戦場の籠球
会うときも別れるときも、これで最後かと思う。
俺はいつもそれほど長い時間を寿と過ごす訳じゃなかった。初めて出会ったときから過ごした時間を合計しても、丸一日にも満たない。それでも俺は寿を愛した。育つはずのない愛情を、寿に注ぎ続けていた。
寿は何なのか。もしも幻だと告げられたとしても、俺は納得しただろう。その方が本当らしい。偶然出会った最愛の人が幻なら、俺の命も幻だ。俺は幻に身を委ねたのだから。寿との時間に比べたら永遠とも思える自分の人生よりも、幻を選んでしまったのだから。
「彰、何を考えてる?」
腕の中の寿は、淡く消えてしまいそうな夢に似ていた。俺は寿を感じる。だが、寿を知ることは出来ない。
「愚にもつかないことさ」
「何を諦めたんだ?」
諦めなければならないことが多すぎる。すべてを寿に話すことは出来ないだろう。
「寿、俺はお前が好きだ」
「俺は違う。俺にとって、彰は世界そのものだ。好きだし、嫌いだ。だけど、失ったら生きていけねえ」
「俺は、お前が好きだ」
寿、俺はお前の世界にはなれねえ。俺はそんなにでかくねえし、お前はそんなに小さくねえ。どうしてだ寿。どうしてお前はそんなに綺麗なんだ。
「彰、俺はずっと諦めてた。生まれたときから死にたかったような気がする。死にたくて……だけど、死にたい死にたいって思ってるうちは死ねねえんだ。死にたいって事は裏を返せば生きたいって事だから。たぶんそういうの、彰には判んねえ。ものすげえ、強い思いなんだ。だけど、辛いとか苦しいとかってのは慣れるんだ。辛い思いをして、それでも生きてた時、今度はもっと辛い思いをしても死ねなくなる。死にたいのにどんどん死ねなくなる。どんどん生きたいと思う。死にたいって強い思いと、生きたいって強い思いがあって、自分でも訳が判らなくなる。
彰と会って、俺やっと死ねると思った。彰が俺の世界だから、彰が本当に俺を愛してくれたから、俺はやっと生と死との長い綱引きから解放される。……彰と出会うまでは、俺を殺してくれるのはこの世で最高の苦しみだと思ったんだ。この世で最高の苦しみによってしか俺は救われないって。だけど判った。本当に俺を殺せるのは、この世で最高の喜びだけなんだ。彰が俺にくれた、最高の喜びだけなんだ」
俺は力一杯寿を抱き締めた。ほかにどうすることが出来るっていうんだ。こんなに綺麗で、悲しい魂を。
「寿の言うことは判らねえよ。嬉しいから死ぬのか? ぜんぜん判んねえよ」
「判らなくてもいいさ。だから、一つだけ覚えておいてくれ。俺は彰のいない世界なんかいらねえ。彰が死ぬと思ったら、先に俺を殺してくれ。この間約束したように」
判ったことが一つだけあった。寿のために俺にできることは、できるだけ苦しまないように殺してやることだけなのだと。寿はそれ以外は何も望んではいないのだと。もしも俺達が軍人ではなくて、敵同士でもなくて、平和な時代のただの二人だったら、俺は寿にどんな事でもしてやれた。未来をやれた。希望も夢も何もかも……
バスケットボールの選手になりたかったと言った寿。俺には何もできないんだ。
その時 ――
何かが乾いた音を立てて、俺と寿を驚かせた。からからという、木の板のようなものがぶつかりあう音。寿はあわてて起きあがった。驚く俺に、寿は小さな声で早口に言った。
「彰、すぐに服を着ろ。誰かが来る」
職業軍人の俺は、一瞬たりとも躊躇わない。出来るだけ早く軍服を着ながら、小声で言った。
「誰かって?」
「たぶんお前にとっての敵国人だ。入口に風閂を仕掛けといた。早くて二分持つかどうか。服を着たらすぐに帰って、もうここへは二度と来るな。俺も来ねえ」
「寿……」
本当に最後なのか? 俺たちはこれっきりで、次に会うときは戦場で殺しあうのか?
もう、お前と二人で語り合うことも出来ねえってのか……?
「彰、キスしてくれ」
本当に、最後の口付け。俺達には何もない。明日への希望も約束も、俺は口にすることが出来なかった。だからこそ思う。遠い未来に俺が再び生を受けたとしたら、必ずお前を見つけると。お前を見つけて、今出来なかったことすべてをお前のためにしてやると。
「寿、俺はお前に何も出来なかった」
「彰は俺と出会ったことを後悔できるか?」
できる訳がない。
「それならいいよ。俺も彰に何も出来なかった。だけど後悔なんかしねえ。俺は軍人だ。最期は軍人らしく死にたい。俺の言うこと、判るよな」
「……助けるな、って事か……?」
「ああ、絶対だ。……もう行けよ」
寿に言う言葉が見つからなかった。俺には何も出来ない。こんなに悲しい別れがあることを、俺は初めて知った。心に渦巻く言葉のすべては、寿を慰めるために何一つ役に立たないのだから。
俺は寿に見送られて、その場を離れた。歩いてゆくうちに、今あとにしてきたあたりから、英語の会話が聞こえる。その時ほど、俺が英語を理解できることを辛く思ったことはなかったのだ。
『こんな所にいやがったのか。ずいぶんさがしたぜ、ゲイシャベイビー』
『おら、ムスコがうずいてやがる。舐めろよ』
『出来るもんならやってみろ。このうすら馬鹿ども』
『おーおー、言ってくれるじゃねーか。日本人のくせによ』
耐えられなくなって引き返そうとした。その時、日本語で叫びが上がった。
「来るんじゃねーぞ彰! 早く行け!」
俺に言ってるんだ。俺が引き返したりしねえように。俺は立ちつくしたまま拳を握り締めた。怒りが……自分に対する怒りがあふれて、気が狂いそうになる。
『何訳の判んねー事言ってやがる。人間の言葉をしゃべれよ』
『猿の言葉なんか判んねーんだよ。おら、いつもみてえに泣けよ。許してやらんでもねーぞ』
「彰、俺は平気だから、早くここから離れろ! ……アアッ!」
理屈では判るんだ。俺が行ったところで寿は助けられない。俺がうまく奴らを殺せたとしても、軍人である寿は帰ればそのまま殺されるだろう。つれて逃げることが出来ないから。俺では寿を軍人らしく死なせることが出来ないから。
今、凌辱されかけている寿を、俺は見捨てるしかなかった。寿が俺を恨んでくれることを、心の底から願いながら。
数日間は、驚くほど平和な日々が続いていた。
もちろん、真の平和でないことくらいは判っている。最もよく使われる言葉で言うなら、嵐の前の静けさ。おそらく生涯最後の穏やかな日々だ。誰もがそのことを感じて、不自然なほどその平和を楽しんでいた。
桜木以外の隊員は、嵐の正体を知っている。国同士のいさかいは既に修復不可能なまでに大きくなっていた。国民の知らないところで、全面戦争の準備は着々と進められている。本部や古代遺跡の砦には多くの軍人が終結しつつあるのだろう。そのあわただしさはこの国境までは届かない。捨てられた国境には、何も伝わってはこないのだ。
逃げるつもりなら逃げられるだろう。二週間に一度ほどあった巡視も、もう来なくなって久しい。誰もが気付いていたが、誰もそのことを口に上らせはしなかった。桜木が何も言わないのは、気付いていないからか、巡視など来ない方が都合がいいと感じているからなのだろう。おかげで籠球場は完成し、練習を誰にも咎められることはなかった。
赤木大尉は無線室にこもることが多くなっていた。大尉が無線係を自発的に買って出てくれるので、事実上無線当番は存在しなくなっていた。何かをしていないと落ち着かないのだろう。それは俺や宮城も同じだった。俺はほかの三人に籠球を教えることに全力を注いだ。表面上は皆明るく、籠球を心から楽しんでいるように見えたことだろう。
「仙道中尉殿。そろそろ休憩にしましょうや」
宮城少尉の声は明るかった。その声を聞くかぎり、思い悩むことなど少しもないように見える。
「おう」
「仙道中尉殿、俺はもう少し練習してます。流川、防御やれよ」
「ああ」
流川は今では桜木の自由奔放にほとんど逆らわなかった。ちらりと俺を見て、そのまま桜木と一対一の練習を始める。俺と宮城は少し離れたところで腰かけた。水筒に口を付けながら、宮城は言った。
「あいつら元気ですよ。あれが若いってことですかね」
「お前も変わらねえだろう? ……年はさ」
「数は変わらねえですよ」
宮城の言わんとしていることは判った。俺や宮城とあいつらとは、踏んだ場数が違うのだ。俺達はそれなりに修羅場をくぐっている。軍の汚さに苦汁を舐めた回数も、奴らとは桁外れだった。
「仙道中尉殿」
「ああ?」
「死ぬの、恐くないですか?」
軍人は死を恐れない。それは軍人のたてまえだ。死ぬことを恐れない人間なんていやしない。だが、軍人である以上、それを口にすることは誰もしなかった。心の中でどんなに叫んでいたとしても。
俺は今この時、軍人じゃなかったのかも知れねえ。俺だけじゃなく、こんな質問を口にした宮城少尉も。
「恐かったよ。ついこの前までは」
「今はどうなんです?」
「さあな。どうでもよくなっちまったな……」
寿と別れるまで、俺は死ぬことばかり考えていた。どうせ死ぬのだという諦めの裏には、死に対する恐れがあった。恐いから諦めた。諦めたから恐かったのかも知れない。
俺は今まで自分の人生はまだ先が残されているのだと思っていた。だが違うらしい。俺の人生はこれでおわるんだ。先がないことを理解できたから、俺には諦めも死への恐怖もなくなった。飛び越えられもしねえ崖っぷちで向う側の世界を夢見ることになんて、何の意味もねえから。今までは見えなかった崖がはっきりと見えることで、向う側の世界は俺には意味を持たなくなった。俺は目を閉じた。もう、何も見る必要がない。
「それって、諦めたって事ですかい?」
「違うな。……うまく言えねえが、俺は向う側に何もねえ事を理解した。諦めるってのは、まだ生きることに心を残してるってことだろ。俺にはこの先ってのがねえ。……これって、悟りってやつじゃねえか?」
「坊さんじゃねえでしょ? 笑いますよ」
「お前はどうなんだよ」
「俺には死ぬことの恐怖よりも誇りを貫く方が大切なんですよ。恐くねえって言えば嘘ですけど、後悔できませんからね。猪突猛進、突っ走るだけです」
猪突猛進か。この上なくお前らしいようで、ちっともお前らしくないような気もするな。自分に言い聞かせてでもいるのか? 死の恐怖に逆上して、我を見失わねえように。
やがて、向こうの方から流川が歩いてきた。息を切らせているところを見ると、桜木につきあいきれなくなったらしい。宮城が手拭を放ると、宮城の肩に寄りかかるように座り込んでいた。
「宮城少尉。交代」
「若者がだらしねえな」
「化けもんだ、あいつ」
「俺で相手になるのかあ?」
宮城少尉は流川と入れ替わりに桜木の相手をしに立ち上がって歩いて行った。流川は暑さ対策に手拭を頭に乗せて息をはずませている。桜木と流川の籠球の技はほとんど互角だ。流川がこれほど疲労しているなら、桜木も同じくらいは動いただろう。あの体力には頭が下がる。桜木が本物になるのをこの目で見てみたいものだ。
流川が誰かに話しかけることはあまりなかった。俺もそれほど話したことがある訳じゃない。だが珍しいことに、今日は流川の方から話しかけてきた。
「仙道少尉殿」
「あ?」
「どこで籠球習ったんですか?」
流川は知っているはずだ。俺が軍大の外交部に席を置いていたことは。そこでは敵国のあらゆる事について教えられる。英語もそこで習った。ほかの三人も俺がどういう経歴の人間か知っていたからこそ、俺が籠球に詳しいことを不思議に思わなかったんだ。この男は馬鹿じゃない。流川が言いたいのは、俺がどこで籠球の動きについて習ったかということだ。
宮城の言う通りだ。直接俺に聞くあたりは餓鬼だが、でかくなる奴だ。
「俺は敵国の間諜なのさ」
「それが本当なら今すぐ処刑してやりてえです」
流川の言葉に俺は背筋が寒くなるのを感じた。流川が俺に対して怒りをぶつけている理由が判ったのだ。口数は少ないが、こいつはとんでもない奴だ。俺は初めて流川の恐ろしさを理解したのかも知れない。
「深読みのしすぎってやつだ。俺は千里眼じゃねえぞ」
「俺は中尉殿に嵌められたことは知らなかった。だけど、桜木は本当に何も知らねえ。俺は奴には何も言わねえし、中尉殿の思惑には従いますが、俺は一生あんたを許さねえ」
思惑なんか何もなかった。俺が桜木に籠球の話をしたのは、日本の籠球を甦らせる役を桜木にさせるためじゃなかったんだ。その時は俺は自分がこんなに早く死ぬとは思わなかったしな。自分の手で最後までやりとげるつもりだった。戦争が終わればどんなことでも出来るって信じていたんだ。
俺の仕事は桜木に受け継がれちまった。無事に生き延びれば、桜木は残りの人生を籠球に賭けるだろう。俺の遺志を無駄にしないために。そして流川は桜木を手伝う。流川には桜木を見捨てることなんかできやしないから。……俺は桜木の将来を決めちまった。俺は桜木に、自分の人生の続きを演じさせちまうんだ。
流川が怒るのも無理はねえ。俺を一生許さないと言っても。
「流川、俺はお前にだけ話しておく。誰も知らねえ話だ。お前が墓場まで持っていってくれ」
この日、俺は流川に寿の話をした。流川が俺の話をどう感じたのか、俺には知る術はなかった。
安西中佐が来た日から、既に二週間以上が経っていた。
嵐が来る日が目の前に近づいている事を俺が察するのは容易なことだった。宣戦布告前にどんな手続きがあって、どれくらいの時間がかかるものか、外交部で学んだことのある俺は予想できる。二週間がぎりぎりだった。いつ敵が攻めてきてもおかしくないだろう。
一人だけ籠球に参加していない赤木大尉は、目に見えて憔悴していた。国境部隊の最高責任者である大尉は、籠球にうつつをぬかす訳にはいかなかったのだろう。無線機いじりで気が紛れる訳もない。さすがに俺も心配になって、休憩がてら無線室の方に顔を出していた。
「赤木大尉殿、何か変わったことは?」
「いや……」
「よかったら自分が替わりましょう。大尉殿も少し身体を動かされた方が」
赤木大尉は溜息をついて、首を動かした。それでも波長を変え続けている。俺の提案を受ける気はないようだ。
俺も隣に座って、三つある無線機の一つを動かし始めた。しばらく二人は何も言わずに作業を続ける。やがて、赤木大尉がぼそっと言った。
「仙道中尉、俺は貴様に謝らなければならんな」
「何のことです?」
「いろいろとだ」
はて、いったい何のことやら。この人は時々理解出来ないことを言う。
「理由に思い当たるものがないんですけど」
「仙道中尉、ここに配属になってからどのくらいになる」
「二年……になるかならないかですかね」
「そうだ。俺がここの国境警備を任されたのも二年前だ。俺はその時大尉昇格と同時にこの部隊の隊員選びを一任された。中尉と少尉とをそれぞれ一人ずつということで」
懐かしい話をするな。俺もまだ十五だった。大尉にしたところでまだ十六だったはずだけど、この迫力ある物腰はその頃から少しも変わってはいなかった。
「俺は貴様と宮城少尉とを選んだ。宮城の場合は前もって打診があったんだ。あいつは前の部隊ではほとんど村八分状態でな。上官も頭を悩ませてた。小人数の部隊がよかろうということになって……。結果的にはよかったかもしれん。だが、貴様は違う。仙道中尉……あのときは少尉だったが、貴様は本部の所属が決まってた。それを、英語をしゃべれる奴が欲しいと言った俺の一言で、こんな所に回されちまった。俺のせいで貴様は……」
「違いますよ、赤木大尉殿」
「何が違う」
「俺が本部に回って来た理由は聞いたでしょう? まあ、細かい理由はたくさんありますけど、一言で言えば、俺は危険人物だったんですよ。考え方が軍の規律に向いてなかった。でも、教育された精鋭軍人の肩書がありましたから、上にしてみれば、肩書をけがさない程度の部署に回さざるを得なかった。……赤木大尉殿の下では気が楽でした。貴方は大抵のことは大目に見てくれましたからね。上にばれなきゃいいって。俺のことを本気で心配してくれました。……貴方の部下で本当によかった。きっと宮城もそう思ってますよ」
「仙道……」
「それにですね、赤木大尉殿も結局は上の命令でここに回されて、命令にしたがって部下を選んだんです。そういう意味では俺は大尉殿に選ばれた訳じゃなくて、上の命令で回されてきたのと同じじゃないですか。俺じゃなくても大尉殿はほかの人間を選んでいた訳です。大尉殿は俺じゃない人間を選んだとしても同じように苦しんだ訳でしょう? だったら、俺に謝る必然性はないですよ。むしろ俺はこれでよかったと思ってます。いずれは難癖付けられてどこかの国境に回されたでしょうからね。石頭の上官の下で息苦しい思いするより、心の広い上官の下で伸び伸びする方が性に合ってますから」
「仙道、俺を許してくれるのか……?」
「俺を選んでくれたことを感謝しています」
しばらく、赤木大尉はうつむいていた。何を考えているのか。今までこの人は苦しんだのだろう。軍人としての大尉にとって、部下を死なせるくらい辛いことはないのだから。
この人は軍人だ。俺が知り得た軍人の中では、最高の、たった一人本物の軍人だ。
「将校として一番大切なことは死なないこと。その次に大切なことは、部下を死なせないこと。俺は将校失格だな」
「それを言うなら俺もですよ。俺も部下を持った将校ですからね」
「仙道中尉、これは命令だ。絶対に死ぬな」
「最善の努力を尽くします」
今、一番奇跡を願うのは、赤木大尉に間違いないだろう。俺の言葉を確認して、もう一度無線機に向かう。無線機が使われることを一番恐れているのも大尉だ。それでも確認せずにはいられないのは、人間の精神の不思議というほかなかった。
俺も無線傍受に専念する。そしてやがて、俺は悪夢のような電波を受信したのだった。
「来たか!」
俺は必死で波長を合わせる。ようやく言葉が聞き取れるところまで来た時、その電波は不意に途切れた。通信が終わった訳ではないのに、いきなり途切れたのだ。
「切れたのか?」
「いいえ。単語の途中でした。波長が変わったのかも知れません」
「仙道中尉は引き続き受信を。俺は連中を呼んでくる」
「了解しました」
俺はすばやくさっきまでぴったり合っていた波長を記録用紙に書き留めて、再びつまみを動かした。雑音をたよりにあわせたとき、再び通信は途切れていた。聞き取れた単語と波長を書いて、みたびつまみを動かす。そんな事を数回繰り返すうちに、赤木大尉が全員をつれて戻ってきた。
「仙道中尉!」
「報告します。どうやら通信は続けられておりますが、数十秒に一度波長が変わります。傍受は困難です」
「宮城少尉、桜木少尉、無線で敵国の波長を探せ。波長が判ったら報告。流川少尉は波長を記録せよ。仙道中尉は敵国の言葉を聞き取れただけ記録せよ。無線は俺が代わる」
「はっ!」
緊迫感は三人の少尉たちにも伝染していた。躊躇う暇はない。俺達はそれぞれに移動して、割り当てられた作業に没頭する。一度捜し当てた波長も、ほんの数秒で変わる。聞き取れる単語は僅かだった。俺は時計を見ながら、波長が変わる時間を計った。きっかり三十秒だった。
「無線機の性能が違うみたいですね。波長が変わる直前に次の波長を打ち合わせる様子もありませんから、これは無線機本来の性能だと思います。無秩序に波長を選択する機能が付いているんですよ」
「盗聴防止ということか」
「おそらく」
作業を続けるうちに、三人の無線係は次第に腕をあげてきた。一人が波長を捕らえると、残りの二人は受信可能な波長の範囲の最長と最短にそれぞれのつまみを合わせて、三十秒が過ぎたときに同時に探し始める。この方法で受信時間が伸びて、俺は会話の半分程度は聞き取ることが出来た。だが、高性能の無線機にかなうはずもなく、約四十分後に通信が終了したときには、全員精神的に疲れ果てていた。
しばらくは誰も何も言わなかった。あの桜木ですら無口になっていた。奴には何が起こったのかすら判らないだろう。ようやく気力を取り戻すことに成功したのは、赤木大尉だった。
「仙道中尉、敵は何を話していたんだ」
聞き取れたのは途切れ途切れの僅かな単語だけだった。俺は記録を見ながら、頭をめぐらせた。
「撹乱もあると思いますが、聞き取れたのはほとんど人名でしょう。一つはっきりと聞こえたのは、日付と時間です。九月十七日、PM……午後七時。明日の夜です。何回か繰り返していましたので間違いありません」
「明日の夜か。間違いないか?」
「はい。……自分の勉強した英語に間違いがなければ」
「次の通信が何時ごろ行われるかは判らないか」
「確証はありませんが、これだけ長い通信のあとですから、しばらくはないものと思われます」
「そうか……」
頑張った割には収穫が少なかった。このまま通信傍受に時間を費やしたところで、疲れが溜るだけだろう。おそらく赤木大尉も同じことを考えている。そんな俺の予想を裏付けるように、赤木大尉は言った。
「仙道中尉以外は全員休憩に入れ。次の指示があるまで待機せよ」
「赤木大尉殿。これはいったいどういう事なんですか? 俺にはさっぱり判らねえです」
「桜木少尉、命令が聞こえなかったか」
しぶしぶという感じで、桜木はほかの二人とともに無線室をあとにしていた。桜木には宮城少尉がうまく説明してくれることだろう。三人を送り出した赤木大尉は、椅子に崩れ落ちた。いよいよ、その時が来たのだ。
「仙道中尉、さっきの時刻が宣戦布告の時刻なのか?」
「ええ、Xデイと言ってましたから、間違いないでしょう。数学で言えばXは未知数ですから、あちらではそういう言い方をするんです」
「ほかには」
「ジャパニーズ・ゲイシャ・ベイビー。宣戦布告用に敵国が用意した通訳の暗号名です。それから、捕虜という単語も聞き取れましたが、それについては判りません。武器のことも言っていたようですが、キャノン……大砲という言葉しか判りませんでした」
「捕虜は、取らんだろうな」
「おそらくは。意味がありませんからね。邪魔になるだけです」
「せめて捕虜を必要としてさえくれればな。言っても詮ないことか」
「捕虜になるのは遠慮したいところですね。通訳の暗号名の付け方からして、奴等が日本人にどういう感情を持っているか判りますから。ジャパニーズ・ゲイシャ・ベイビー。ジャパニーズは日本人です。ゲイシャは芸者。ベイビーはかわいい女の子を呼ぶときの呼び方の一つです。あちらでどういう扱いをされるか想像出来ますよ」
二米の大男の赤木大尉や一米九十の俺をどうにかできるとは思わねえけど、一米六十八しかない宮城少尉は真っ先に標的になるだろう。なにしろかなりでかい寿ですら犯した奴等だ。下手をすれば桜木や流川までも狙ってくるかも知れねえ。赤い髪の日本人は珍しいだろうし、流川はあれで整った顔立ちをしてるしな。俺はそうまでして生きる気はしねえ。おそらく、宮城も同じ気持ちだろう。
「確認してみよう」
赤木大尉の言葉は、話のながれに関係ないようだ。なにかを思いだしたのか。
「何がです?」
「いや、明日は満月じゃなかったかと思ってな。仙道中尉、最近は月を眺めんか?」
「見ませんが、たしかにそろそろ満月ですね」
「このあたりは夜の七時ももう暗いが、満月の夜ならかなり明るいはずだ。どう思う」
「はあ……そうですね。こちらの人数があちらにまで知れているとは思えませんから、全員を漏れなく狩り出すための作戦でしょう。夜なら我々も気を抜いているでしょうし。……本当は奇襲をかけるなら明け方が一番効果的です。ですが今回の場合は正式に宣戦布告される訳ですから、明け方って訳にはいかんでしょう。妥当な線だと思いますよ」
「そうか。……よく判った。仙道中尉、貴様は流川少尉と桜木少尉にいつも通り籠球を教えてやってくれ。俺は宮城少尉と無線係をやる。何か受信できたら呼びにいくから、それ迄は好きにしていてくれ。今日が最後だ」
「了解しました」
無線室を出て歩きながら、俺は赤木大尉がなぜ捕虜の話から月のことを連想したのかということに思い当たってぞくっとした。
そして、もう大尉に対して隠すことは何もないのだという思いに、ほっと胸をなで降ろしたのだった。
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