掌なりと決心せしに非れば、為し難きなり。然らずば、一日に三千巨丸を受け、何ぞ燼(もえ)上がらざるの理あらんや。

又、城中に巨鐘あり。常に時刻を城下に知らしめしが、囲みを受けしより此を撞き、開城に至る迄、一日の間断なく昼夜共に遠聞こえければ、城外に在るものは此にて城中の恙なきを知り、農商など思い思いに贈り遣いせし故に、黒米を雑へ炊ける程の不自由になりても、餅や酒などは絶ゆることなかりしとなり。其の鐘撞きは小禄卑官にて、僅かに両三なりしが、職を守れる精神は希なるもの也と、城中にても感称せざるものなかりしとなり。

城中は三十日の囲みを受け、外に応援を頼めるにも非れとも、主従一気に凝り一人の叛者もなく、詰まりは人種(ひとだね)の有らん限りを尽し、城と共に自滅せんと決心せるのみ。爰に米沢藩にては、既に官軍の奨引(さそい)に由て降伏の義も整い、贖罪の為に先鋒の列に備わり、会の城下へ迫らしめられしが、昨日まで同盟の義を結び、今日は仇敵とし視るも、さすが中心苦痛に堪えざりけん、実に進退跌(つまず)きて、頻りに会人に勧めて降伏の媒妁(なかだち)を為したる由。此に会侯にも篤と城中の人気を察せられしが、寧ろ一身を辱めて此の数万の生霊を助けんとて、遂に米藩の議に任せ、開城のことにも決せられし由なり開城の時に及んで閲するに、製弾兵粮共に尚一ヶ月をも支うべき程ありしとなり。

余、又曰く、会人籠城に至りし所以は、誰に聞き得たり。然るに、その心術は如何なるべきや。
次原曰く、会人の東都を退く時に、一二の臣を留め置き、謝罪書を上(たてまつ)り、又仙台でも米沢でも周旋を頼み、謝罪書を上(たてまつ)り、全く謹慎の積りなりしが、謝罪書は如何なりけん。追討の師は追々国境にも臨みければ、彼の風土の血気もの愈々激発し、在上のもの制すべき力もなく、加うるに旧幕臣を始め、諸藩脱走の徒推し立てて、東方の盟主とするに至り、遂に奥羽越の合従となりたるは、自然の勢なり。其の降伏の時は、始めは何の師たるかを知らず、境を犯すが故に防戦せしが、愈々官軍の発向したるを知り、固(もと)より
王師に抗するの意なければ、直に降を乞いたる由いえること聞きしが、此は口に藉(かり)ける辞令というものなり。其の実は、一意を構えて戦いしが、時の不利なるに、空しく自滅せんも遺憾なりと決議せるなるべし。然れども、既に降伏謝罪して、彼の強気を屈し、首を低れ、膝を屈し、双刀を脱する至りては、辱(はじ)も亦至れり。豈再び順を犯すの意あらんや。是に於いて活眼の君子、海岳の量を以て其の罪を寛(ゆる)し、彼をして一気に凝れる志を移して、外患に備えしめば、彼も亦、
皇恩に感じ、万一辺隙生ずるが如きは、何ぞ射来る火丸を手ずから包まざることあらんや。此、大いに国家に稗益あるべき也。何ぞ其の心掛けを疑わんや。以て如何と思うといえり。



(注)この記事中、白虎隊の自刃に関する記述は、『若松記草稿』(戊辰戦争史料『復古記』に部分引用されている『若松記』の草稿とみられる明治44年の写本、研究者の菊地明氏が発見したとされる史料)の記述が元になっているとみられ、文章(原文)もほぼ同じですが、『若松記草稿』には自刃者16人のうち14人の名が挙げられています。その後、『七年史』にて紹介されている自刃者は、以下の16人です。

篠田儀三郎、西川勝太郎、津川喜代美、安達藤三郎、野村駒四郎、簗瀬勝三郎、簗瀬武治、井深繁太郎、有賀織之助、間瀬源七郎、伊東俊彦、林八十治、永瀬雄治、鈴木源吉、石田和助、飯沼貞吉

*『若松記草稿』では、簗瀬勝三郎と伊東俊彦の名がありません。また、簗瀬武治が「簗瀬武吉」、石田和助が「石田龍助」、飯沼貞吉が「飯沼直吉」と誤記されています。
なお、上記の記事が出た頃は、自刃者は16人とされていました。←人数についての考察は、当サイト『白虎隊
FILE』内、「白虎隊の編制」からのリンク、「士中二番隊」にも関連記述があります。



(注)の参考文献 : 菊地明『会津戊辰戦争日誌』下巻
『天理可楽怖』記事の原文 : 『白虎隊精神秘話』に全文を掲載
白虎隊に関する部分の現代語訳はこちら



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