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徒然



2004/05/16  とても小さな大問題





 この春、種を植えた。

  黄色いトマト、15粒。
  ナスタチウム、6粒。
  ワイルドストロベリー、37粒(確認16粒)

 詳細は観察日記に譲るが、芽が出た種もある、出なかった種もある。途中で力尽きた芽もある。

 全てにいい結果がでるわけではないという事実が、なんというか、うまくいえないが、心の深い部分に突き刺さってきた。いや、全てにうまい結果が出るわけがないことなど嫌というほどに身にしみて判っているのだが、少し種類が違った。
 ちょうど今の歌を引き合いに出せば

「誰かの願いが叶うころ あの子が泣いてるよ
 みんなの願いは同時には叶わない」

 そんなことは、椅子の問題、対抗択一問題でなくたって起こる、そんなことはわかっている。ただ、それとは微妙ながらも、種類が違う。強いて言うならば、後者のほうが近いかもしれない。

 種があり、土があり、水があり、光がある中で世話をする、という整った条件の上だから、余計にそう思えたのかもしれない。
 芽が出ないものもいれば、途中で力尽きたものもいた。

 敢えて彼らと呼ぶが、彼らからすればこちらの期待など関係がなく、ただ条件が整い、自らの命ずるまま、命ぜられるままに芽を出そうとし、出したに過ぎない。そういう言い方に、真実が全く含まれていないかといえば、完全なる否定はできない。
 そこまで卑屈にならずとも、彼らが発芽するのを手伝ったに過ぎない、と言えば多くの人が頷いてくれるところだろう。

 いや、本当に嬉しいんですけどね。実際芽が出て成長する姿は。

 その一方で感じたのは、おこがましい自分。
 だいぶ前の歌になるが、

「弱い者達が夕暮れ さらに弱い者をたたく」

 逆に言えば、叩かないことによっても、自らの存在を肯定することもできる。
 自分は彼らの命運を握ることによって自らの存在にすがりたいのではないか、ということだ。確かに、そこまで自分が弱っているのは事実だから。

 物言わぬ彼らだからこそ、自分の中にある細かなものまでも映す鏡となったのであろうか。別に自己否定をする気はないが、若干の衝撃を受けたのは事実だ。
 角度は違うのだが、英語を学んだとき、英語を話す人々の心・論理の動きを垣間見たような気がした、という驚きと似たものを覚えた。
 今回見えたものは他者の価値観を通しての自分ではなく、あくまでも自分から見た自分自身なのだが、色々な条件と相俟って、今まで見られなかった自分というものを見る端緒となった。

 何度も言いますが心底嬉しいんですよ。芽が出て成長する姿は。



 そこで、心の観察・整理をしたところで、ひとつの問題と、ひとつの事実に気が付いた。

 発芽したもの達の存在の問題と、力尽きたものへの無視できない一つの感想だ。

 お蔭で多くの発芽が見られた、しかしそれは彼ら全てを成長させる「余裕」の問題が発生した。

 今までの自分は、生活の範囲を限定しながらも、全てを抱えようと試みてきた。もちろん致命的なミスを犯したこともあったが、やってきたという自負はある。無論、自負があるなどと言って誇るべきところでもないのだが(苦笑)
 その結果として長年積み重ねてきてしまっている問題。現在抱えている矛盾と限界が、非常にシンプルな形で目の前に問題として再提出されていることに気が付いた。

 『確かに今の自分には、全ての芽に成長をさせられるだけのスペースを用意することができるかもしれない、しかし、それでは今までやってきたことの繰り返しなのではないか?』

 そんな言葉がよぎる。瞬間的にできることと、継続的にできること、苦もなくできることと、背伸びをしてようやくできることは違うのだと、まだ気が付かないのか?まだやる気か?と、自らの心に疑問符を投げかけてきた。
 要するに、現状認識と優先順位の問題を、成長のため、という一言で蓋をしてペース配分もなく走りたいだけ走ってきた自分の矛盾点だ。

 間引き、つまり、選択をしなければならない。その事実に気が付いたとき、あれほどまでに発芽を喜んでいた自分が、恐ろしく残酷なのではないかという笑えない視点に気が付いた。
 同時に、お分かりだろう。自ら手を下すことがなくなった力尽きたものたちへの評価が微妙ながら変化した。

 全てに成長をしてもらいたいという自分勝手な願望と、自己矛盾を解決するため、かつ植物を育ててゆけば当たり前の選択肢とが真っ向からぶつかる。
 大袈裟に聞こえるだろう、自分もそう思う(笑)
 ただ、シンプルながらもわかりやすい対立構造を目の前に提示してきたこの偶然に、感謝もしている。

 体を動かすスポーツには、動作を覚える上での訓練法が二つある。同等以上のスピードで主に視覚から訓練をする方法、分解写真のように遅く、一つ一つの動きを主に体で確認する方法。まさに後者が目の前に乗り越えるべき問題として用意された、という感謝だ。

 ここで目を背け全てを育てるのであれば、恐らく自らを潰しかねないこの矛盾を抱えたままであろう、本当に大袈裟だがそのように思う。

 彼らには本当にすまないが、限られた空間における限られたなしうることを最大限に生かすために、犠牲になってもらう決意をした。