純白の翼



 その扉は閉じられたまま、二度と開くことはない。
 何度洋平が訪れようとも、アザミの扉は固く内部を閉ざしている。訪問が度重なるうちに、洋平自身にも判らなくなっていた。自分が求めるものが何であるのか。
 リョータの愛情なのか。あの日のぬくもりなのか。それとも、身体の欲求に対する、リョータの答えなのか。
 力で捩じ伏せられること。屈辱的な扱いを受けて心も身体も傷つけられること。離れて、時が経ち、記憶が薄れた今になって、その甘美さを知った気がする。二人の間の妖しい儀式は、洋平の身体をそれまでとは全く別のものに変えてしまっていた。
 一方的に捨てられたことが、洋平の中でのリョータとの別離を不完全なものにしている。そのひっかかりが洋平に、リョータの部屋に通うことをやめさせなかった。そしてその日、幾度となく通い続けた洋平のもとに、一つの変化がもたらされた。
「まだ、帰ってないの。でも今日来たら渡してほしいって、リョータが……」
 リョータの母親から渡されたのは、封筒に入ったメモ。その中にはおそらくリョータの文字で、一つの場所だけが書き込まれていた。
 校内の体育倉庫だった。校門を抜け、自転車置場の横を通り過ぎ、既に誰もいなくなった校庭を横切る。錠前は外されて鍵穴にぶら下がっていた。気持ちを落ち着けるように深呼吸した後、洋平は重い扉を開けて、真っ暗な倉庫の中へと足を踏み入れていた。
 独特の土の匂いの向こうに、フィールド競技の用具が納められているのが見える。外からの月明かりで辛うじてそれだけが判ったが、人の気配はこれっぽっちもなかった。呼び出したはずのリョータを求めてその名前を呟きながらさらに奥へ。その時だった。人の気配に振り向きかけ、だがその気配の凶暴さに身を沈めようとするところ、その合間すら許されず洋平は後頭部を強打されていた。
 ひとたび意識が遠ざかり、再び近づいて来る間はさほど長い時間ではなかった。
 洋平の時間は目覚めた一瞬に繋がった。反射的に腕を動かす。しかし、ほとんど動かすことができなかった。皮膚に直接冷気が触れる。その意味はほどなく、目の前の見知らぬ男が明らかにした。
「腕が立つって宮城の奴に聞いたからな。シャツの切れ端で縛らせてもらったぜ。悪く思うなよ」
 そんなに、洋平が邪魔だったのか。
 平気で誰かに与えてしまえるほどに。
「なーに、おとなしくしてりゃ、手荒なことはしねえよ。元手がかかってんだ、大切にしてやるって」
 男の顔がよく見えないのは、あたりが暗いせいだけではなかった。頬に触れる指。内股をまさぐる指先。洋平は何の反応も示さなかった。洋平は、捨てられたのではなかった。この男に譲り渡されたのだ。
 震えているのは寒さのせい。熱く歪んだ欲望が押し当てられても、顎は噛み合わない。自分の腕がいったいどこにあるのか、動きもせず見えもしない。もしかしたらそんなもの、始めからついてはいなかったのかもしれない。
 まるで他人の身体のようだった。その瞬間の痛みすら感じないほどに。
 聞こえて来るのは男の息づかい。痛みと快楽とを同時に生み出す猥らな音。そして、誰のものかは判らない、同じリズムを刻む小さな呻き。胸に当たる、自分より少し大きい身体。
「アァ……お前、なにげに腰使ってんじゃねえよ。……たまんね……」
 誰だか知らない、リョータでない男。
「……なん……!」
 不意に、それまでの一律の音と気配は途切れていた。代わりに響くのは耳慣れた音。間に肉を挟んだ骨同士がぶつかりあう音。重さのあるものを地面に叩きつける音。金属性の何かが将棋倒しになる音。そして、先程から聞こえていた、あの男の声。
「−何もしてねえだろ。こいつは一度やっちまえばおとなしくなるって……」
 悲鳴のような呻きと音。さらに派手に。
「……ムシがついてるって知ってりゃ買わねえよ! ……判った! 二度とやらねえ。約束すっから……」
 見えていなかった訳ではなかった。脱ぎ捨てた服の端をつかんで逃げてゆく男の後ろ姿は、洋平には見えていても見えていなくてもたいした違いはなかった。既に痺れていた腕は、枷を外された今になってもまったく動かない。誰に抱かれても、誰に抱き締められても。
 彼が見ていた自分は、誰よりも汚れている。
「……こんな気持ち、知らねえ……」
 耳元で聞こえた声は、今の自分とはまるで不釣合なほど眩しく輝いていた。

 初めてリョータに抱かれたあの時から、流川との間に隔たりを感じていた。まみえることのない、別の世界の人間になったのだと。洋平には誰かが必要だった。流川ではない、別の誰かが。
 流川でなければ誰でもよかったのかもしれない。本当はリョータにこだわっていた訳ではなかったような気がする。流川でなければ得られない何かがある。それでも、それを流川に求めることは、洋平の中の何かが許さなかった。
 今、頼みにしていた仮面は全て粉々に砕かれ、素顔のままの自分がいる。
 逃げ道も、帰り道も、塞がれたまま既に用をなさない。完全に袋小路に追い込まれてしまった。鋭角の光はあまりに眩しすぎて、背後の影を振り返ることすら恐ろしくてできないのだ。
 破れたシャツと、汚れたジャケットが、家族を心配させるだろうと言った。
 シャツが切り裂かれていてもジャケットが泥まみれになっていても、洋平の家族は慣れ切っていて気にも留めないだろう。流川と出会う以前からそれは洋平の日常だった。しかし洋平はそうとは語らず、言われるままに部屋に上がった。風呂を借り、冷えきった身体を暖めて、同じように風呂から上がった流川をベッドの中で迎えた。
 仮面は砕かれ、意地も欲望もすべて日の下に曝される。抱かれてしまえば変わる気がした。彼岸の人であった流川を手元に引き寄せられる。自分が落ちたと同じ穴に引きずり落すことができる。
 流川という存在が、それまでとその存在の意味を変えるような気がする。
 後悔はしない。いつだってそれを望むのは自分ではなかったのだから。
 流川の腕は洋平を抱き寄せたままの形で、少しも動く気配はない。互いの裸体同士を合わせ、胸に頬を埋め、変化のない不安に目を上げると、柔らかな視線がいつも自分を見下ろしている。早く抱いてくれればいいと思う。自分を抱かない身体は洋平には理解不能だった。
 さっきまで誰かに抱かれていた身体は汚いだろうか。
「ずっとこのままでいるつもりか、お前」
 まるで正義の味方のように颯爽と現われ、洋平をその現実から救い出した。その瞬間に粉砕されたのは洋平自身のプライド。元に戻れぬ自分を、そうと知りながらも絶対に見せたくはなかった。流川の記憶の中でだけでも純粋なままの自分でいたかったのかもしれない。
 抱かないのならばそばにいたくなんかなかった。触れたくないほど汚いと思うのならば。
「……校庭を、歩いてくお前が見えた」
 抱かれている時だけ求められる自分を確信できた。
「ドアの前まで来たら、あいつの声だけが聞こえた。お前は抵抗もしてなかったし、目を開けてても何も見てなかった」
 あの男のものになってもいいと思ったのだ、本気で。
「あんな奴のものにもお前はなれる。だったらオレのものにもなるかもしれねえって、思った、あん時」
 何かが掛け違ってる ――
「オレが一番卑怯だ」
 流川の目は穏やかで、見つめられた自分が小さく思えた。自分の中の何かが大きく崩れてゆくのが判る。その崩れた何かがいったい何だったのか、今の洋平には判らなかった。確かなことは、洋平が今までこだわってきた幾つかのものが、流川にとってはまったく意味を持たなかったのだということ。
 頬に触れられた指が、洋平の表情を硬張らせた。無意識の恐怖が覆う。まるで安心させるかのように流川は頬をなで続ける。頬に残るのは叩かれ意識を失いそうになった時の記憶。
 目尻に触れた唇に洋平は目を閉じた。僅かにかかる息がその睫毛を震わせる。髪に差し込まれた指は毛筋に沿って梳くだけで引き掴み押し付けたりはしなかった。頬骨に沿って移動し、やがてその息は洋平の息を捜し当てる。
 吐息を恐れて息をのむ。触れただけの唇がなぜか熱い。熱い。
 流川だ−その時初めて思った。ここにいるのは流川なのだ。リョータでなく名前も知らないあの男ではなく、誰でもない流川なのだと。
 触れるか触れないかの手付きで頚動脈を探る。あるのは首を絞められた記憶。舌先で転がすように触れられる乳頭を噛みつかれまいと身を捩る。輪郭に沿って背筋を辿る指に洩れそうになる声を殺した。ちらつくのはその瞬間のリョータの掌。
「声、我慢すんな」
 隣の部屋に聞こえたら。
「聞こえたって構わねえ。余計なこと考えんな」
 脇腹の傷が残した血の味を。後ろ手に縛られた関節の痛みを。辿るように思い出しながら照らし合わせた。傷つかないSEXの方が、洋平には不思議だった。
 感じてしまうことが一番怖かった。だから流川がそこに辿り着いた時、洋平は流川の髪を掴んで押し戻そうとした。驚いて顔を上げる流川と視線が合う。流川は何も言わなかった。何も言わずに洋平の指だけを外した。
 気圧が下がり血液が沸騰する。恐れは全身の筋肉を硬直させ、流川の唇から生み出される感じは全身から力を奪った。その繰り返しが手足の微妙な痙攣を生み、咽喉から声ともつかない声を上げさせる。理性という名の枷を麻痺させる。
 それは洋平の知らなかったSEX。行為の残酷さは目尻から溢れ出る二筋の涙に象徴された。理性を保つことだけが唯一の自衛手段だった。自ら砦を設ける以外にあの性の狂宴を耐え抜く方法はなかったのだから。
 与えられたのは当たり前のSEX。気付いた流川に拭われた涙。突き抜けた感触の残る身体を、流川はゆっくりと開かせてゆく。至上命令は、洋平を傷つけないこと。
 早く迎え入れてしまいたかった。そして通り過ぎてゆく欲情を確かめたかった。今まさに変わってゆこうとしている自分をどこかで押し留めたかった。同じ思いを知っているから。あの日、リョータに全てを奪われたこと。
 奪われた時間に積み上げられたものは砂上の楼閣。崩されなければならなかったもの。自分がどれだけ傷つけられてきたか、歪められてきたのか、気付いてはいたけれど認めてしまうのは恐ろしいと同時に悔しかった。流川の存在は否応なしに見せつける。それは最後の足掻き。鋭角の侵入者に対する砦の抵抗。
 しかし入ってきたまま動く気配は見せなかった。
    ドクン ―――――
     ドクン ―――――
      ドクン ―――――
       ドクン ―――――
 身体の内部の鼓動がはっきりと感じられる。そのまま、触れられた指が洋平の身体をびくんと震わせた。静寂の中に、流川の与える感触だけが行き過ぎる。脳を伝って、内部をさらに締め上げてゆく。
 絶頂を意識した洋平の最後の呻き、もしくは叫び。
 ほとんど同時に息を詰めていた流川の口から大きな吐息が漏れる。倒れ込む身体は迷わず洋平を抱き締めた。残されたのは僅かな虚脱感と幸福感。奪うことのなかったSEX。
 嘲笑も、罵声も、痛みも、その中にはなかった。

 今、流川の腕の中にいることを、信じがたく思っている。
 呼吸に困難を来すほどに熱く重ねられた身体。その腕の震えが伝えて来るのは、流川の同じ想い。確かめた訳ではないけれど感じる。流川も洋平と同じようにこの現実をどこか信じられずにいるのだということ。
 洋平の真実の姿は、流川に拒絶と軽蔑を与えるのだと思っていた。アザミの檻の中で異常な性欲に溺れていた自分を覚えている。優しさを見せたリョータがうれしかった。リョータの中にSEXを求めていた自分を、心のどこかで軽蔑しながら。
 美しいままでいられなかった自分を貶めることでしか認められなかった。気付かなかった。いつしか自分を傷つけるのはリョータではなくなっていたことに。囚われていたのは変化を恐れたから。流川がもたらすかもしれなかった変化を、無意識に封じ込めて。
 時間は戻すことができないのだと思う。リョータと過ごした時間は永久に消え去ることはない。だけど、今判ったことがある。止まってしまった時間を動かすことは、いつでもできるのだということ。
 流川を引きずり込むことに、洋平は失敗したのだ。代わりに得たのは止まってしまった時間の続き。あの日流川と交わしていた視線の先。洋平自身が凍結させた、育つかもしれなかった関係。
 あの日の、続き ――
「 ―― 練習中に見てたのは、桜木にガンつけてた訳じゃねえ。別に桜木に会いたくてお前の家の近くうろついてた訳じゃねえ。バイトの帰り道、張り込んでた。オレが偶然会いたかったのは桜木じゃねえ」
 動き出す。凍ってしまった時間は流川の熱さに溶けて。
「お前の中にあいつがいるならそれも全部お前だ。いてもいなくても認める。誰にも負けねえのがオレだから」
 消えない過ちも洋平を形成する細胞の一部。過ちが消えないのと同じように、洋平の中から流川への想いが消えることはない。時間は消えない。リョータを好きだと感じたあの想いも、全て真実。
 突き落とす代わりに引き上げられ、鋭角の太陽のもとで血に塗れた翼を見る。誰にも穢すことのできない白さを知る。流した血は涙と強さに変わっていつか自分自身のピースのひとかけらになる。

 洋平の翼は、純粋な白さを取り戻す。



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