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『PRUNABLE WORLDS』
第一章「少年、幻想を嫌悪する」


《5》

  「──サイレンが鳴ってる」
 少し遠くから、緊急車輌のサイレン音が聞こえてくる。それは警察車輌(パトカー)であったり救急車であったり、とにかく複数の別々の音が、駅前の方へと向けて走行しているらしいことが唯一華には感じとれた。
 「あ、本当だ。メガ(ねえ)の言ってた『奴ら』って、本当にこの街に来てるのかな」
 純菜が応える。なお、「メガ姐」とは担任教諭であるところの円岳メガラの名前を、彼女の特徴(トレードマーク)ともいえる眼鏡(メガネ)とで掛けた純菜独自の綽名(あだな)である。仮令(たとえ)担任の教師が相手でも、純菜のネーミングセンスとやらは一切の手心が加えられることもなく発揮される。
 「どうしよう、なんだか怖いよね」
 「あーあ、せっかく今日は部活休みだから駅前でもぶらぶらしようかと思ってたのになぁ。危ない目に遭ったら洒落(しゃれ)になんないし──仕方ない、帰ろかワン子」
 「うん、そうだね」
 元々やや控えめな性格の唯一華はともかくとして、純菜は一見快活で好奇心旺盛、悪く言えば野次馬趣味──それこそ大守と凡平の馬鹿話にも割り込むくらいなほどに──な印象を持たれてはいるが、実際のところはそうそう無闇矢鱈(むやみやたら)に首を突っ込むような真似はしない。危ないもの疑わしいものには不用意には近づこうとはしない、意外に慎重な一面を持っている。
 それを凡平のように「処世術」と称ぶのであればそうかもしれない。しかし、彼とは異なり純菜の場合はそれを「処世術」などとは、たとえ仲間うちであろうとも吹聴することはない。また、大守のように意識的にそれを実践しているわけでもない。そもそも彼女自身がそれを「処世術」と認識すらしていないからである。持って生まれた性分(・・・・・・・・・)──とでも解釈するのが良いのであろう。
 ともあれ、二人が(きびす)を返そうとしたとき。
 「あ」
 「どした、ワン子?」
 「いま、誰か走っていかなかった? まさかと思うけど、あれ──」
 しかし、その言葉の続きは突然に起こった衝撃音と、それに対して反射的に発せられた二人の悲鳴によって続かなかった。
 勿論ながら、こんな街中で発破(はっぱ)を用いるような大規模な工事が行われているはずがない。先刻からあちこちで聞こえるサイレン音といい、これは明らかにただ事ではない──本当に、テロリストがこの街に来ているのかもしれない──ことを確信させるのに充分であった。
 「ど、ど、どうしよう」
 「うわぁ、これ本気(マジ)にやばいよワン子。早く逃げよう」
 純菜は唯一華の手を引いて駆け出そうとする。
 「わ、ちょ、ちょっと純菜、急に走らないでよ。それに、さっきの──」
 若しかしたら──大守くん?
 つい先程、踵を返そうと一瞬振り向いた唯一華の目に映った人影。それは、彼女の視界に入ってきてすぐに駅前の方へと走り去っていったため、はっきりと認識することは出来なかったのだが、そのとき唯一華は何故か、ある級友(クラスメイト)の姿を思い起こしていた。
 ──でも、それはないよね。確か大守くんのバイト先って、こっちと反対の方向だって言ってたし。だけど──。
 「ほらワン子、早く!」
 「う、うん」
 そして、二人はその場を離れていった。


 一方、大守はあちらこちらでサイレンの聞こえる中を、独り駆けていた。先程の黒塗りの車が向かったと思われる方へ向けて。
 ──やはり来ていたのか。奴ら(・・)が──
 黒塗りの車は一瞬横を通り過ぎただけな上に、窓には日覆(シェード)が入っていたために中を窺うことは出来なかったものの、大守はそれが彼ら──大守の持つ「秘密」を知り、彼に普通の生活を望んでいた──のものである事を確信していた。
 確かに彼らは言った。「君は平穏な生活を歩め」と。
 しかし、その「平穏な生活」を破らんとする奴ら(・・)の存在がある。そのために彼らは人知れず戦っているのだ。
 そして、大守の持つ「秘密」──それは、彼らと同質の、奴らに対抗しうる可能性のあるものである。
 だから、自分一人が、まだ学生であるから、という理由だけでこうして安穏と暮らしていても良いのであろうか。常に心の片隅に(しこり)として残っていた。
 しかし、こうして奴らの脅威が身近に迫ってきて初めて、その(しこり)は形ある重石(おもし)となって大守の心を圧迫してしまったのである。
 ──俺に何ができるのかは判らない。でも、まだ俺ならば何かをできる可能性はある(・・・・・・・・・・・・)んじゃないか。
 それがある意味で逃避に過ぎないことが判っていても。ただ一時的に彼の心の重石を(やわ)らげるに過ぎないことが判っていても。大守は自らの足を止めることができなかった。
 そしていくつかの曲がり角を抜けて、ついに大守は目指していたもの──同時に、それは目にはしたくなかったものでもある──を直に目の当たりにすることになる。


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