追憶夜話 (一)

 

予は會津鶴ヶ城郭内、大町通本二ノ丁と本三ノ丁との中間西側の屋敷で、時衛(後猪兵衛)一正の三男として文久三年四月二十九日生誕したものである。家の世禄は四百五十石で、其の頃一正府君は物頭で江戸勤番中といい、特に猫の尾に等しき三男坊とて七夜過ぎても誰も命名して呉れる人もなかったそうである。其の時八十歳近い耳の遠いお部屋のおばあさんという曽祖母の人が産室に来て「おふみ(予が母の名)、いくら時衛が留守でも赤ん坊に名を付けないで置くわけには行くまい、あとで良い名に改むる様に、先ず俄にこう名付けて置きなさい」と、小さき紙切れに「せきや」と書いて持って来られた。それで予が名は俄に「せきや」となったのだそうであった。是はおばあさんが何か草雙紙でも見て見付けられた名でもあろうか、後に漢字に書く様になった。府君帰宅後も勤務が多忙であり、且おばあさんよりの名とて只笑って「おとなになってから改名してやりましょう」と言われただけで、矢張り「せきや」になってしまった。併し後改名した事は後で言う。

さてお部屋のおばあさんの夫、即ち予が曽祖父君は繁八一道で、いつ頃なくなられたか分からぬが、戊辰よりずっと以前の事と思う。このおばあさんは名を美濃といい、家禄五百五十石、甲賀町通西側、本二ノ丁南角の伊藤清左衛門備祐の女(むすめ)である。戊辰戦役後、皆と一緒に斗南にも行かれ、おしめ(若布ワカメに似たる海草で、之を粥に加えて煮て糧としたもので、其の粥は色が黒く磯臭く、頗るまずきものである)糧を食べて一同と難儀を共にせられた。後、會津に帰り、明治十一年二月八日、九十二歳で永眠せられた。耳が聞こえぬと人の話が聞きたいと見え、来た人の名やらその用向きをよく尋ねられた。或る時、豆腐屋が来たのを例の通り誰だと聞かれたから、予が大声で豆腐屋と答えた処が豆腐屋に呼ばれたことと思い、「はい」と謂いて這入って来て大笑いをしたことがあった。晩年益々遠くなられ、お話は余程難しかった。

祖父君は久米之進一孝といい、戊辰戦争には隠居組で籠城中負傷し、御山病院で加療せられたが、其の年十月三日死亡せられた。

祖母の君は幸(コウ)といって家禄三百六十石、本三ノ丁北側六日町通と甲賀町通との中間に屋敷のあった原隼太の叔母さんであったろうと思う。このおばあさんのお居間が表の方にあったから、表のおばあさんと称していた。お部屋のおばあさんと母上とは叔母・姪の関係で、此のおばあさんはその中間にあって万事につけて遠慮しがちで、お気の毒であったそうである。戦役後矢張り皆と一緒に斗南に移住し、難儀せられたが、五戸町居住中、中風になられ長い事床に就いて居られたが、明治四年七月同地にて逝去せられた。そのお墓が分からぬ様になったが、女婿小林光政が青森県知事の頃、昭和九年五月とよ子、田鶴代
(注1)を伴い、都からの招きにより青森に遊びに行きしことあり、其の序に五戸町に行き、小熊識三郎、安藤八三郎(何れも旧会津人)其の他警察の人々の骨折りで、町の北方郊外八幡神社境内のささやかなる共同墓地中である事は分かってお参りしたが、石塔もなかった為、只此の辺ならんと言う事だけであった。実は精確に分かれば會津大窪山先塋の域内に改装して上げたき希望であったが、何とも致し方がない。

祖父君の弟妹に久米四郎、留蔵、留松、留六、女二人と系譜にはあるが、この内の人が改名したのか、又この外か分からぬが、寛治という人が米代三ノ丁で百五十石の蘆澤家を相続し、又傳蔵という人は烏橋通で百石であったと思う池上家を相続したと記憶している。女二人の内の一人は、なをといって最初小森一寛齋(三百石、常府にて賜邸なし)に嫁し一子駿馬(スマ)というがあったが、大帰して後海老名の先代郡治に再婚し子供はなかった。この人は長命で、明治三十年頃迄生きて居られ、熱心なる耶蘇信者であった。享年八十四なりしと言う。

一正府君は戊辰の年四十二歳で、白河戦争の時は西郷近悳総督の部下で、士中小隊頭として奮戦せられたが、戦い利あらず総崩れとなり、城下に引揚げ、後寄合組中隊頭として各地に転戦中、右眼下に負傷せられたが、かすり傷であったから籠城中も何の差し支えもなく、おのが持ち場を守って居られたが、降伏後は猪苗代に謹慎、江戸に護送せられては護国寺で謹慎せられたそうであった。
明治二年十一月主家再興、同三年正月元家来御預謹慎免ぜられ、容大様に引き渡さる。同年五月容大様斗南藩知事にならせられた。そこで藩制が創立せられ、藩庁と御家務との二つの役所が出来た。藩庁は藩領の政務を執り行う所で、御家務は殿様始め御家族方に関する仕事を取り扱う所である。藩庁は三戸郡五戸町に出来た。
藩庁の職員は、大参事は即欠で、山川浩が権大参事で最上席、次が少参事で倉沢平治右衛門(始右兵衛)、山内穎庵、永岡敬次郎(注2)、廣沢富次郎(注3)の四人で、これが今いわば高等官で、旧制度の御敷居内の格である。今の判任官相当は、大属(さかん)、権大属、少属、権少属、史生等である。御家務の職員は、家令、家扶、家従、家丁等で、府君が初代の御家令に任ぜられ、御家務の首席で少参事対席であった。

予が家で歴代の人の内で、職務が御敷居内となれば、先祖以来の通り名猪兵衛(イヒョウエ)を襲名したものであった。府君の勤められた御家令の職務が昔の御敷居内の役に相当するので、先例に依り此の時猪兵衛を襲名せられ、同時に羽織の紐も御納戸茶の色のものに改められた。
容大様は半年許りで五戸町より下北郡田名部町へ御移転遊ばすようになったから、役所はすべて田名部へ移った。府君は単身御供して行かれ、家族は後より引越の手筈になって居たところ、どういう訳か府君は辞職して五戸へ還られ、引越すことはないといわれ、荷造りした荷物を解いた。其の後、五戸在の種原という処で開墾を始められたのだが、種原には藩庁で建ててくれた掘立小屋が五十戸位あったかと記憶している。開墾の土地は一戸に就いて一反歩位もあったろうか、今まで荒蕪の原野地で在った所を、御鍬で墾いて行こうとしてもなかなか労力が続かず、殊に肥料が不足で何を作ってもろくなものは取れない。南瓜(カボチャ)の如きは小さい青いもので、煮ても水々してうまくない。ジャガ薯も小さい青いものが多く、煮て食べるといがらっぽくて是また少しも旨味がない。大豆も実のいるものは少なく、から計りが多い。玉蜀黍(トウモロコシ)もまた幹が細くて育たず、実のつく事が少ない。源八兄の警視庁の邏卒募集に応じて東京へ出られたのもこの時代だ。人手はなくなり、収穫は不良で、到底開墾で成功は覚束なく思われたであろう。種原を思い切り、五戸の下町の町はずれに近き処に借家して商業を始められた。それは雑貨商であった。是また士族の商法で失敗であったのであろう。明治六年の比陸路會津に還られ、後源八兄の借金保証人問題に累いせられ、それよりは浮む瀬なく生活難に苦しまれてあったが、明治二十年十月予が北会津郡上高野小学校長に転任以来は、御側に在って聊(いささ)か御慰め申し上げ、時には御口に適えし物を調え差上ぐる事も出来る様になって、生活の苦難も稍々緩和せられ、明治三十六年二月十三日享年七十七で長逝せられた。格別これという病気はなく、老衰せられたのであったろう。

母上は本三ノ丁北側、世禄三百五十石、西郷十郎右衛門近登之の三女で、ふみ(雅号玉章)といわれた。戊辰戦乱後塩川代官所で年寄二人と子供二人とをかかえて謹慎せられ、明治三年秋新潟より外輪の汽船で斗南移住の列に加わり、船中で初めて食パンを渡された処、誰も食べる事が出来なかった。そしてもう一つ困った事には、便通を催し厠に上れば、下には怒涛が見えて忽ち便意を阻みたる事であった。幾日かの航海を経て青森湾への入口であろう、タッピ、白神、中の潮という難場も無事に通り、野辺地港に上陸し、それより府君の居らるる五戸町に行き、久し振りにて家族一処になった訳であった。そして安堵せらるるも束の間、開墾だの、商法だの、祖母の君の病気の看護やら、療養叶わず野辺の送りやら、心神を休め給う間もなく、會津帰還後も、家事の為には非常に苦労せられて健康を害せられ、脳充血か貧血かで時折少時気を失わるる事があった。晩年には右眼を病まれ疼痛あり、治療に手を尽くせしかど、田舎の事なり且つ今日の如く専門医もなく、遂に快癒に至らず、或る時医師来たり点眼せんとして眼を開きしに、眼中より水晶体飛び出し、右眼は全く明を失わるるに至れり。
趣味は詠歌で、かなり多数ある就中、貞吉兄出陣の時の

     梓弓向ふ矢さきはしげくとも
          引きな返へしそ武士の道

これは白虎隊十九士傳中にも掲載せられて有名である。明治三十年八月十七日病大に革まりし時、海老名季昌夫人隣子さんを病室に招き、代筆を頼みて左の辞世の歌をよまれた。

     今さらになげかるるかなつひにゆく
          道とはかねて思ひしれども

同日午後、遂に逝かれた。享年六十八。

府君に千嘉、千重の二人の妹と、友次郎一臣、友三郎一則二人の弟とがあった。
千嘉は容姿端麗、家中でも美人の評のあった人なそうで、これは米代三ノ丁南側、世禄四百石、日向左衛門に嫁した。其の所生に新太郎、新次郎の二子があった。左衛門、新太郎の父子とも戊辰の時戦死した。現今岩手県水沢の農学校長日向秀雄は新次郎の長男である。

千重は本一ノ丁、千七百石、家老職西郷頼母近悳に嫁し、長男吉十郎と細布(タイ)、瀑布(タキ)、田鶴(タヅ)、常磐(トワ)、季(スエ)の五女とがあった。戊辰の八月二十三日、

     なよ竹の風にまかする身ながらも
          たわまぬ節はありとこそきけ

の歌を残し、自邸で自刃した事は余りにも有名である。此の人は美人という程では無かったそうであるが、いかにも上品な容色の持ち主で、御家老さんの奥さんに相応しい人で、婚嫁後十七、八年過ぎたが、其の間実家へ来ても一晩も泊まった事はなかったと、府君より度々御自慢話を聞かされたものであった。

友次郎叔父は、疱瘡が重かった為、かなりのあばた顔であったそうだが、此の人は親には孝、兄には悌、是また府君御自慢の弟であった。そうして少時より養子などには往かず、一家を創立して見せると文武を勉強した人で、武芸の内では宝蔵院流の槍術が得意であったそうだ。

友三郎叔父は、疱瘡が軽かったと見えて、あばたではなく美男子であったそうだ。此の人は文武とも兄程ではなかったそうであるが、併し別選組に採用せらるるには弓馬槍刀とも免許を得ているものでなければならなかったのであるから、相当の技量はあった人であろう。

両人とも戊辰正月二日、佐川官兵衛隊長に率いられ、隊員と共に淀に至る。明くれば三日鳥羽街道より進んで上鳥羽に至る。申の下刻(午後五時)、愈々(いよいよ)千戈を交えるに及び、友次郎は得意の技術を現わすは此の時とばかり、銃丸雨驟と飛び来る中を始終槍を振るって挺進して居ったそうであるが、五日淀に於いて銃丸に中りて戦死した。享年二十六であった。惜しい事をしたと、府君も常々嘆かるる事であった。友三郎は幸いに微傷だも負わず衆と共に引揚げて一旦会津に帰ったが、東方の戦争に参加し五月朔日白河大敗軍の時、右肩胛骨に盲管銃創を負い、後送せられて家に帰り療養せしも、骨に止まりし銃丸が取れず、非常に苦痛を訴え、自殺の慮があったから、附近に刃物を置かざりしかば「お姉上様(予がお母さんのこと)、脇差を貸して下さい」と度々請求せしも、其の意を察して事に紛らし与えざりしに、二番血とやら三番血とやらを吐いて六月十二日死去した。享年二十二であった。
二人の叔父が折角創立した家が相続人がないために断絶してしまっていたが、府君の思召で、後年貞雄さんが友次郎叔父のあと、予が友三郎叔父のあとの絶家を再興したわけであるが、其の為に平民となったのである。

予が長兄は源八一近で、戊辰の時十八歳、士中朱雀隊であったが、何番隊かどの方面に出陣せられたか記憶がない。謹慎赦免後、五戸種原に居られたが、親戚の内村佐次郎が警視庁から邏卒募集に来た時、之に応じて上京奉職、最初は平邏卒で、樫の木の棒を持って受持区域を巡邏せられたそうだが、内村等の後援があった為、出世も早く、明治八年には既に警部補であった。事なく勤続せられたなら相当の処まで立身は出来てあったろうに、惜しい哉総領の坊ちゃん育ちであったから、猪苗代出身の何某というものの奸策に引っかかり、人の借金の保証人になり、債主より責めはたられ勤務も出来なくなり、辞職して會津へ帰られし処、その債主の奴が会津迄追いかけ来たり、府君に対してまで無礼の言を弄すること毎日の様であったため、府君も遂に立腹せられ、家宝としていかに貧乏しても之だけはと保存せられた家重代の大小刀を始め、其の当時かなり高価であったフランケット及び少し目ぼしき被服類迄、其の者に取られてお仕舞になったという事である。其の後若松に在った養成学校(小学教員を養成する師範学校の前身)に入り、小学教員となり、耶麻郡磐梯山麓の僻村に在勤中世話する人があって、萱野長準(注4)の妹いしを娶り、楓、幾代、たき、一彦の一男三女があって細々と生活して居られたが、明治三十一年夏季赤痢病に罹り、年の十一月十一日死去せられた。享年四十八。葬儀万端片付いて後、未亡人いしに対し府君より兄弟どもより家計を補助せしめるから、子供を育てて居て呉れと言われた処、子供の世話をして居っては私自身の身が立ちませぬから実家へ帰りますとて、子供を残して未練気もなくサッサと実家に帰って仕舞った、勇敢の婦人であった。後で聞けば、高橋藤吾という大尉位の退役軍人に再嫁したそうである。

次兄貞雄(始貞吉)、少より穎敏、兎角兄を凌ぐの風があったから、府君は二三男は浪人者で兄の世話にならねばならぬから、何事でも兄の命に惟れ従うようにしようと仕付けられたそうであるが、なかなか云う事を聞かず兄の方が負け気味であったから、いつも貞雄の方を叱られたそうだ。そうすると、直ぐ三ノ丁のおさと(母の実家、西郷家)へ走り行き、其の事をおじいさん(十郎右衛門近登之)、おばあさんに話する。此のおじいさん、おばあさんは大の貞雄びいきであったそうだ。兄をいじめて府君に手ひどく叱られた時などは、日が暮れかかっても帰ろうとしない。おじいさんが拠り所なくお詫びをしてやるから一緒に来いと、肩衣をつけてお詫びに来られる事もあったそうだ。
戊辰の時は十六歳で、士中白虎二番隊に入り戸ノ口原で敗戦、飯盛山で皆と一処に自刃したが蘇生したは此の人である。
謹慎赦免後、直ぐに静岡の林三郎という人の塾に入りて修行せられ、それから逓信省の電信学校に入り、卒業後仕官して電信の技手より累進して技師となり、日清戦役には大尉の資格にて朝鮮へ出向を命ぜられ、電線を架設して大いに功績あり、年金勲章を授与せられた。晩年には勅任技師迄になり、退官後は仙台市に居を卜し悠々自適余生を送られたが、昭和六年二月病んで没せられた。享年七十八。
飯沼は歴代神式で葬儀をするが、遺言して市の北郊輪王寺に仏葬せられた。妻は広島の人、松尾氏れん。一雄、うらじ、一精の二男一女があった。

次は姉で、ひろといった。戊辰の年九歳、後飯河知記に嫁した。子はなく、従兄永井道忠の二男道雄を養子にした。

母上の父君、即ち予が外祖父西郷十郎右衛門近登之おじいさんは、文久三年七月忠誠神君(容保公の御諡号)京都御守護職中建春門前に於いて馬揃を催し、天覧に供せられし事あり。其の時軍事奉行で神君に陪し天顔を拝しければ感激の余り、

     大君の御目にふれては我ながら
          我身たふとくおもほゆるかな

の一首を詠ぜられた。元来このおじいさんは會津でもかなり有名な歌人であったから、母上の姉妹方は皆、歌よみであった。

長姉はゑん(雅号唐衣)といわれ、本二ノ丁北側、世禄千石、家老職山川兵衛の嫡男尚江に嫁された。彼(か)の浩、健次郎等の母堂である。

次姉はとき(雅号あざみ)といわれ、米代三ノ丁南側、世禄百八十石、永井氏弥に嫁された。龍田、道忠の母堂である。

妹はせい(雅号秋錦尼)といわれ、米代一ノ丁北側、世禄三百石、中根幸之助に嫁された。直、明、壽等の母堂である。此の人は就中文才にたけ、和歌も上手であった。面白き手紙の写しがあったから、二、三巻末に附録する。

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(注1)
とよ子は関弥の妻、田鶴代は長女。
(注2) 永岡久茂。
(注3) 廣澤安任。
(注4) 萱野権兵衛の長男、いしはその妹。



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