白虎隊事蹟 (二)



廿三日の昧爽霧深く、陰雲四隅に起こり、細雨朦朧として咫尺を弁せず、我が藩兵進んで猪苗代に向かう。敵兵已に戸の口を破り、大野原に至るに会す。白虎隊士、勇を皷して之に当り、進撃二丁餘、敵の大軍鯨波を発し、其の発する弾丸は驟雨の一時に注ぐかの如く激戦奮闘、我が兵或は団を為し、或は撒を為し、防戦すること数時、衆寡敵せず逡巡屡々退く。
偶々大風雨あり、東方より注ぐ。敵軍、之れに乗じ、兵を放て掩撃(えんげき)す。我が兵、遂に敗る。隊長日向内記、先ず逃る。白虎隊大に激し、叱咤して曰く、嗚呼此の如きもの何ぞ指揮の任を仰に足らんやと。嚮導の号令に従い、屍を踰え劇しく敵軍に突入す。池上某、外傷を負う。砲煙、天に漲る。其の距離、僅かに一丁斗り、敵兵益々進む。隊士は溝渠の間に潜み、堤を楯に敵軍を狙撃し、一十に当らざるはなく敵兵斃るること算なし。互いに死力を尽くして、刀光電の如く藩兵死傷頗る多く、敵の追撃甚だ急なり。大厦の一柱支えんとして難く、遂に嚮導の号令に依り溝中を逃れ出て、斜形を為して走ること凡十丁許、漸く小丘の後に達し、残りし者十有九人、各丘麓に上り、血をすすり、創を裹(つつ)み、兵粮抔(など)を取り出し、我々は敵の大軍に当り奮闘接戦するも衆寡敵する能わず。此の上我々は再び奮闘して敵の大数に向かうも夜戦にあらざれば到底勝算を期し難しと、竟に一夜を明し、近傍に至り我が藩兵の模様を覬うに今は一人を残さず、敵の旌旗翩々として飄う胸壁の上亦戎装を以て充て屍者堆積し、鮮血溢れて地を染む。敵兵、斃者を裸して物を探るものの如し。彼我一夜の中に地を替え、実に目も当てられぬ惨状なれば、隊中大に驚き、此の勢を以て推すときは君公の安否実に計り難し。最早躊躇すべきの時にあらず、速やかに滝沢村に出て、君公の御先途を見認め、然る後、我が隊の進退を決すべしと、間道より之に赴く。
山路崎嶇、歩行甚だ困む。而して城下の東なる滝沢村の坂下に至れば、数百の軍勢本街道より城下に向けて進むを見る。察するに是れ先日以来各所の戦に敗続したる我が藩兵の城下に帰り行く者ならんと。各高声を発し、我が藩兵なるや否やを問うも、何等の答もなく、直ちに砲発せり。是より皆、左方に転じて用水の堰を設け山の一隅を穿ちたる洞口より入りて、城内に至らんとす。
飛丸は雨の如く来たりて、永瀬氏の左肱を貫く。同氏は水中へ陥り、流血淋漓、左右より手を取り、或は腰を推し、漸く洞穴より弁天社内の傍に出て、辛うじて飯盛山に登る。既にして敵軍は城下の四面に充塞し、劒影閃々として吶喊の声天地に震う。其の勢、恰も破竹の如く忽ち一面の火となり、鶴ヶ城を瞰(み)れば焔烟天に漲り、砲声山嶽を動して僅かに城櫓を硝烟濃淡の間に見るのみ。時に某、奮いて曰く、「我公等と共に茲に落ち延びたるは君公の御先途を見認め奉らんが為なり。然るに何の甲斐もなく此有様、最早城に入るべき道も絶えたり。共に奮死して豫ての覚悟を遂げん」と。
某曰く、「死は固より其分なり、然れども我々残士の力を以て敵の大軍に当り戦死すればよし、若し擒となり命を惜しみ縄目に逢しと嘲けられ、敵に首を授けんよりは寧ろ自害して死を屑せんのみ」と。
某曰く、「二君の言、尤もなり。然れども弾丸未だ全く尽きず、猶一戦するに足る。此の弾丸の有らん限り、激戦して後、君の意に決するも遅かるまし」と。
衆皆一決し、胥い共に元来りし所を下り、林藪より敵の一群に踏み込み、刀を揮い、各樹木を楯とし、弾丸の有らん限り銃を放ち、奮戦を既にして弾丸硝薬全く殫(つ)く。是に於いてか死を視ること帰するが如し、各死出の山路に攀(よ)じ登り、所を定めて輪座を為したるこそ勇ましくも亦潔し。
某歎して曰く、「今城外の有様を観るに黒雲滋々旺なり。我が家も烟と共に失せしならん。吾一人の母あり、幸い無事に城中へ籠りたるが覚悟なし、吾出陣の際、母の云い給いしは、汝戦場に出て死して屍を曝すとも、人の笑を受くべからず。去ながら我が軍利あらずして皆退かば、城に籠るべし。君公在す事なれば無益に死すべからずとなり、我々は能く互いに案内も知りたり、是より南山に転じ南門より入らば、或は望みを達するを得べし」と。
某曰く、「勿論敵は東方より攻入りたれども、大軍四面に充塞し、所詮遂くべからざるの望なり。時移らば臆するものの如し、速やかに前議に就かん」と。
衆皆意を決し、或は慨然として腕を扼するものあり、或は憤然歯を切するものあり、或は従容として義を待つものあり、或は悄乎として首を俛(たれ)るものあり、或は楠公七生の句を詠するものあり、或は張巡戦死の章を誦するものあり、或は天祥正気の歌を謠(うた)うものあり、或は項羽垓下の曲を吟ずるものあり、各父母の訓言を追懐し、或は出陣の際慈母より与えられし一首を出して再吟するものありたりと。
而して嚮導等謂らく城既に陥り、臣等の事遂に畢(おわ)る。諸君と共に潔く死を遂げんと、十有九人慨然西南鶴ヶ城を遙拝して曰く、孤城天下の大兵を受け、主亡び国滅す。体躯疲羸(ひるい)弾丸硝薬亦尽き、再び戦うの力なし。嗚呼我が君侯よ、嗚呼我が父母よ、我々は力尽きて臣の事畢(おわ)れり。矣仰ぎ、願くば我が君侯よ、我が父母よ、再び地下に拝謁し奉らんと、互いに軍服を脱ぐものあり、或は刀を抜くものあり、或は短刀を握るものあり、或は既に割腹せしものあり、或は咽喉を貫きしものあり、或は互いに刺しあうるものあり。実に是れ、戊辰八月廿三日午前なりき。
嗚呼、諸士の如き白面美玉の士にして命を鴻毛の軽きに置き、節を九鼎の重きに比し、忠勇義烈能く子等の如き内には家庭の教育あり、外には祖先土津公以来闔藩風土の薫陶する所に因て然るなり。其の王師に抗したるは固より非なりと雖(いえど)も、人各主あり、父母ありて人生止むを得ざるの常態なり、夫れ然り。而して偉名萬生を照して生者の栄、何ぞ之れに過ぎん。
昔、赤穂の遺臣四十七士は仇を復して、天下之れを義とす。今、諸士の如き年少の輩にして僅々十有九士満腔の熱血灑(そそ)ぎて身を節に殉ず。其の忠烈悲壮なる、果たして孰若れそや。
而して先に幕府政権を返上し、将軍徳川公水戸に蟄居して只管恭順の意を表す。官軍、東山東海両道より進みて江戸に入る。旗下の臣、三百年掌握したる覇権を挙げて一朝に棄つるを憤る者多し。実に変転機運は天の理にして、優勝劣敗は則ち物の条理なり。誰あり之れと如何することを得ん。


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