追憶夜話 (三)

 

山一屋に世話になること一年計りにして、町役場の隣室二間を借り、役場の小使い徳蔵のばばに飯を炊かせて自炊生活をする事にした。此の役場の建物の持主は水梨永治という、是も旧家の人である。自炊生活になると、誰に遠慮もいらぬと見え、休日には東西二分教室の教員が酒屋の丁稚に酒樽を先に届けさせて、能く飲みに来たものである。海老名季満を分教室に採用して大迷惑をしたのも、此の時代である。
越えて明治十九年の夏季休暇に帰省した処、突然にも結婚問題を持ち出され、母上姉上頻りに慫慂せらるるに依り、尚早は分り切って居れど、老親を安堵せしむる様と言われては一言もなく、遂に其の意に従え、西岡直太郎の長女とよ子と結婚せり。媒酌人は、原田武平と云う人であった。結婚せし以上は小浜へ同行せよと命ぜられ、汽車開通以前の事故(ことゆえ)、戸ノ口迄人力車、夫より湖上汽船に乗り、関戸に上陸、又人力車にて本宮に出で、二本松に一泊して小浜の寓居に帰り、おまま事の如き新家庭が出来た訳である。

独身の時こそ誰に遠慮もいらぬと飲み客が来ると思いの外、妻帯せし今日でも矢張り酒樽を先き立たせて休み日には必ずやって来る。飲めば怒る奴があり、笑う者があり、喧嘩が始まる、小便小便と座敷の戸をあけて外へ放尿するあり、乱暴狼藉実に閉口の外なかった。
其の内とよ子妊娠、始めての事とて心配せしも、今日と違い交通不便の時故、誰も看護に来て下さる方もなく、徳蔵ばばの世話になり、明治二十年二月五日生まれたのが田鶴代である。此の名はかねて母上より戴いてあったものである。

同年四月一日、同郡油井小学校長兼訓導に任ぜられた。月俸十三円支給で壹円へらされた。之は実に不意転任で、水野郡書記が二本松町の小学校長に転出し、学事の係り書記が変わった結果だろうと想像された。妻子はもとの寓居に止め単身赴任して附近に下宿した。油井という町は、奥州の街道筋で、二本松の北にて殆ど町続きである。余り面白くもなく勤むる内、六月九日付で月俸十五円支給と来た。何の訳か分らぬが、下げたり上げたり、人をおもちゃにしている様な気がして不平であった。
そして其の年の夏季休暇には、小浜を引き払って帰省し、北会津郡書記木下次郎に転任を依頼した処、其の頃はまだ師範出の教員が払底で売行きがよかった時であったから、木下は忽ち快諾し、幸い欠員の処があるからと転任の手続きをなし呉れ、十月廿五日付で若松の北方一里許の上高野の校長兼訓導、月俸拾五円に転任さして呉れた。誠に好都合で、上六日町の家から通勤も出来、両親の御世話も出来る様になったのは望外の幸であった。
夫よりは日々孜々として勤務し、部下の教員を督励し、教授法を指導し、各部落を巡回して児童の就学を勧むる事多少努力せしかば、部下の気受けも悪くはなく、村民の評判も可なりであったそうだ。

明治二十二年の十一月には、次女檀が産れた。
明治二十三年の末頃でもあったろうか、住吉貞之進という人が若松小学校の校長として赴任した。此の人はもと師範の教師で、吾々の先生であった。月俸は弐拾五円で、小学校長としては県下最高俸と云うことであった。此の校長になってから、門田の校長神戸誠を擢用して首席訓導とし、予を採りて次席とし、尋常部長とした。これは明治二十四年の一月であった。

明治二十五年の二月には、長男一省が生れた。
同二十七年六月、月俸拾六円給与せられた。
同二十八年二月、三女下枝が生れた。
同二十九年に至り、上高野の学務委員や村の総代が来て、再び来任を懇請すること数次であったから、其の情黙止し難く、転任を承諾した処、一同大に悦んで早速転任の申請をしたから、年の四月九日付で再び上高野の校長兼訓導となった。時に校名は永和と云った。月俸は拾八円奮発して呉れた。小学校長としては高級の方であった。

いつ頃であったか、年月は忘れたが、従兄の山川浩が高等師範の校長勤務中、会津に来て、上六日町の茅屋に来て呉れた事があった。其の時予に対し、小学教員では仕方がない、高等師範へ入れてやるから試験を受けろと勧められた。予は心大に動き、其の意に従いたく思いしが、母上にはお前の在学中家人の生活はどうする、学費はどこから出るかと御同意がなかったから、非望を断念するの止むなきに至った訳である。
山川の発起尽力で、共立会津中学校が出来た。山川の命を受けて、創立の委員長とでも云おうか、校長の事務を取扱って諸般の規則やら何やら、総ての設備を整えた人は黒田定治で、同時に教頭として来た人は庄内人で佐藤庭治であった。創立の事務を終り、黒田は東京に帰り、初代校長として来たは小柳三郎である。次は山村弥久馬で、教頭は代らぬ。予はふとした事よりこの佐藤と入懇になり、意気相投合した。もとの清亀へ入浴に来ては、能く呼ばれて飲みに行った。又、茅屋に来ても能く飲んだ。この佐藤教頭の勧めで、中学校へ転任を承諾した。併し折角自分を信用して呉れる上、高野村長や村民に対し不義理を感じ、気の毒に堪えられねど、中等教員となりたきは多年の希望で、今此の機会を逸せば再び得難しと考え、一時の感情を棄て、思い切って村長学務委員に打あけ諒解を求めた処、意外にも何れも快諾し呉れ、他の小学校なれば
枉(ま)げてもお止めするなれど、中学校では力及ばず、致し方なしとの事であったから、遂に明治三十年四月、会津中学校書記兼教諭心得に転任した。月俸は最初十八円であったが、翌年の四月に弐拾円に昇給した。

中学校へ転任後間もなき頃と思う。兼々懇意にしていた佐藤智信という松平家の会津地方の御財産のお世話をして居る人が来て、松平家の御家扶が今欠員であるから勤めないかと御家令樋口光氏から云うて来た、どうだ御請しないかと勧めに来た。予は祖先以来御高恩を受けた旧主家の事にもあり、且つ東京に出らるるは得難き事とは思えども、転任して来た計りでもあり、且つ両親の君の御意見は如何と御伺いせし処、第一に母上は反対せられ、年寄二人を置いて行かれては困るとの仰せ故、佐藤方へ行き、よしなにお詫び致し呉るる様、頼んだ。然るに一年許り過ぎて、又佐藤が来て、是非御家扶を御請けせよと勧めること懇篤であった。時に母上は永眠せられた後で、府君に申上げた処、府君は初代の御家令で御経験もある事故、まぁまぁお詫び申上げた方がよかろうと御同意がないから、又や御断り申上げた。
夫から又一年計りして明治三十二年の一月頃でもあったか、山川健次郎から書面が来た。御家令の樋口光が昨年十二月長逝した、其の後任に貴下を推薦した、悪くは取り計らわないから、御請けしたがよかろうという事であった。府君に申上げた処、今度で三度目だ、特に御家令でもあり、且つ山川の推薦さもあればそうそうお詫も出来まい、思い切って御請けしたがよかろうとの仰せ故、其の趣を返事し、且つ学期の終わる迄は待って呉れ、さもなければ学校が困ると申し送りはしたものの、いくら旧御主家でも家族を食わせねばならず、月給は何程戴けるものか、佐藤は承知ならんと思え同人方に行き尋ねた処、「そりゃあ生活の出来る丈は下さるだろう、樋口御家令は参拾円で働いていた筈だ」という。参拾円戴ければ、家族を残して置いてもどうやら生活が出来るだろうと思った。是は府君が今更御屋敷内の御長屋住居など真っ平だとの仰せに依り、生活を二つにせねばならぬからである。
そこで三月早々、予の受持学科を試験し、成績調査を了え、十五六日の頃と覚ゆ。行李を整え、朋友知己に滝沢坂下まで見送られて、単身上京の途に就き、戸ノ口より例の船に乗り、関戸より郡山まで歩き、同処一泊、中学へ予が後任に推薦し置きたる丸山傳治を旅宿に招き、晩食を共にし、中学の現況其の他注意事項を話した。翌朝郡山より汽車で一路上野着、直ちに人車にて小石川初音町の山川邸へ来て、御礼やら御頼みを述べて泊めて貰う事にした。其の晩食事の際、勤務上につき心得方を聞いた処、松平家御歴代の御霊号と御両敬の御親類とを覚ゆる事を注意せられ、其の他は明日高嶺より教うるならんと言われた。

翌日、山川に伴なわれ、第六天町松平御邸へ参入、御二階応接室に暫く待つ内に、高嶺秀夫来邸、山川より紹介せらる。山川は大学に受業あり、出勤せねばならず、あと宜しく頼むとて帰る。高嶺は書生を呼び、筆紙を取り寄せ、辞令書を認む。時に予に対し、会津中学にて月給何程なりしかと、予有體
に弐拾円なりし旨を答う。高嶺は夫ならば弐拾五円にて可ならんとて、弐拾五円支給と認む(少し胸算用狂いしかど如何とも詮すべなし)。夫より又書生を呼び、容大公の御出座を願われし処、直ちに御出座あり、恭しく拝謁して辞令書を頂戴し、就任の式は相済み、高嶺は辞去せり。夫より役所と称する所に行き、家扶大沼親光、千葉鎮に面会、其の後大沼に導かれて奥に行き、老女井深とよに面会、とよの先導にて奥方様に拝謁、御礼言上、夫より新御座に行き、峰姫様に拝謁、終わっておさく殿、おきよ殿に面会し、頼みを云い、其の後役所に戻り大沼より事務の引渡を受け、且つ諸般の要務を聞いた。
二、三日山川方に世話になった後、くらやみ坂の下、矢張り茅六天町の内にて山川操の石垣の向側にささやかなる下宿を見付けて引越し、此処より通勤し、樋口の遺族が役宅をあけるのを待った。
此の年十一月、千重子が会津で生れた。

一年許り過ぎて、役宅があいたから之に引越し、田鶴代を呼び寄せ自炊生活をした。三十六年二月府君御永眠の後、家族全部を移転せしめたのは、この年の八月であった。
都は三十七年八月、千波は四十年八月、此の役宅で生れた。
容大公の御卒去は、四十三年六月十一日の朝であった。奥方様には前日来一睡も遊ばされず御看護遊ばされたが、此の朝御病状急変、御危篤に成らせられたるにより、御兄弟様方へ御通知申上げた処、時を移さず御夫人様御同伴にて御駈けつけ、御病室へ御集りになった。医師浅見三
の刻々御脈を拝見して居た事は申す迄もない。愈々御臨終となり、御皆々様の御悲嘆は何と申し上げてよいか恐れ多い極みであった。偖(さて)、かく成らせられては御親類様を始め御旧臣の面々へ御喪を発表せねばならぬに御嗣子様在らせられず、御相続人の事は日露戦役へ御出陣の時より予が御預かり申上げ、金庫の奥深く仕舞置きたる御遺言書に依り決定する訳である。
そこで早速御土蔵の金庫を開き、御書在中の文箱を取り出し来り、御枕頭にてこの箱の封印を切れば、中には二重封筒に入れられたるものでこの上書に遺言書と遊ばされ、裏面の封じ目には御実印にて封印遊ばされたるものである。是は独りに開封出来ず、裁判所に持ち出し判事に開封して貰う規則である。裁判所の事は不馴れだから、弁護士の中村六郎(会津人)に電話にて事情を話し、先に裁判所に往って貰い、御遺言書は袱紗に包み、内懐にしっかと抱き、さて御兄弟様の内どなたか御一方御立合願いたしと申上げし処、英夫様には「余は既に養子となりて関係がないから立合う」と仰せられた。直様自動車を命じ、裁判所に駈け付けた処、此の日は土曜日にて判事の都合悪しく、開廷六ヶ(むつか)しき所を、中村が非常の骨折で開廷して貰い、法の如く開封し、之を読み聞かせて返付された。又之を抱き、英夫様の御伴して御殿に帰った時は、皆々様方には今や遅しと固唾を飲んで御待ち兼に相成り、定めし御胸を轟
かして入らせられた事と拝察する。此の時既に山川、出羽、其の他の顧問も参集し、一同威儀を正して居らるる中に進ませられたる英夫様には第一に御遺骸を拝せられ、御一同へ御会釈の上、猶も御枕頭へ進ませられ、予より差上げたる御遺言書を御手に採らせ御一同をキッと御覧になり、「御兄上様御遺言書を奉読します」と仰せられたる時は御一同にはシーンとしてしはぶき一つの音も聞こえず御頭を御下げになって謹聴せられた。英夫様には御声高からざれども厳とした力ある御声にて御読み上げになった。即ち「遺言の事、予万一戦病死したる時は保男殿家督を相続せらるべし。若し以前に保男殿死去せられたる時は英夫殿相続せらるべし。若し又英夫殿死去せられたる時は恒雄殿相続せらるべし 以上」であった。此に於て英夫様より保男様に対せられて、「御兄上様よりの御遺言故、和殿この松平家を相続するに異存はあるまいな」と仰せらるれば、保男様には「謹んで御請致します」と御答になって、御相続人即ち御喪主様が極まったのである。此の場の光景は、紫野大徳寺焼香の場とは事変われども、恰も劇的であった。

御葬儀も御滞りなく、十日々々の御祭事も、御相続の御手続も万端首尾よく完了し、夫より程経ていつの顧問会であったか年月の記憶はないが、或る顧問会の席上にて、現子爵様には三大御希望を御発表遊ばされた。
  第一  余末弟として家督を相続し恐耀に堪えない、就いては兄上方へ相当の財産を御分譲申上げたい。但し英夫様には既に山田家御相続故、除いてよかろう。
  第二  御父上忠誠公の御尊骸を歴代の塋域会津院内山へ御改装申上げたい。
  第三  此の家屋は頗る手狭な上、大分腐朽し、年々修理に巨費を要する由につき、改築したい。
と、御陳術遊ばされた。此の時の顧問は山川健次郎、出羽重遠、加藤寛六郎、藤澤正啓の四氏で、何れも御高見に御賛同申上げ、家令を督し、成るべく早く御希望に副え奉るべしと御答え申上げた。夫より予は鋭意御家政を整理し、
毀誉褒貶(様々な評判)を顧ず、非常の節約を行い、数年ならずして健雄様、恒雄様へ金壱万円ずつ御贈呈遊ばされる事が出来た。続いて猶奮励努力一層の倹約を断行し、大正六年六月忠誠・存誠(容大公御謚号)二公を始め奉り、四谷正受院御鎮りの方々様全部を院内山へ御改装申上げた。此の費用は中々容易の事ではなかった。其の後御倹約の方針は少しも弛めず、専念冗費を省き、増収を計りつつありしが、大正九年の春に至り、未だ機熟せりとは思わざりしに、藤沢顧問自ら委員長の格で御殿改築の工を起こし、翌十年三月頃竣工御移転遊ばされた。これで、最初御発表の三大御希望が達成せられた訳である。

是より先、存誠公御病気より予も一種の病気に犯され居り、種々の治療を加えたれども治癒せず、宿病益々重きを加うるのみなるを以て、御希望御遂行を機として辞表を捧呈し、十月に至り御聴許になり、十七日神
嘗祭の日、此の下落合の蝸廬(かろ : 自分の家を謙った言葉)に引退した。
勤務実に二十三年、光栄の事もあり、愉快の事もあり、又或は頗る困難の事に遭遇した事もあった。其の主なる事柄は、存誠公の日露戦役御出陣、英夫様、保男様の御慶事、恭定(ユウシヅ)・忠恭(マサヲ)両霊神の御贈位、蛤御門戦死者の靖国神社合祀、峰姫様、貞順院、おさく殿、おきよ殿、容恭様の御不幸、○○様の御負債整理、勧業銀行の負債償却等、頗る多事であった様に思う。併し只長い間御奉公したと云う丈で、一も見るべき功績なく、顧て忸怩
たらざるを得ない。慙愧々々


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