催 眠



「今度人前で抱きついたら絶交」
 そう宣言して、オレは花道を連れて学校をあとにした。さすがに絶交の一言は効いたらしく、花道は一歩さがっておとなしくあとについてきていた。それでも視線はひっきりなしに訴えてる。オレに抱きつきたい。愛してるって叫びたい、と。
 沈黙の時間は長くて、そのおかげでオレも多少は落ち着いてきた。少なくとも花道は努力してるんだ。催眠術で植えつけられたオレへの愛情と愛情表現を、必死で抑えるべく。その程度の理性はまだあるらしい。オレに絶交されないために感情を抑えることができる程度には。
 だけど、事態は思いのほか深刻だ。今の花道は暗示の衝動を力で抑えてる。このままの状態が長く続いたら、もしかしたら花道の精神は破綻するかもしれねえんだ。
 花道の家に辿り着いても、オレの心は決まらなかった。
「洋平……、もしかしてお前、今日の約束……」
 花道の家のドアの前で、恐る恐る花道が言った。
 花道との約束は……破れる訳ねえよな。いくらそれが催眠術前の正常だった花道とした約束だからって。
「覚えてる。話があんだろ?」
 花道の表情がパーッと華やいだ。
 そして、ほとんど引きずるようにオレを玄関に引っ張り込んだ。
 ドアを閉めた瞬間、花道はみたびオレを抱き締めた。
 その一瞬で、オレの理性の枷が外れて、花道の腕の中に最高の天国を見たんだ。
「洋平……愛してる」
 耳元で囁くような花道の声。頭の奥が痺れて、身体が軽くなる気がした。もうなんにも考えられねえ。花道の匂いが、空気が、オレの全てを包み込んで、二人でいる喜びに身体も感情も支配される。
 言葉にできねえ。だけど、オレは花道を求めてる。花道がオレを求めてくれることを望んでいる。
「洋平……。洋平……。洋平……。……愛してる、洋平。オレ……ずっとお前のマブダチのつもりで、お前のこと最高好きで、欲しいとか……こんなこと思っちまうの、おかしいじゃねえかって思ってた。だけどオレ……お前のことやっぱ、親友のまんまになんかできねえ。……好きなんだ、洋平……」
 ……オレもだ。こんなに花道のこと求めてる。抱きしめられただけで身体に震えがくる。キス、したい。キスだけじゃなくて、もっと、その先も……。
「なんでオレ、こんなに洋平のこと好きなんだろ。……まるで自分じゃねえみてえだ。洋平のこと以外、何にもいらねえ……」
 花道が身体の位置を変えて、唇を近づける。脳ミソに靄がかかるように、オレの中から花道以外の全てが消える。花道の息が間近になる。あと少しで、触れる。
  ―― 催眠術……!
 瞬間、オレはほとんど暴力的に花道を突き放していた。
「アテッ!」
 花道の叫びとガタンてすごい物音に目を凝らすと、狭い玄関に置かれた下駄箱に花道は背中を打ちつけて呻いているところだった。
 ……あぶねえよ。もう少しで流されるとこだった。今の花道は正常じゃねえんだ。催眠術で植えつけられた感情だけが先走ってる。本当にオレが欲しいのは、こんな花道じゃなかったはずだ。
 花道の方だって、もしかしたら、オレのことなんか好きでもなんでもねえかもしれねえじゃねえか。だって、花道は今、確かに言ったんだから。『まるで自分じゃねえみてえだ』って。
 近い将来、花道の催眠術は解ける。その時、オレとキスしたこと、花道が後悔しないなんて言い切れねえんだから。
「……洋平。……お前、オレのこと、そんなに嫌なのか?」
 そうじゃねえ、けど。
「オレの気持ち、迷惑なんか?」
 迷惑なのは催眠術だけだ。お前のことは迷惑だなんて思ってねえ。
 むしろオレはお前とキスしてえと思ってる。
 キスして抱き合って、お互いの気持ちを確かめ合いてえよ!
 だけど……
 ……ほんとにこのまま流されて、いいのか?
 花道がオレのこと好きかどうかなんて、結局判らねえじゃねえか。
 どっちなんだよ花道!
 ほんとはオレのこと、どう思ってんだよ!
  ―― たぶんオレは、泣きそうに見えるくらい、情けない顔をしてる。
 花道もだ。鏡に映したオレと、たぶん同じ顔。
「オレのこと好きだって言えよ洋平!」
 花道は叫びながらいきなり身体を起こして、そのままオレを押し倒した。床に打ちつけられた背中のショックに息を止めた瞬間、回避する間もなくオレは花道に噛みつかれていた。痛みを伴うほどの激しいキス。花道の初めてのキスは狂ったようにオレの口内を掻き回したから、オレはその感触を味わうというより、自分の顎が外れないように努力するので精一杯だった。
 痛くて、息が苦しくて、酸欠。その痛みと苦しみの中に見え隠れするのは、花道がどれくらいオレのことを求めているかって疑問の答えだ。いったいどうやったら二つの身体は一つになる? 答えは判ってる。二つの身体が一つになることなんか、永久にありえないんだってこと。
 だけど花道が求めているのは確かだった。同じように、オレも求めている。邪魔な身体が溶け合うことはないけど、でも、一番近づきたいと。ぴったりと肌を寄せて、力一杯抱き締めれば、限りなく近づくことはできるから。
 花道がからめてくる舌の動きにオレも反応してからめる。抱き締めてくる腕に呼応するように両腕を背中に回した。呼吸なんかできなくてもいいと思った。一つになれない身体がもどかしくて、全身で花道の身体を感じたかった。
「ああ……洋平……」
 溜息混じりでオレの名前を呼ぶ。吐息も声も近いから、余すところなくオレの皮膚に吸収される。キスする口と名前を呼ぶ口と二つあればいいのに。花道の声はオレの耳の奥をくすぐって、大腿から膝までの筋肉を緊張させる。
「……好きだ……洋平のこと……」
  ―― 洋服を通して触れていた指はいつしか直の感触に変わっていた。

 花道の身体がすべてを忘れさせてくれたなら、オレはもっとずっと満ち足りた気持ちで受け止めることができただろう。
 だけど、いつもと違う花道は、最高潮の高まりを迎える僅か手前でオレを正気に返した。
 震える身体を解して、花道が少しずつ分け入ってくる。
 まるで何かに感電したかのように半身が硬直する。
「アァ……」
 互いの身体を繋いで一つにするということ。その行為を経たところで、まったく別の遺伝子を持った二つの身体はけっして溶け合うことはない。それでも、求めるものは確かにオレの中にあって、受け入れることのできる喜びに半身は打ち震えている。花道のかすかな喘ぎでさえもまるで自分のもののように感じる。
 だけど、その奥には内部から湧き上がってくる悲しみがあって ――
 花道……!
「洋平……オレ……!」
 同じリズムを奏でる楽器のように二つの身体は一つなのに、オレの心は自分の身体とさえ分離している。愛しているという花道の言葉もオレの表皮を素通りしてゆく。その言葉が、あの催眠術という忌まわしい変化から生まれた異端児でなければ、どんなによかっただろう。今の、花道のすべての行為は偽物なのだ。どんなに気持ちよくて、本物と瓜二つだったとしても、そして花道の本当の気持ちと区別がつかないくらいよく似ていたとしても、花道の言葉はすべて嘘なんだ。
  ―― いっそ嫌いでいてくれたらよかった。
 どうせ催眠術をかけるんだったら、オレを嫌いだとかけてくれればよかった。
 それでもオレは傷ついたと思う。大好きな花道に嫌われたらショックだと思う。
 だけど、少なくともこんなに苦しくて辛い気持ちにはならなかったはずだから。
「洋平……愛してる。こんな気持ち……お前じゃなきゃ……!」
 嘘が、あまりに残酷すぎて ――
「ああ……っ……!」
 最期の吐息のあとの花道の抱き締めは、オレの身体に心地よい疲労感と幸福感を残した。
 それなのに心は擦れ違って互いに違うものを見ている。
「洋平……愛してるよ。お前のこと、世界中で一番」
 オレも、花道を愛してる。お前が側にいるだけで、世界のどんなものも視野に入らない。
 だけど、さ。
「これからもずっと、オレの側にいてくれよ、洋平」
「……ああ……」
 一生交わらない視線を抱えて愛しあってゆくのならばいっそ ――
「……ずっと側にいる」
 オレ達は、違う形でいた方がいいのかもしれない。


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