白虎隊事蹟 (三)



当時宇内の形勢に於る亦然り。會津の藩たる峻嶺巨嶽四疆を繞(めぐ)り、激流急湍其の間を流る故に此の地に生育するもの心之れが為に狭固気、之れが為に勁慓、是れ自然の資性なり。故に権謀術数、中国の士風に逮わずと雖(いえど)も、勇奮敢行必ず過る所あり。而して、従士惟維れ一心腰間三尺の劒満腔烈日の必凝て堂々たる元気を為し、進みては国家の干城となり、退いては柳営の羽翼たり。以て文武盛んに行なわれ、義を以て諸藩に貴わる。然れども、一朝時運の変遷に遇い、王政維れ新にして衆士其方向を異にし、玉屑悽風に散らす。豈慨嘆に堪可けんや。而して、当時天下の逆潮に処しては時論切迫陳情否塞して藩論益激烈、勢い止む事を得ずして官軍に抗し、軍制を改め、諸隊を分かちて四と為す。
曰く朱雀、朱雀(齢十八歳より三十五歳迄)、其の任専ら戦地の先鋒たり。曰く青龍、青龍(齢三十六歳より五十歳迄)、其の任専ら朱雀と共に戦地に臨み、後軍にありて応援を為すにあり。玄武(齢五十一歳より六十歳迄)は其の任専ら国境其の他の関門を守るにあり。白虎隊は齢十六歳より十七歳に至る年少の者を以て軍隊を編成したるもの是なり故に尤も寡し。又、藩士の階級に従い、士中、寄合、足軽等の三段あり。飯盛山に於いて割腹せしは則ち士中白虎にして、一隊三十八人なり。白虎とは軍神を象りたるの名称にして、孰(いず)れも藩立の学校日新館に令し、校内の少年を撰み以て一軍隊を編成したるものなり。藩中の少年にして、白虎隊に撰れたるものは非常の名誉にて、他の学友より尊敬を加えられ、其の撰に当らざるもの之を羨み、往々本隊に入らんことを歎願するもの多かりき。
白虎隊は、初め仏国の兵式を練習したる一柳芥川の両氏に就いて之を伝習し、其の術大に達せり。偶々幕府脱走の士、大鳥某(圭介)、古屋某(作左衛門)、林某(正十郎)、仏式撤兵教授役畠山某(五郎七郎)、沼間某(新次郎)等、我が藩に
頼し、共に為す所あらんと欲す。而して、学校奉行原田某、白虎隊に令し、林正十郎に就き仏学を修め、又畠山五郎七郎、沼間新次郎等に就いては仏国の兵式教訓を受け、能く撤兵術に長じ、其の練習迥(はる)かに壮者に軼く、然れども後ち皆天山公の御親兵を命ぜられたり。
嗚呼、古より難に臨み命を殞するもの亦尠(すくな)しとせず、然れども白虎隊の如き少年輩の忠烈、悲壮なる。古今未だ其の比を見ざるなり。而して、苦戦の実況の如き、泰平肉食男児の想像し得ざる所多し。
八月二十三日、一老嫗、乱を飯盛山上に避く。而して、少年屠腹の事を見、現場に至り、紅顔美玉の少年義士鮮血灌(そそぎ)て其誰れなるを弁すること能わざるの衆屍中、一斃者を抱きて近傍の炭焼小屋に至る。是れ当今蘇生して其の顛末を余に示したる飯沼貞雄君なり。
此の日(廿三日)、敵兵は已に市街に闖入す。市民皆老幼を挈え、風雨を侵し、狂奔して乱を避く。然れども、驚徨飛丸に斃るるものあり、或は躊躇して敵鋒に死するものあり。而して、我が国老田中土佐、神保内蔵介等、事の為すべからざるを慨き、自殺す。前日(即ち廿二日)藩命あり、府城の鐘声を以て危急を報せば老幼婦女皆城中に
集して難を避くるの令あり。而して事甚だ急なるを以て、或いは城に入る能わず、空しく幼者を負い、共に乱丸に斃れて絶叫するものあり、或は村落に逃る者多し。我が藩士、防禦の利あらざるを察し、城中に入り、専ら防守に力を尽くし、敵兵既に府城の正門に迫り、一皷して之れを陥れんと欲し、攻撃甚だ急なり。是に於いて我が藩士の府城にあるもの苟(いやしく)も事に堪ゆるものは老幼婦女と雖(いえど)も皆銃槍を取り防戦し、敵兵、内藤某の邸に據り砲撃す。城兵、巨砲を放ち、其邸を焚く。焔煙天を覆う。敵兵、城櫓を摧(くだ)き、勢に乗じて進む。因て兵を要所に伏せ、之れを防ぎ、戦う。敵軍、地理に暗きを以て、敢て進まず、然れども敵兵更に南方より城背を攻む。城兵も亦、之に当たる。城兵、多くは老人にして、銃闘を屑とせず、鎗刀を撚て闘う。城兵、乱丸雨飛の間に斃るるもの頗る多し。是れ皆、武門の家に生長し、弓馬槍刀の術に精しく、所謂武人武夫なるものにして、一朝世の変遷に逢い、火器の為に其の技を顕わすこと能わず、空しく命を弾丸の下に殞す。又憫むべきなり。是より城下の邸宅連日の兵燹に罹り、曠野(こうや)となり、砲声日夜絶えず。是に於いて我が兵、府城の危うきを聞き、皆守を徹して若松に還る。諸隊兵を収め、郭内に入らんと欲して、敵兵外郭を擁し門を塞ぎ、之を防ぐ。血戦屡々戦い、門を破る。我が兵、吶喊(とっかん)直に郭内に入り、行々敵を敗て城に入る。城兵、大に振う。互いに勝敗あり、敵兵巨砲を放ちて城中を狙撃す。城中、該して之れを払わんと欲し、其の向かう所を処理し、藩老佐川官兵衛、之れを督す。
二十八日、城を出て、名古屋町より長命寺に戦う。或は進み、或は退き、血戦すること一昼夜、勝敗未だに決せず、軍事奉行小室当節、河原善左衛門等、之れに死す。我が兵、元より死を決し、一戦以て志を得んと欲し、激戦したるものなれば、死傷頗る多く、其の激烈なる亦知るべきなり。
而して、敵兵小田山より城内を窺い、砲撃す。殿屋櫓上之れが為に破碎し、死するもの少なからず。日々小田山を仰て応戦すれども、敵兵益々強く、砲煙濛々として山川に震う。巨丸城内に墜落して、藩主の寝殿に迫る。乃ち居を移して砲丸を避く。公姉棠昌君、尚寝殿に在りて傷者の包帯を製し、之れを給す。内田某の妻、厠に在り、巨丸の中る所となり、身骨腑臓四辺に乱着し、其の鬢髪肉片と共に壁上に粘点して動揺す。其の惨状、謂うべからずと雖(いえど)も、一城素より死を決し、城を枕に決戦するものなれば、皆之を意に介せず。弾丸雨飛の間を歩して、勢益熾(さかん)なり。然れども、我が軍戦い利あらず、兵勢日に衰う。藩老佐川官兵衛、主命を受け、将に為す所あらんとして西方高田村に在り藩老一瀬要人等、小荒井村及び飯寺村に至り、進んで南方に奮戦す。而して別隊白虎寄合組隊は、小田垣に出て、外郭に沿いて天寧寺町口の敵を防ぐ。
九月十五日、敵軍鋭を尽くして青木に出て、我が軍を攻む。西軍の勢、日に加わり、互いに死傷あり。藩老一瀬要人、之れに死す。而して別隊は南方に退く。敵の追撃、甚だ急なり。故に兵を回し、雨谷村に戦う。敵軍、退く。乃ち本郷に転じて、町野隊等と共に佐川氏に高田に投ず。我が兵軍を収む。弾丸硝薬亦已に尽く。西軍、城外を重圍して日夜巨砲を発し、而して我が軍外に一隊の援なく、且つ自己の罪を贖わんと欲して我が軍を攻めんと欲するものあり。事已に茲に至る。亦如何ともすること能わざるなり。藩士皆、城を枕に死を待つものの如し。然り而して後ち降旗を西北二門に樹つの挙あると聞くのみ。


注)どうしても変換できず、仮名に直せなかった箇所は
で示しています。



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