白虎隊事蹟 (一)



 白虎隊事蹟 
              凡  例

一 本書は戊辰諸氏の忠節を伝えんが為、明治二十年八月に稿を起し、明治二十六年八月に至り記する所の事蹟積て一小冊と為したり。而して如此星霜を費やせしは、其当時編者は書生の身にして居就常なく、加うるに維新以来旧藩の人々四方に離散し、之れが照会を為す途全く絶え、或は父母兄弟己に没し、他より其家姓を継ぐ人あり、或は遺族者と同姓異人等にて再三往復し、種々の困難を経て始めて編成したるものなり。

一 本書は旧藩主始め遺族者に贈与せんが為の計画なりしが、此の挙あると聞き伝え閲覧を希望する者多し。然るに筆頭限あるの部数を以て限りなきの需に応ずること能わず、是れ茲に印刷に附し、世に公にしたる所以なり。

一 本書の実歴は、一々殉難士の父母兄弟の報道に接し、又実地の戦記は飯沼君の口述に基き編纂したるものなり。

一 本書石版画の現場に容貌着衣の模様等は、旧藩士故印出の老母及び飯沼君の指示、遺族者の説話によりてものせるものにして、座上の想像的に模写したるものにあらず。

       月  日     編  者  識





白虎隊事蹟  

                中村  謙 著

       緒  言

慶應戊辰会津の戦争は、実に近世史中の一大激戦なり。此時に当り、奥羽同盟の兵屡々利を失い、其勢振わず、棚倉岩城平及二本松等相尋て陥る。而して越後の軍も亦、与板島崎等に戦い、遂に西軍の奪う所となる。是に於て新発田藩同盟に背き、窃(ひそ)かに西軍を迎う。西軍の松ヶ崎に上陸するや、米沢藩は其国境の危きを名とし兵を敢む。我軍孤立援なく退て津川を保す。而して東西の警報日々に若松に達し、市民始めて大に恐る。是の時嗣君(天山公)出て野澤に在り、津川の軍を督す
白虎士中一番隊、之を護衛す。留ること三十余日にして府城に皈(かえ)る。西兵日に四境に迫り、国の危急旦夕に在り。而して我兵丁壮者は悉く出て四境に在り、其城下に居留るは老少若しくは吏胥のみ、然れども各奮て出陣せんと欲す。就中幼年白虎隊と称するもの城内三の丸の溜所に集合して協議する所あり。池上某先に曰、く出陣の事直ちに君公に請ん。如何津川某の曰く、不可なり或は学校奉行に迫らんと云い、或は国老に要求せんと云い、議論紛々容易く纏まらず、卒に石山、間瀬二子の建議説を採るに決して草按委員を撰み(建議書起草委員は井深茂太郎、石山虎之助の二氏なり)脱稿するを待ち、嚮導篠田安達の二氏を以て之れを国老に達したり。然ども後ち藩校の管理を脱し、日向内記更に之れが長となる隊士相共に協議し、平生其の抱持する意見を述べ、隊長に請うは此時に在りと即ち議決し、嚮導篠田安達の二氏隊長日向内記に面接し、隊士懇請の心情を開陳したり。
是より先き、二本松城の陥るや仙台藩兵を其国境に退く。我藩も亦退て国境に入り、兵を分ちて土湯及中山御霊櫃の諸塞を守る。而して白川口方面は山嶽綿亘天険を以て聞ゆ。西軍其抜く可らさるを察し、道を三春より二本松に取り、専ら土湯及中山の諸塞を攻む。我兵険に據(より)て防ぎ戦い、屡々討て之れを退ぞけ、彼をして志を得せしめず。是に於てか西軍敢死の士数百人を募り、土人を以て嚮導と為し、間道より窃(ひそ)かに石筵の壁塞を襲う。我兵険を恃んで備を設けず、敵兵己に険を踰(こ)え、撤兵砲撃す。遂に我軍驚愕起て之に応じ、支える能わず。守を棄てて退く。西軍追躡して石筵を取る。石筵は土湯の東南に位し、道路極めて峻険なり。然れども山上樹木少なく、細径を通し、樵夫常に往来す。故を以て、西軍容易く之を過ぐるを得たり。土湯中山の兵、其背後に敵を受け、己むを得ずして守を徹し、兵を回して共に長瀬川に防ぐ。西軍勢いに乗じ、流を乱して進む。我軍猪苗代を保つ又利あらず、因て之れを戸の口に拒く又支えること能わず。戸の口は猪苗代湖の溢れ出る水口にして、石梁を架し尤も要害の地たり。時に八月二十二日なり、若松の市民猪苗代の敗報を聞き、大に恐れ、荷擔将に起んとす。老臣等議して大に援兵を出し之を復さんことを謀ると雖も諸隊皆国の四境に在りて、留るもの僅に老幼婦女に過ぎず、唯り兵備に堪るは幼年白虎隊あるのみ。此日暁天隊長日向内記回章を発し、隊士をして登城せしむ。

    回 章 文
 急ぎ回章を以て申し入れ候
 昨日白河口の戦い利あらず剰(あまつさ)え阿武隈川の要地を奪われ、敵軍勢に乗て侵入す。味方支うる能わず、引揚げ候。今や石筵口戦争最も熾(さかん)なり。殿様御出陣仰出され、我が隊従軍仰せ付けられ候。今日正午の刻までに面々の武具を用意して相違なく登城之有るべく執達仍て如件
 八月二十(二日)   (日) 向 内 記
 白虎(隊) 各(位)

是に於いて衆皆雀躍勇気平日に倍し、会藩固有の士風を表明するは実に此の時に在りと争うて城中に赴き、整列す。時に嚮導篠田氏は祝辞を称え、衆声之れに和す。午鐘一声、出陣を促す。隊長日向内記、之れを督して、藩主を護して一番半隊は前列となり、二番半隊は後列となり、喇叭の合図に隊伍整然として軍旗風に翻り、神気凛々として城門を出て、東方を指して滝沢村に至る。滝沢村は、府城を距る一里許にして本営のある所なり。藩主は暫く爰所に駕を駐むることと為り、白虎隊は哨兵と張り斥候を出し、各分任を定めて隊長の命を待ちたり。然るに石筵口に於ける我が軍、戦い益々利あらず、速やかに援兵を遣わすに非ざれば保し難しとの飛報頻りに達す。是に於いて藩主は直に二番半隊に其の応援を命ず。決死の壮士、各先を争う。殊に前列者の如きは隊長に迫り、我々前列を残し、後列二番半隊をして先んぜらるるは如何なる事と。隊長日向内記、之れに説て曰く、君等の赤心は元より感ずる所なり、然れども今や我が軍の一大事にして、彼我先を争うの時にあらざるべし。齊しく是れ君公の命令なれば、違背すべきにあらずと慰諭懇到、纔(わずか)に之を抑制し、後列二番半隊を卒いて出陣せり。
嚮導は篠田安達の両氏にて、各勇敢屈指の士(其隊員三十八人)行くこと二里計にして夕陽已に西山に傾き、砲声猶頻なり。漸く戸の口原村に達し、茲に我が藩兵凡三百人、胸壁を築き、戦い酣(たけなわ)にして、大小の砲声天地を動かし、弾丸雨の如く、山嶽為めに震い、河川為めに湧く。
白虎の隊士、機失うべからずと直に藩隊に合し、勇敢奮闘最も努めたれども時方に闇黒にして充分なる戦功を逞うすること能わざりき。徒放声砲火を目途に砲発するのみ。斯くて夜半に至り、戦い止み、白虎隊は翌暁の開戦に先鋒たらんことを隊長に請い許され、一隊大いに勇み、本道より凡そ二十丁計り東方、斜に進み、小丘の麓に止まりて進撃の手配りを為す。
此の時某曰く、我々の常に熱望して奇功を建て、国家に報せんとする所は明日の一戦にあるのみ、然れども我是の寡兵を以て敵の大軍に当たる。進退宜しく一致し、瞬時も離るべからず、是れ最も互いに心を用ゆる所なりと。隊中皆同意し、燐火鬼哭の間に安座し、或は詩歌を放吟し、或は戦略を談し、或は死後の志願を語るもあり、或は今日の戦状を父母に報じたしと云うもありたり。


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注)回章文中の( )は、原文に欠けている部分を推測にて入れたものです。



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