飯沼貞雄翁の電信線架設に就いて



 静かな夜だった、海には一町も離れていないのに浪音さえ聞こえて来ない。私が釜山電信局に赴任して一ヶ月半ばかりたった夜のこと、夜勤に当っていた私は、ただ一人電信機を前に腰かけて、ぼんやり水平線を眺めていた。流れ星が落ちた。「なんだろう、いまごろ」私は席を立って窓から半身乗り出した。「船かな」と思ううちに、黒い点のように見えていた塊が煙を水平線になびかせた。風もないのに煙は水平に這っている。「えらいスピードだな、それにしても船の入る時間ではない」一條、二條、三條、煙は三つになった。大型の船が三隻フルスピードで釜山湾に入って来た。一番後の一きわ大きな船がぐっと港に向かって廻ったと思うと、前にいた二隻をぐんぐん離して近づいてきた。湾の真中にある富士山型の島を廻って港の入口にとまった。「八重山だ」報知艦「八重山」(一千六百トン)だと思ううちに、つづいて「信濃川」(六百トン)「田子浦」(六百トン)の二汽船がとまる。明治廿七年七月廿六日の夜九時のことである。

◎差し出された紙片
 岸を離れた支那税関のボートが船に近づいて行く、ところが船側にボートがついたと思うと間もなく追い帰されたかのようにまた離れた。「変だ何かあったな」軍艦「八重山」からこんどはボートが降りた、矢のように岸へ向かって来る。つづいて信濃川田子浦からもボートが出た。ボートの姿が岸に消えると釜山湾は再び静寂にかえった。私は妙に胸騒ぎがしてしかたがなかった。卅分もたったころ、あわただしく電信局の門を入って来る乱れた足音が聞こえた。私は階段を玄関まで駈けおりた、海軍の士官に領事館のものが二三人立っていた。「すぐ東京へ打電してくれたまえ」差し出された紙片、私はふるえる手にとって見ると(昨廿五日朝我が軍艦が豊島沖でわれに発砲して来た満国の軍艦に応戦して敵の軍送船一隻を撃沈軍艦操江を捕獲した)という文面だった。私は一息に階段をかけ上った。電信機にかぶりつくと夢中でキイをたたいた。「勝った、勝った、大勝利だ」キイの音がそんなに聲える。

◎邦人最後の煙管
 明治廿七年七月廿五日日清戦役は朝鮮西海岸の豊島沖の海戦に火蓋が切られた。本国に送るその最初の勝報を打電する私の胸は感激で張りさけそうだった。まもなく局長(松村昇一)以下五人の電信係も集まって来た。「バンザーイ、バンザーイ」
歓呼の声は更け行く釜山湾に谺した。私の感激は一しおだった。馬鹿馬鹿しい程涙があふれて来る。ぼうっと霞んで見える街の灯がその時一時にパッと消えた、船の灯も消えている。総領事館電信局等を含んで五千人からの日本人が住んで居る居留地はすっかり漆黒の闇に包まれてしまった。「灯を消せ」階下から声がした。電信局のランプも吹き消された。敵艦が攻撃して攻るかもしれないというのだった。当時清国には靖遠、沈遠、定遠等の世界第一線級の軍艦が揃っていた。内地との唯一の連絡地だった釜山をたたかれたらすでに仁川や京城に入っている日本軍との通信は絶たれてしまう。釜山から京城までの陸上電信線は一ヶ月も前から杜絶えていたのだ。「釜山を護れ」の声は期せずして忽ち完全な燈火管制を布いたのだった。一丈もの高さで居留地を囲んでいる土手の上の松林が星空をバックに黒々と浮かんで見えた。恐らく日本人最初の燈火管制だったろう。

◎正に決死の覚悟
 私が過ぐる六月十三日この釜山電信局に来たのもこうした開城の場合に備えての命令だった。京城釜山間の連絡には汽船をもってあてることになって信濃川、筑後川、田子浦、木曽川の四隻が配置され仁川と釜山の間を報知艦「八重山」護衛のもとに二隻づつ分けて毎日入れ替わりに、仁川から釜山へ釜山から仁川へ電報を運んで往復する方法をとったのである。「八重山」は当時廿ノットからのスピードを持つといわれた快速艦だったが備砲その他は到底清国の軍艦の敵ではなかった。しかも仁川までの間の西海岸にはすでに支那の軍隊が上陸していて海陸からの敵の脅威の中を決死の覚悟で通信船の護衛に当っていた。釜山電信局は実にこの重要な通信の中継所だったのだ。勝報を耳にして灯を消した釜山闇の底に沈んだ龍頭山、龍尾山の黒い影をいつまでも眺めていた私の肩を松村局長がたたいた。「飯沼君は大丈夫だろうかね」私もそれを考えていたんだ。

◎白虎隊の生残り
 二日前の朝京城釜山間に日本人の手で電信線を架設するために乗り込んで来た男、飯沼貞雄の身の上だった。五名の技手と十名の工夫、人夫三百名を引きつれて到着するとすぐ京城指して発って行った。敵地の真っ只中に飛び込んで行くも同じことだった。技手や工夫達がみんな洋服の上に日本刀を背負っているのに飯沼だけは普通の背広姿で広島を出る時さんざん外の人からすすめられて持って来た手槍を一本供の人夫にかつがせているきりだった。「私は白虎隊で死んでいるはずの人間です」飯沼はピストルを持って行くようにすすめる私の言葉に答えて笑った。飯沼は白虎隊生残りだった。「命はすててますよ」電信局の玄関を離れる時そう言って正面に掛けてある「大日本帝国郵便電信局」の横文字で書かれた金文字をじっとみつめていた。「元気で行って来ます。きっとやりとげますよ、船を使わんでも東京と通信が出来るようにして見せますよ」ヘルメットをぬいだ飯沼は、電信局の門のわきに立っている日の丸を仰いで明るくいった。そうして飯沼貞雄の一隊は二日前決死の電信建設行に旅立ったのだ。

◎飯沼の使命成功
 私は居留地を囲む高い土手の上にのぼって、勇ましい一隊の姿をいつまでも見送った。手槍の端に荷物をつけて天秤棒のようにかついで先頭を行く飯沼の姿がいま闇の釜山を見つめる私の瞼に甦って来たのだった。「きっと成功しますよ彼のことだから」松村局長に私はそう答えた。
 明治廿七年八月中旬はやくも飯沼の陸線建設は成功し、日本軍の捷報は次から次へとこの電線を伝わって内地に歓呼のどよめきを起こした。


(昭和十五年十月八日附讀賣新聞より転載)

・戦争と電信
 電信が日本として戦争に最初の大きな役割を果たしてくれたのは日清戦役であった。最も早い遠距離連絡が電信であった時代、電信は無理にでも時の重要性に従って発展のエポックをつくったのである。"日清戦役における電信"の労苦と感激を当時釜山の電信局にあって活躍したオペレーター八木鐘次郎翁(七一歳渋谷区原宿住)の話に依る。

 



原文 : 「会津史談会誌」第23号(昭和182月)


注)原文転載の際、旧漢字は新字体に、旧仮名遣いは現代仮名遣いに改めました。


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