徒然
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2004/08/18 心境の変化?拡大?
8/17更新「許されなくても、許せる人」
「許されない」というのは、自分を含む「人から」であり、「許せる」というのは「他人から」という言葉が隠れていました。
人から許されることがなくとも、他人を許すことができる。潔さと強さを兼ね備えた、本当の強さに近いんじゃないかなぁと思ったわけです。
ならば、何故「人から」「他人を」という言葉を省いたのか?最初は「人から」も、「他人を」も、書いていました。
でも、そこでもうひとつの強さにも気がついたんです。
「他人から」と「自分を」を入れてみると…
それが悪いってわけではなく、色眼鏡で見なければそれもある意味もうひとつの強さなのではないかなと、思ったわけです。
そう思えるようになったのは、認めたくはないんですが、歳をとったせいなのかな?後は…他人の命をいろんな意味で預かる世界を見るようになったせいもあるだろうし、ここ数年レベルの高いサッカーの試合を見るようになったからかな?
歳をとったせいというのはさておき、後二説については少し解説しますね。
前者は、仕事である以上は連続しているし、ひとつのミスが致命的であったとしても、軽症であったとしても、それに引きずられるということは、ミスの連鎖を起こす危険が多分にある。
その場の住人であれば、いかなる場面であれ、自分を最高のパフォーマンスで動けるように維持する義務があり、要求があり、期待がある。それがプロであると思うからですね。
自分であれ他人であれ、許せない、ということは歩みを止めかねず、そこで時間を費やした反省は自己満足に過ぎないという側面が否定できないと考えるから。ですから、正確には許すのとは違うと思いますけど、外見上は同じかなと。
後者の意味は、その場で立ち止まるサッカー選手は一流ではありえないという前者の意味に加味して、狡さも技術であると評価される世界がそこにあるから。
正義の世界の住人からは、言い訳であると切り捨てるのは簡単ですが、切り捨てきれず、割り切れず、の自分がそこにいます。
機械ではなく人による審判。審判の質や性格までも含めて、それが既にルールであると。
そう考えてしまえば、自分がその部分に手を染めるという話の前に、そのような世界があると認識している以上、背中にも気を配れるし、憤りで歩みを止めることもなくなるなと考えます。
やはりこれも、正確には許すのとは違うと思いますけど、外見上はやはり同じかなと。
手を染めないならば、圧倒的な強さが必要だと、自らハンデを背負っているのだからそれも当然だと励むこともできます。結果、心理的な上限も青天井に(言いすぎかな)。
最後に、表立って許されはしないけど、「あー、あいつね、仕方ないよね」という(い意味も悪い意味も両方で)許され方をされる人のことは、ぜんぜん頭にはありませんでした。よく考えれば、それも最強かもしれませんね(笑)
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