白虎士中二番隊 

 

白虎士中二番隊は、慶応四年七月十日(八日説も有り)、白河口方面の巡見の為、一番隊と共に若殿(松平喜徳:容保の養子)の護衛として福良(猪苗代湖の南側)に出張。

八月二十二日、中隊長日向内記に率いられた士中二番隊は、容保に付き従って滝沢村へ出向。緊迫した情勢を受けて、滝沢峠を越え、戸ノ口村を望む強清水村左方、越後街道南側の小高い山で待機することになり、糧食の準備がなかった為、其処に露営していた敢死隊から握り飯を貰って飢えを凌いだ。
この日、旧暦の八月二十二日は新暦の十月七日頃にあたり、寒い夜だったという。野営中、中隊長の日向内記(ひなたないき)は軍議のために単身出て行ったのであるが、道に迷ったのか、或いは予期せぬ出来事に見舞われたのか、いつまで待っても戻って来ず、しかも降り始めていた雨は更に強くなり、砲声の中で戦いに慣れていない少年達は寒さと空腹と不安を抱え、夜を明かすことになった。

翌二十三日の早朝四時頃、新政府軍が前進を開始。半隊長の原田克吉が数名の隊士を連れて斥候に出た後、未だ戻らない日向を待つのを諦め、残った隊士達は副隊長格の嚮導、篠田儀三郎の指揮の下、敵と一戦を交えることを決めた。
少年達は善戦したが、こちらの所在を知った敵も猛烈な射撃で反撃。武器の違い、兵の数、戦場での経験不足等もあってか、池上新太郎ら数名が負傷、退却を余儀なくされる。無我夢中で退却したせいか、隊士は幾つかのグループに分かれてしまい、篠田率いる十六名は新政府軍の進路を避け、城に戻って君公を護衛しながら敵を迎え撃つつもりで城への帰還を目指すことにした。途中、滝沢の白糸神社から本街道に入ったところで敵に遭遇、銃撃戦となって永瀬雄次が負傷。彼を背負い、飯盛山の東側に掘られた弁天洞の洞門を抜け、弁天祠の傍に出た。其処から飯盛山の高台に進んだ彼らの視界に開けたのは炎に包まれた城下であった。
篠田儀三郎ら十六名は、君公の無事を確認するため城を目指すか、尚も戦い続けるかを論議したが、極度の疲労と銃撃戦で負傷した者も居た為、敵に捕らわれて恥辱を味わうよりは会津武士として立派に死のう、と、全員壮絶な自刃を遂げる(飯沼貞吉のみ後に蘇生、救出される)。

所謂「通説」によると、飯沼貞吉が出陣の際に母から贈られた和歌「梓弓むかふ矢先はしげくともひきなかえしそ武士(もののふ)の道」を二度、朗々と読み上げ、傍らに居た篠田儀三郎が文天祥の詩を高らかに吟じた。石田和助が最後の部分「人生古(いにしえ)より誰か死無からん 丹心を留取して汗青を照らさん」を共に誦み、「手疵苦しければお先に御免」と刀を腹に突き立てた。篠田もこれを見て咽喉を一気に貫き、永瀬雄次と林八十治は刺し違えて死のうとしたが、重傷を負っていた永瀬は林を死に至らしめる事ができず、野村駒四郎が介錯をしてやった。その直後、野村自身も屠腹して倒れた。飯沼貞吉は咽喉に脇差を突き立てたものの、何かにつかえて突き通らなかった。再び力を入れて押してみたが、やはりガチリとつかえるものがあって思うようにゆかず、一度抜いてから傍にあった岩石に脇差の柄頭を当て、切先を手探りで血の流れ出る傷口に差し込み、岩石の両側に生えていた躑躅(つつじ)の根株を両手でしっかり握ると、満身の力を込めて上体を前へ突き出した。彼はそのまま人事不省(意識不明)となったが、後に蘇生し救出され、奇跡的な生還を果たす事になる。(←救出された飯沼貞吉のその後については、当サイト内『飯沼貞吉FILE』の「飯沼貞吉伝」で詳しく解説しています)

十六名の後から飯盛山にやって来た四名(伊藤俊彦、石山虎之助、池上新太郎、津田捨蔵)も、相次いで自刃。←石山虎之助のみ別行動で飯盛山に辿り着き、仲間の後を追って自刃、伊藤俊彦と伊東悌次郎を入れ替え、伊東・池上・津田の三名は更に遅れて飯盛山にやって来て自刃したとする説や、この三名は飯盛山ではなく、不動滝で戦死体として発見され、牛ヶ墓村の肝煎・吉田伊惣治によって妙国寺に埋葬されたとする史料・解説書もある。

隊士の一人、酒井峰治は、石田和助、伊藤俊彦、石山虎之助らと行動を共にしていたが、退却の途中で草鞋を履き替えようとして、仲間とはぐれてしまった。一人になった彼は、地元の農婦と子供に出会い、所持金を与えて子供に道案内をしてもらった。その後顔見知りの村人から戦況を聞き、牛墓村に住む知り合いの庄三を訪ねたが、生憎不在だった。他の村人に城の様子を訊ねてみたが、白虎隊士である峰治との係わりを避けようとしてか誰も返事をしてくれず、彼の姿を見ただけで隠れてしまう者も居た。そうした異様な有様から、峰治はついに自刃を考えるが、其処へ庄三と斎藤弥一郎(会津藩士か?)の妻が馳せ来たり、自刃を思い止まるよう諭した。戦況を確認する為に農民の姿に変装した峰治は、農民達と一緒に居るところで、同様に農民に変装した伊藤又八と会う事ができた。更に愛犬のクマと再会したことで、峰治は生きる気力が湧いたようだ。(←酒井峰治の『戊辰戦争実歴談』は、当サイト内の「史料」に現代語訳を載せています)

原田克吉に率いられ斥候に出た隊士達(城取豊太郎、遠山雄午ら七名)は、原田と共に戸ノ口から退却、篠田達のグループと同様に飯盛山で城が陥落したと見て、やはり自刃しようとしたが、敢死隊の小池勝吉と名乗る人が諫めた為、自刃を思い止まって入城を目指した。←彼らは篠田達の遺体を目撃してはいないので、彼らより先に飯盛山に到着していたと思われる。

酒井峰治とは字の違う坂井峯次は、他の隊士達とはぐれてしまい、前を行く集団を味方だと思って近づくと、「何藩か?」と訊かれ、「会津藩、白虎隊」と答えると一斉に射撃されたので、避けようとして谷に落ちてしまった。城へ向かうのは困難だった為、塩川へ出て河原田治部の隊に合流、転戦した。

やはり仲間とはぐれた庄田保鐵は、日光街道に出て山川大蔵の隊と出会い、合流した後、城に戻ることになる。

生き残った隊士のうち城に帰り着いた者は、士中一番隊と合併し、籠城して戦った。生き残り隊士の一人、酒井峰治は、『戊辰戦争実歴談』にて、自分は原田主馬の率いる朱雀士中三番隊に入隊したと回想している。


白虎士中二番隊名簿(は自刃および戦死者)

中隊長:日向内記
小隊長:山内蔵人、水野祐之進
半隊長:佐藤駒之進、原田克吉(勝吉)

安達藤三郎、有賀織之助、飯沼貞吉、池上新太郎、石田和助、石山虎之助、伊東悌次郎、伊東又八郎、伊藤俊彦、井深茂太郎、片峯祐之進、酒井峰治、坂井峰治、笹原伝太郎、篠田儀三郎、篠沢虎之助、城取豊太郎、庄田保鉄、鈴木源吉、多賀谷彦四郎、津田捨蔵、津川喜代美(潔美)、遠山雄午、永瀬雄次、永野兵太郎、成瀬善四郎、西川勝太郎、野村駒四郎、林八十次、原三郎、藤沢啓次、間瀬源七郎、宮原三四五郎、簗瀬勝三郎、簗瀬武治、矢島八太郎、吉田錺之助

注)「旧夢会津白虎隊」永岡清治著に、以下8名の名がある。石黒寅三郎、小野田尚四郎、志賀与三郎、竹村幸次郎、田中清三郎、向山仙吾、浮洲政、松原孫次郎

隊士は以上三十七名(+八名?)、うち自刃とみなされる者十九名 注1


注1飯沼貞吉が森勝蔵に宛てた手紙(明治四十四年十二月十九日付。全文は当サイト内「史料」に掲載)によると、自刃した士中二番隊士の数について、「白虎隊之内飯盛山ニ於テ自殉シタル人員ハ十六名ガ正当ニ有之候。十九名ト称スルハ飯盛山ニ達セサル途中ニ於テ戦死シタルモノ三名アリ。之ヲ含ミ十九名ト世間ニテハ申居候事ト存候」とあり、更に「小生ガ右ノ十六名之一人ニ御座候」としている。彼が言うところの十六名とは、『七年史』にも挙げられている下記の十六名とされる。

篠田儀三郎、西川勝太郎、津川喜代美、安達藤三郎、野村駒四郎、簗瀬勝三郎、簗瀬武治、井深茂太郎、有賀織之助、間瀬源七郎、伊藤俊彦、林八十治、永瀬雄次、鈴木源吉、石田和助、飯沼貞吉

現在定説となっている二十名(飯沼貞吉含む)にあと四名足りないが、そのうち伊東悌次郎、池上新太郎、津田捨蔵の三名は二瓶由民『白虎隊勇士列伝』では「自刃」ではなく「戦死」と記されており、この三名が飯沼の言うところの三名と思われる。←比較的新しい研究で、菊地明・横田淳『会津戊辰戦争写真集』(2002年)に、不動滝の上で伊東・池上・津田の遺体が発見された事が書かれている。
残る一名、石山虎之助は、飯沼の回想に出て来ない事からも、先の十六名に遅れて飯盛山に到着し、仲間が自刃しているのを見て後を追ったと考えられる。←当サイト内「白虎隊考察」にも関連記事があります





参考文献: 早川廣中『真説・会津白虎隊』、宗川虎次『補修 會津白虎隊十九士傳』、中村彰彦『白虎隊』

戻る