徒然
■□
2004/01/10 幸せの、総数
人間は太古に、狩猟・漁撈・採集生活より脱却し、農耕を覚えてから、富める者とそうでない者の差が本格的に始まったと、小学校の授業で習った記憶があります。
その頃より今に至るまで、理由は違えども、物に対する人の思いというのは、すさまじいものがあります。
好奇心とともに人間の進化の歴史を支えてきたといっても過言ではないでしょう。
しかし、われわれは知識として、または実感として知っています。
物に対する欲望は、たとえ満たされたとしても、それのみによっては幸せになれない。それどころか、手に入れることによって、”手に入らないもの”という見かけ上最高のソースがなくなってしまい、また次を追いかけるなんて悪循環まで発生することすらある。
その一方で、モノがモノである限り、有限である。もしかしたら一つしかない。そうである以上は、持つものと持たざるものがいるのは必然。
そう、それは仕方のない事実なんですが、そこに、ものに対する思いと別なものを結合させると、いっそうタチが悪くなるわけで。
例えば、”あれが手に入ったなら、幸せになれるに違いない。”気持ちです。
椅子取りゲームのはじまり、ですね。だから、モノの持つ必然性と、気持ちが結合すると悲劇が良く生まれます。
ほしいモノは、本当にあなたに幸せをもたらしますか?そこまで立ち返っても良いと思うんですよ。
その上で幸せと言うものを考えてみれば、それは本当に摩訶不思議なものです。
幸せは、有限ではなく、無尽蔵でもない。
よくある物語で、モノがある家に幸せは来訪せずに、モノのない家に幸せがある、と言った半ば皮肉めいた話を目にしたことがあるように、正比例の関係ではない。勿論反比例でもありえないのですが。
つまり、幸せは一人ひとりのなかにあり、絶対数も総数もあるわけではない、ゆえに、モノとしての特筆を有さない。言い方を変えれば、幸せに絶対数がなく、不幸と幸せの数は決まっていない、ということです。
では何故、他人の不幸を幸せのバロメーターとする?答えは簡単、一つは幸せのモノ化、もう一つは自信のある価値観の欠如。
これがある、幸せ。これがない、不幸。
そんな考えは単純で、自分の頭の思考を停止させている分、楽。楽だけど、幸せなのかなぁ?って思います。だってモノは有限ですから、更にその幸せには耐性が付くんですから。
もう一つは上記にかなり近いのですが、比べるんですよね。何を?やっぱりモノだったり、モノみたいなものを、です。比べる以上は勝たないといけないですよね、やっぱり。ただでさえ勝ち負けが必要な世界に何を好んで勝負を持ち込むのかって話になります。
別にモノがなくても生きてゆける!なんていうつもりは毛頭ないのですが、生きるために十分(この言い方に語弊があれば生きるために必要最低限でも一応いいです。)のモノがあれば、それ以上を求める気持ちに際限はないのではないかと。それ以上を外に求める行為は、悪循環に片足を踏み入れ、幸せの来訪時に留守にするに等しい行為となりうるのではないかと言いたいのです。
幸せに限界はない、比べる必要もない。勿論、他人への迷惑への配慮は最低限のルール。それでいいんじゃないですか?
それが、幸せと言う青い鳥を捕まえるコツなのではないかと。
■□
|