追憶夜話 (二)

 

予は戊辰戦役の時は六歳で、その当時の思い出話は会津史談会誌戊辰戦役七十年記念号に載せたものがあるから、後に附記する。其の年の秋から母上等と一緒に塩川代官所の一室に謹慎させられた。
其の翌年あたりから謹慎しなくともよい高齢のおじいさん達の相談で、謹慎者中の子弟を代官所の大広間に集めて寺小屋を始められた。予も明治三年八歳の春から入門、素読を習い出した。日新館では、最初考経より大学、論語、孟子、中庸、小学の順に習って行くのであったけれども、乱後とて考経を所持して居るものがなく、大学を何処からか借りて、これから習い始めた。併し幾ばくもなく斗南移住となって止めてしまった。

種原時代は、九歳から十歳であったろう、母や姉と薪拾いに山に連れて行かれ、枯枝を拾い集め、不手際の束ね方をし、之を背負いて帰り、又畑に出て草むしりをさせられていた。其の内に櫻井常五郎という先生が五戸の上町の或る寺に居られて、私塾を開いて読書を教えられた。此の事を聞いて、府君が遊ばせても置かれんからとて、先生に頼まれて入塾することになった。お母さんに連れられ、書物と着替とを入れた小さい竹行李を背負わされ、先生の処に行き、お母さんは先生にお頼みをいいて置いて帰られた。これは通学ではなく、泊り込みです。始めて両親の側を離れて、今迄少しも知らなかった先生の処へ一人で泊らなければならぬと思ったら、悲しくて悲しくて何時間か泣き続けて居た。先生もあきれられたと見え、「関弥、関弥」と呼ばれた。泣きじゃくりしながら先生の前に行くと、「今日はこれから帰ってもよい、泣きたくなくなってからお出で」と云われた。大に喜び、「それでは又上がります」とお辞儀をして、持って行った行李を奥さんに背負わされて喜び勇んでもと来た道を種原の家に辿りつき、「只今」と勢い能くおとなえて内に入れば、皆々びっくりして、「どうして帰って来たのだ」と聞かるる故、「先生が帰ってもよいと仰るから帰って来ました」と云うに、お母さんは予の顔をつくづくながめ、「お前は泣いて居たな」「はい、泣いていました」「なぜ泣いた」「だってお母さんが帰ってしまって、一人で心細いですもの」と、又泣き出した。するとお母さんはキッとなり、「弱虫め、お前はいくつだと思う、十歳(とお)にもなって一人で居られぬやつがあるか、そんな意気地なしは死んでしまい」と、脇差をつきつけられ、散々叱られ、昔のえらい人の話など聞かされている処へ、おばあさん達も出て来られて、お母さんにお詫びをして下さり、猶懇々と誡められて、明日は参りますということになり、やっと許されて、その翌日又お母さんに送られて先生の処に行き、お母さんからお話をして貰い、それから心を取り直し、先生方に寝泊りして、四書の素読を習い出したのである。が、併しお母さんが時々先生方へお礼や食費を持って来られると、帰られる頃を見計らい、先廻りして帰路に待ち受けて跡を追い、叱らるることが度々あった。

明治六年、家族一同会津に帰り、予は日向左近と云う先生に就き、又四書の素読を繰り返し、漸く進んで五経となり、翌年の暮やっと大複試に合格して二等に進み、十八史略の読方と講義とを習うようになった。其の時の学友には、中村太郎、次郎などの兄弟があった。

明治八年、十三歳の時、長兄から修業させるから上京せよとの事で、喜び勇んで上京する事にした。其の時、府君より関弥を改めて武男と命ぜられ、実名を一寿(かずとし)と頂き、海老名の大叔母さんの上京を幸い同行を願い、其の年晩秋の候と思った。今度は泣かずに徒歩で原、白河、蘆野、大田原、宇都宮と泊りを重ね、古河より夜舟で霊岸島に着いた。見るもの聞くもの目新しく耳新しく、一々大叔母さんに会津弁で聞きしかば、「だまって居ろ」と再三叱られた。長兄の下宿は芝ではあったが、何町であったか、今記憶はない。そこへ送り届けられて、大叔母さんとは別れた。その頃、前に云うた借金保証人の問題が起こり始めた時でもあったろうか、いやな男が時々来て、何やら六ツ敷(むつかしき)事を云ったり、或は声高に言い争う様の事もあった。長兄は朝早く出勤し、夜に入って帰宿し、或は宿直で帰られぬ事もあった。其の間一人で下宿の二階に留守居し、持って行った十八史略など復習したが面白くなく、市中の見物に連れて行かるるでもなく、学校へ出さるるでもなく、徒然に堪えられぬ。依りて追々近所を散歩し、田町の海岸辺やら増上寺辺迄の道を覚えて出あるき、絵艸紙屋と云う店の前に立って張り出してある三枚続きの錦絵など飽かず眺めて日を消すか、又或は貸本屋と云うものの店に行き、小説など借りて来て読み耽って居た。

三、四ヶ月を夢の間に過ごせしに、長兄は或る日「俺は辞職して帰国する、お前は何処かへ書生に頼むから、残って勉強しろ」と言い渡された。びっくりしたけれども、未だ三、四ヶ月にしかならず、殊に何の修業もせずおめおめ帰りたくもなく、長兄の言に従った。其の内如何なる手蔓があったのか、薩州人の伊東某という海軍大尉位の人の処へ書生にやられた。元来薩州人は我が会津の敵と思い込んで居ったに、今は之を主人として仕えねばならず、実にくやし涙がこぼるる程で在ったが、致し方がない。朝は早くより女に起され、座敷の拭き掃除より靴磨き、水汲み、使い走り、来客の取次、それから子守までさせられ、学校へは出して呉れぬ。実に失望したけれど、長兄は既にいつの間にか帰国し、海老名の大叔母さんに相談しても各別良き工夫もなく、仕方がないから勤めて居よ、との事。半歳と過ぎ、一年とたつ内に如何なる話し合いになったのか、矢張り同国人の家村某という人の書生にやられた。此の人も海軍軍人で、此の時中尉位で奥さんと五、六歳の子供とばあやだけで、仕事は楽であったが学校へは出して呉れず、おもに子供の相手であった。之では如何にも仕様がないから、山川で根岸お行の松の近所に居ることを聞き、或日暇を貰い、早朝から徒歩で道を聞き聞き、根岸まで行き、山川を尋ねあて、伯母さんに面会して今の境遇では少しも修業が出来ぬ故、書生の仕事は何でもするから置いて戴き学校へ出して下さいと懇願した処、伯母さんは書生代りに置いてもよいが学校へ出してやる事は出来ぬ。洸(タケシ : 浩の子)の学校の送り迎え其の他の用事をした余暇に独学で勉強したがよい、それでよければ置いてやると云われた。郷里でやっと四書五経の素読が終わった位の学力で師に就かず諸学科を独りで覚ゆる事は到底不可能であると考え、依って能く考えて見ますと云って昼飯を戴き、又徒歩で帰って来た。相変わらず追い使われていたが、どう考えてもつまらぬ故、十五歳の時の初夏の頃、会津の府君へ手紙を出し、事情を訴え、旅費を送って戴き、何の得る処もなく只足かけ三年を空しく遊び暮らし、同行者もなく単独で帰郷の途に上り、奥州街道をとぼとぼと六泊し、七日目に会津に入り、両親の膝下に帰った。

両三日旅の疲れを休め、旧友を訪問して見るに、大概新教育と云う程でもあるまいが続いて勉強して居ったから、学業は田舎相応に進歩しているに、予は只東京へ出たという名文で依然たる呉下の阿蒙(ごかのあもう : 昔のままで進歩が無いこと)
であった。耻かしくて若松に居られず、越後東蒲原郡津川町に従兄の永井道忠が郡書記を勤めて居ったから、之を頼って津川町に往った。行くに当り府君より旧藩藩主家の御二男様が健雄様と云う御名前だから、お前の武男はやめろと云われ、別の名も戴かず、又もとの関弥に戻って仕舞った。
そうして永井の世話で郡役所の臨時雇に採用せられた。丁度其の時、コレラが流行していたので、阿賀野川の渡船場に検疫所を設置して、通行人を消毒した其処に早朝から詰めて手伝った。月給と云うものを始めて貰った。参円であった。永井方に寄食して通って居たのである。半年計り過ぎて冱
寒の候となりさしも、猖獗なりしコレラも衰えたので検疫所閉鎖となり、同時に臨時雇を免ぜられた。

そこで今度は同郡鹿瀬村と云う所の小学校の雇教員となり月給参円五拾銭を給せられ同村戸長日下翠と云う人の家に一升払の約束で置いて貰った。長は彼の日下東吉の養家で、東吉は其の頃福島師範学校在学中で留守であった。其の小学校の校長は物江某とて、福島師範出身の人で、此の人にも色々教えられた。一年計り勤むる内に、向鹿瀬の分教室詰をいい付けられた。是は川向の小部落で、雪中通学出来ぬ故、寺院に仮教室を設け、数組の生徒を一室に集めて教授するので、生徒の年長者と先生とは、たんと年の差はない位で、其の数は十二三人もあったろうか。此処では長谷川何とかいう筏乗りをしている人の家に、矢張り一升払で置いて貰った。此の家には萬太郎、萬次郎という兄弟の生徒が在ったから、悦んで置いて呉れた。雪解け通学が出来る様になれば、此の生徒全員を引率して川を舟で渡り、本校へ通うのである。十六か七の黄口の少年で苟も人の師と言われ、何を教えてあったか考えて見て、実に赧顔(あからがお)背に汗する計りである。

そうこうしている内に、永井を始め物江校長などより一生教員をする気なら師範学校に入学するがよいと勧められ、其の気になり、字引をひきひき国史ラン要、国史略、日本外史、十八史略等を読み、十八歳の暮迄勤めて辞職し、其の翌則ち明治十四年の一月、同郡中の矢張り雇教員の仲間であった池上五郎、神尾直八と共に福島に往って入学試験を受けた。処が幸か不幸か予一人合格して二人は落第した。落第した両人は却って発奮して、神尾は早く東京に出で実業家になり、池上は巡査になり累進警部となり、何処かの署長となり、相当の処までいった筈だ。予は夫より二年半、師範教育を受け、明治十六年七月、中等科と云うを卒業した。在学中、河野廣中の自由主義の説にかぶれ、党員田母野秀顕、花香恭次郎等の雄弁に心酔し、
壓制政府を頴覆すべしなどと其の口真似をしたり、頭髪を長くしたりして危うく退学せらるる処であったが、時に一等属であった海老名季昌に呼び付けられ痛く叱責せられて所謂転向し、頭髪も普通に戴りて退学を免れた。

卒業と同時に安達郡内木幡小学校の訓導を命ぜられた。月給は拾弐円であった。内木幡と云う村は、二本松の東北二里許りの僻村で、学校は廃寺を以て之に充て、初等六級より中等三四級まで生徒は五十人に満たず、一人の雇教員が之を教えて居た。そこへ予は赴任したので、早速中等科の方全部を受け持った。折角師範の新教育を受けたのを、斯様の学校に赴任させられては其の抱負と云うも少し大袈裟だが、何も施す術がなかった。其の頃、隣村の外木幡には佐野藤太郎、下太田には宇田徹等が居た。其の時郡役所の学事の書記は水野好之と云う二本松藩士で、予よりはずっと年長者で訳の分った人であった。郡役所へ出る度毎に、も少しよい学校へ転任させて呉れと頼んだ。水野は笑って、よしよし心得た、其の内によい学校へ転任させるから、暫く辛抱せよと諭された。居ること半年、明治十七年の一月に小浜小学校に転任を命ぜられた。月給十四円となった。水野郡書記の尽力である。小浜は二本松の東南三里弱の小市街で、生徒数も二百人位、教員も四五人あり、且つ分教室も二つあって、内木幡の比ではない。赴任後間もなく同町旧名主の家で、山一屋菅野傳四郎という人の家に下宿した。此の家に八十何歳かのおばあさんが居て、大層可愛がられた。学校から帰って新聞の小説を読み聞かせるを楽しみにして待って居るものであった。小浜へ来てから月々参円づつ母上へ差上ぐる事にした。

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