純白の翼
あの日、リョータを愛することを決めた。
身体の中に巣食う悪夢を消し去ることはできない気がした。しかしそれでも、あの日リョータが見せた苦痛にさえ見える愛情を否定することもまた、洋平にはできなかった。リョータを愛しさえすれば悪夢はいつか消える。自分に言い聞かせることは、今の洋平にはそう難しいことではなかった。
身体の中を蠢く生物が、そのうねりのスピードを上げる。深く折りたたまれた片足が痛みを訴え、洋平の口から呻きを絞り出していた。
「……ああ、ッリョータ……イッ」
「……なんだよ」
リョータの声には高揚する気分を害された僅かな怒りがある。
「オレ……そいつダメみてえ」
しかしリョータもまた、以前のリョータではありえなかった。唇の端に浮かんだのは、嘲笑ではなく微かな喜悦。
「この足がダメか。どういうのがいいんだ?」
「こういうのがいい」
折りたたまれていた足を、洋平はリョータの腰に絡ませる。腕を伸ばして上体を引き寄せた。胸が合わさると、リョータを一番近くに感じる気がする。あの日のリョータがよみがえって、同じ気持ちになれる気がする。
「さっきの方が感じるぜ」
「その分長くつながってられんじゃん。それに、オレはこっちの方が痛くねえ。オレが痛くねえ方がいいだろ?」
「お前の痛い顔も嫌いじゃねんだけどな。……ま、いっか。こっちで我慢してやるよ」
洋平の甘えと要求がリョータを優しくさせる。まるでそれまでの苛立ちが嘘であるかのように。身体を重ね、同じ時間を編み続ける。そうすればいつか、二人の間の絆はより強く結ばれていくはず。
同じ時間が、これから先永久に続いてゆくのならば。
いつの頃からか、黒猫の視線を感じることがなくなっていた。
教室にいる時、通い慣れた屋上にいる時さえ時々感じていた。今では思い出すことすらも少なくなっている。偶然通り過ぎる黒猫に、そうなってから初めて気づくことも稀ではなくなっていた。
忘れてくれるのはありがたかった。もとに戻ることができない自分を、そうと認めて忘れてくれるのは。
視界をちらりと行き過ぎる黒猫。その後ろ姿にほっとする。視線を合わせることがないと思うだけで安心する。彼はもう自分を見ることはないのだ。切ないほど張り詰めたあの目に晒されることほど、洋平が苦痛に思うものはないのだから。
大丈夫。笑っている。洋平が笑っている限り、黒猫はもう洋平を見ない。諦めると言った言葉が真実ならば、彼は二度と自分を見ないだろう。それは嬉しかった。見つめ合わずにいられるという事が、同時に洋平のささやかな喜びを奪われずに済むという事だったから。
視界の隅をちらりと行き過ぎる黒猫。洋平自身は全く気づいてはいなかった。どうして黒猫が視界を通り過ぎるのか。なぜ、後ろ姿に溜息を漏らすことができるのか。
リョータと会う時、なぜいつも罪悪感を感じるのか。
「お前ん中……スゲエ、気持ちい……サイコー」
穏やかなリョータ。穏やかな時間。自分がここに存在することが正しいのだと本気で思えるとき。
「アァ……オレもういく……いっちまってもいいか? 洋平……」
腕を伸ばしてリョータの上半身を引き寄せる。皮膚の熱さが洋平の感覚を痺れさせ、他のことは全てどうでもいい事のように思える。その瞬間の深い吐息が、洋平の場所を暖かく包み込んでゆく。
誰もいない。リョータの他にはもう誰もいない。
「洋平、お前の身体、冷てえな」
「……リョータはあったけえよ」
「お前、寒いんじゃねえ?」
心配そうに見つめるリョータに、洋平は敢えて答えなかった。洋平を抱き締めたまま、毛布を引き寄せて二人の身体に巻きつける。合わさる身体が暖かい。
「寒いよな。十二月だもんな」
「オレ、体温低いし」
「……昔さ、小学校ん時、手編のマフラーもらったことあんだ、クリスマスで」
「……モテる男だったんだ、リョータは」
「そういうお前はどうなんだよ」
突然始まった昔話は、思えば二人の間では初めての事だった。お互いの事なんか知らなくてもいいと思っていた。リョータが始めなければ洋平の方からはできなかった。そのリョータの変化を嬉しく思う洋平がいる。ずっと待ち望んでいた変化なのかも知れないと思えた。
「落書きだらけの使い古し定規もらった。中学ん時」
「花道だろ」
「いまでも使ってる。あいつ、覚えてねえみてえ」
「使えるもんでよかったな。手編のマフラーなんて使えねえぜ。……コートとか、ベーシックな奴なら登下校で使えんな」
「ストップウォッチ付きの時計とか、ロードワークん時便利かもな」
洋平の言葉に、リョータは微笑んだ。その笑顔を見られまいとするかの様に更に洋平を抱き寄せる。リョータは暖かい。それは冬の寒さから小さな生き物を守ろうとする、檻のように。
「お前、抱擁好きか?」
キスよりも、言葉よりも、SEXよりも。
「寒がりだし」
プレゼントよりも ――
「明日も来るよな」
そして何よりも、少しずつリョータを好きになれそうな自分が、一番嬉しかった。
今、目の前で現実に起こっている出来事を正確に把握することが、洋平にはできなかった。
一分の隙もなくぴったりと閉ざされた扉。扉の向こうで怒鳴り声を上げるリョータ。顔面の筋肉は硬直したまま、洋平の顔を能面じみた蒼白に彩る。
「てめえの面なんか見たくねえんだよ! もう二度と来んじゃねえ! 帰れよ!」
「リョータ……オレ、何かしたか? お前がそんな怒るようなこと……」
「気安く呼ぶんじゃねえ! ただてめえには飽きただけだ! てめえの身体も面も知らねえ! いなくなれよ! 消えろよ!」
「リョータ! ……何でだよ。話してくんなきゃ判んねえだろ? 部屋に入れてくれよ」
「うるせえ糞ったれ!」
ドアを叩き続ける洋平とドアを閉じたまま洋平を締め出すリョータとの争いに、驚いた母親が二階に上がって来る。最近になってからの息子のお気に入りの友人である洋平のその困惑した表情を見て取り、幼い頃から激し易かった息子の性格を鑑みた母親は、判らないまでもある程度事態を察知していた。リョータが癇癪を起こしたら最後、何があっても自分を曲げることはないのだという事を。
「リョータ! どうしたの? 洋平君驚いてるじゃないの。何があったのか知らないけどお友達に八つ当たりするのは止めなさい」
「お袋には関係ねえ! 口出しすんじゃねえよ!」
「洋平君は大切なお友達なんでしょう? あんなに仲がよかったじゃないの。どうしてこんなことするの」
「大切だなんて言ったことねえ! そんな奴好きでもなんでもねえ! 絶交だかんな! お袋、二度とそいつをウチん中入れんな!」
昨日は優しかったのだ。洋平を抱き寄せ、冷えた身体を暖めた。何も怒らせるようなことはしなかった。登下校でも使えるコート。
「リョータ! とにかくここを開けなさい。出てきて話し合えば判るでしょう」
それからのシーンは、後になってからも鮮明に思い出せるほど、くっきりと洋平の脳裏にこびりついていた。
勢いよく部屋の扉を開けたリョータ。その顔は何かに青く染まっているような気がした。何も見ず、ただ洋平の存在だけを見て取ったリョータは、まるっきりの無表情で洋平を見遣った。そして、片手を伸ばして洋平の胸を突き飛ばす。その瞬間に洋平が見たものは、混じりっ気なしの憎しみだけが生み出す氷のような冷たさに彩られた、リョータの表情だけだった。
洋平の片手が宙を泳いだ。そして、後ろに倒れまいとあとずさる。しかしそこには床はなかった。足を踏み外して、洋平は階段を背中から転がり落ちていったのだ。
遠くに悲鳴を聞いた。階段を落ちたことのある人間は、その経験を身体が覚えている。心持ち頭を持ち上げて庇い、腕は手すりと段差を探る。これ以上身体が落ちないように、傷つかないようにと足掻く。しかし今の洋平は、その反射行動のすべてを失っていた。自分に向けられた憎しみの意味を理解することができず、呆然と落ちるに任せることしかできなかった。
身体の痛みは不思議と感じることがなかった。数度にわたる後頭部へのショックに目を閉じたほんの数瞬の間に、リョータは再び姿を消していた。玄関先まで落ち込んだ洋平に駆け寄って来る人影がある。しかしそれも洋平の目には入ることはなかった。
「洋平君! 大丈夫? ……ごめんなさい。救急車を呼ばなくちゃ……」
身体の痛みは感じなかった。風景も、おたおたと歩き回る母親の様子も目には入らなかった。洋平の目の前にあったのはリョータの顔。生まれて初めて見る憎しみに呪われた人間の表情だった。
どうやって帰り着いたのか洋平は判らなかった。しかし、ただ一つだけ判ったことがある。自分がリョータに嫌われたのだということ。憎しみしかなかったあの表情で自分を見つめることができるほどに、嫌われてしまったのだということ。
どうしてだか判らなかった。だが、問い詰めて話し合いでどうにか出来るという僅かな希望すらありえないのだということも、心の奥底で感じていた。
―― 気安く呼ぶんじゃねえ!
ファーストネームで呼び始めた時から、リョータは優しくなった。宮城サンと呼んでいた頃、名前を呼ぶ度に苛ついていたリョータを覚えている。
―― ただてめえには飽きただけだ! てめえの身体も面も知らねえ!
クリスマスの話をした。ストップウォッチ付きの腕時計を喜んでいたように思えたのは錯覚だったのだろうか。
―― 大切だなんて言ったことねえ!
大切だと言われたことは一度もなかった。
―― そんな奴好きでもなんでもねえ!
好きだと言われたことは、一度だってなかった。
―― いなくなれよ! 消えろよ!
これが別れ? 本当に?
憎しみに憑依されたリョータの顔。片頬だけ妙に青黒く見えたのは、いったい何だったのだろう。憎んでいる。いったい誰を? 誰が誰を憎むのだろう。人間はあんなに純粋に誰かを憎むことが出来るのだろうか。
洋平自身は、誰を憎むことも出来ないのに。
アザミの茂みに強引に放り出された。棘に傷ついた白い翼を真っ赤な血に染められて。
「やっと来たか洋平。おっせーよ。オレもう話したくてしょうがなくて待ってたってのによ」
いつもより少し遅れて教室に辿り着いた洋平を、いつもよりかなり早かったらしい親友が迎える。適当にあしらいながら自分の席まで向かおうとするところ、待ちきれずに親友は捲し立て始めていた。
「すげかったんだぜ、昨日。誰もぜんぜん判んなくって、どうなってんのかさっぱりなんだよ。リョーちんもミッチーもいつもと変わんねーのに何思ったかいきなし流川がよう」
流川? ……リョータ……?
「流川の奴、リョーちんの事いきなし殴りやがって ―― 」
それは、昨日の練習が終わった後、部室での出来事だった。
ほかの三年生はすでに引退していて、今では唯一の三年生である先輩が、不意に気づいたようにリョータに話しかけていた。声の調子はそれまでとさして変えてはいなかったが、やや音量を落とし、トーンを落として聞こえづらく言う。
「そういやお前、例の、使ってみたのか?」
何を指すのか、リョータにしか判らない。リョータの方も同じように音量を落として答えた。
「一回だけッスけどね。もらってすぐに」
回りの会話もうるさく二人の会話を聞いている人間はいないかに思えた。何事もなく、二人の会話は進行してゆく。
「男で試したんだよな。どうだったんだ?」
「そうッスね……どうって言われても、別に聞いた通りッスよ。身体動かねえみたいで、そのうち声もでなくなって、んでもいいときにはイイ声出して……ちょっとね、顔に爪で傷つけてみたんスよ。普通なら痛いんでしょうけどね、それがまた何とも言えないすっげーイイ顔で……」
一年生の一人は、隣にいた大きな男が不意に消えたように錯覚した。リョータの話に聞き入っていた先輩は、自分の後ろから蛍光灯の光が遮られたのを感じた。そしてその次の瞬間、ロッカーにぶち当たる大きな音に部室にいた全員が振り返ると、転がるリョータと恐ろしい形相でリョータに二発目を食らわせようとしている流川の姿が映ったのだ。
その時の先輩の反応は早かった。後ろから流川を羽交い絞めにして、近くにいた後輩に自分と同じ行動を取るよう指示したのである。
「流川! お前、いったい何やってんだよ!」
流川には先輩の声はおろか、行動さえ感覚の中に入ってはいなかった。どうして身体が動かないのか、その意味も判ってはいなかった。倒れている一つ年上の男。その男を殴りたいのだ。せめてもう一発。本当は、無数に。
顔の傷の意味を。そして、視線を合わせなくなった、練習を見に来なくなった本当の理由を。
知らなかった洋平の心の痛みを。あんなに自分を遠ざけようとした、洋平の悲しみと悔しさを。
「何……しやがんだよ……」
知りたかった全ての事の元凶は、目の前のこの男にあったのだ。
男の目に、驚きは一瞬しか止まってはいなかった。すぐに皮肉な笑みに掻き消される。しかし声は表情を裏切っていた。ひどくかすれて、たよりなさげに響く。
回りは何も言わなかった。赤い髪の自称ライバルさえも。
「オレがやったって、てめえに何か言う権利あんのかよ」
どうして殴れないのか。殴ったらどうにかなるのかなんて判らない。今の自分の中に渦巻く感情をどうにか出来るとは思えない。どうして殴れないのか。
「手に入れてえって、ただ思っただけじゃねえかよ。てめえがやりたかったこと、オレがやっただけじゃねえ。何でてめえに殴られなきゃなんねえんだよ」
壊したのはこの男なのだ。育つかもしれなかった関係を粉々に砕いたのは。
「……だけど、そうやっててめえが手に入れたのは、あいつの『本当』じゃねえ」
男の視線が揺れた気がした。表情が何かに硬張る気がした。
「どうやったってオレのもんにはならなかった。仕方ねえんじゃねえのか? 何だってよかったんだよ! 全部が無理で……だからせめてひとかけらでもよかったんだ! てめえがもたもたしてたんじゃねえかよ! がけっぷちで、オレはおっこちる寸前だったんだよ!」
語り終えた親友に、洋平は口の中でぼそっと呟いて背を向け、そのまま教室を後にしていた。うしろで何かを叫ぶ親友がいる。しかし洋平にはたいして意味のあることとは思えなかった。
片頬だけ妙に青黒く見えた。リョータの目には憎しみしかなかった。昨日より以前から、洋平は知っていたのだ。痛みを伴うほど激しい想いで、リョータが自分に愛情を注いでいたことを。
リョータを好きだと思った。リョータを愛せると思った。二日前までの穏やかな日々が永久に続くのならば、やがてリョータを最愛の人と呼ぶことが出来るのだと。
壊したのは、流川なのだ。
真冬の太陽は、真夏の太陽よりも低い位置にあって、地上を斜めに照らしている。角度がある分暖かくはないけれど、それ以上に眩しいのだと思う。残像が視界を不思議な色に染める。洋平はいつもの屋上の更に上、出入口用に四角く切り取られたコンクリートの上で、雲一つ見あたらない冬空を見上げていた。
冷たく乾いた風が容赦なく洋平の身体に吹き付ける。冷えてゆく身体は、あの日包み込むように暖めてくれたリョータの腕を欲していた。白昼夢に溺れそうになると、背中の無数の痛みが否定する。確かなことの一つは、リョータの腕を永久的に失ってしまったのだという事実。
失って感じる孤独。今、心の中に空洞があるということは、洋平は確かにリョータに愛情を感じていたのだ。リョータの存在から自由になりたかった。アザミの檻から解放された血塗れの翼は、自由を得た今、真冬の空に凍えてしまいそうだった。
忘れると言ったのだ、流川は。自分のことは諦めると。リョータと心が通じ合ったと思ったあの時から、視線は感じなくなった。そんなに許せなかったのか。卑怯な手口で手に入れようとしたリョータの事を。
あの約束を忘れてしまうほど、すべてを忘れて殴りかかってしまうほどに。
自分の考えに沈み込んでいた洋平は、不意に気配を感じて顔を上げた。そして、信じられない面持ちで暫し呆然とする。心の中にまっすぐ突き刺さるような視線。それはこのところしばらく感じていなかった分、それまで以上に強烈な光を放っていた。
(……流川!)
くるりと背を向けて逃げ出すには場所が悪すぎた。最後の足掻きのように、僅かにあとずさる。そんな洋平を流川は捕え、両腕を押さえて伸し掛かるようにコンクリートに押し付けた。洋平はもはや少しも動くことが出来なくなっていた。
リョータを好きだと思っていた。だが、流川を見た瞬間、洋平は明らかに違う感情に支配されていた。呼吸は止まり、声を失った。まるで頭の芯に雷を浴びたかのような衝撃。目に見える風景が一瞬にして色を変える。流れ込んで来る気持ちの熱さに心の中の全てが打ち震える。高まる感情が、洋平にたった一つの事を知らしめる。
(やっぱオレ……流川の事が好きだ)
リョータといるときには気づかなかった。リョータの事を好きなのだと思えた時、その気持ちは流川に対する気持ちとこれほどまでに違うとは思わなかった。いつかリョータの事を愛せる。気持ちは育って、やがて流川の存在を打ち消してくれる。リョータに対する気持ちが、流川に対する気持ちを凌ぐときが必ず来る。そんな風に信じていたのだ。今この瞬間までは。
こんな気持ちにかなうはずがない。どんなに自分に言い聞かせたって、どれほど必死になって思い込もうとしたって ――
「水戸……」
伸し掛かったまま、流川が洋平の頬に唇を寄せる。その暖かさに洋平は震えた。あの時、リョータは暖かかった。その愛情は強さにおいて誰かに恥じるところがあっただろうか。
強烈な憎しみはその強さにおいて誰かに恥じるところがあっただろうか。相反する二つの感情はリョータの中にあって同じ重さで存在していた。あの憎しみは、愛情だったのではないのか。同じ気持ちの表と裏だったのではないだろうか。
リョータの一番になりたかった。リョータを好きだと思った。あれほどの強い愛情を見せつけてくれたリョータに、出来ることの全てを捧げたいのだと。
「……よせよ、流川……」
あの時の自分は、確かに幸せだったのだ。
「水戸……」
抑えつけた腕はそのままに、流川は顔を上げて洋平を見つめた。瞳は少しも変わらない。最初に抱き締められたあの時から。
「昨日の事、花道に聞いた。知ってんだろ? オレがリョータと付き合ってるって」
洋平の口から初めて語られた事実が、流川を一瞬躊躇わせた。僅かに眉を寄せ、そしてやっとの思いで言葉を搾り出す。
「だけど、あんなのは……」
「てめえに何が判んだよ!」
憎しみが愛情なら、判る気がするのだ、リョータの行動の意味が。洋平を階段から突き落とし、顔色一つ変えずに立ち去っていった。理由はただ一つ。洋平をアザミの檻から自由にすること。
「……最初薬で始まったからって、ずっとそのまんまじゃねえ。リョータといんのは楽しかったし、幸せだった。ずっと一緒にいられたらいいと思った。そういうの、壊す権利がてめえのどこにあんだよ!」
失わなければ判らなかった。リョータの残した空洞の大きさを。
「オレにリョータを返せよ!」
暫し ――――――
二人の間に存在する空気は、一瞬にして重苦しい虚無をたたえた。呼吸すら満足に出来なくなる密度。お互いの目を見つめたまま逸らすことの出来ない二つの視線。それらはやがて、その濃密の時間を孕んだまま洋平によって終わりを宣告された。
眩しさに耐えられなかった。目を閉じると、目の前の男の気配だけを感じる。その視線は目を閉じていてさえ鋭く洋平の心臓をえぐった。これほどまでに痛みを感じさせる気配は知らない。
「……リョータを返せよ……」
もう一度、洋平は呟く。ほとんど声にならない、空気の流れだけでかろうじてそれと判るほどの囁き。
まるで残された最後の手段のように、流川は洋平を掻き抱いた。しかし、繰り返されるのは、自分の名前ではなく、自分から一番大切な人を力で奪った男の名前だった。
「……リョ……タ……」
気配が消え、匂いも、空気さえ完全に消えたその場所で、洋平はおもむろに自らの肩を抱く。だれが悪いのだろうと自問する。否、誰も悪くない。悪いものがあるとすれば、壊れるまでリョータの想いに気づけなかった、自分自身だけだった。
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