戦場の籠球
次の日の午後、安西中佐はやってきた。俺達は整列して最敬礼で中佐の車を迎える。少尉一人をお伴につけた中佐は身軽だった。その身体は肥っていて、とても身軽とは言えなかったが。
中佐の話は俺と赤木大尉とで聞くことになっていたから、ほかの奴等は無線室に集めておとなしくさせた。五人でいるときは何を言ってもかまわねえが、せめて上官が来ているときくらいはおとなしくさせておかないことには、俺達の印象はますます悪くなる。安西中佐がそういう事を気にするとも思えねえが、今日の中佐の様子からして話自体おもしろい話とも思えない。慎重に行動させるのが得策だった。
作戦指令室で正式の挨拶を交わしたあと、安西中佐は俺達を応接机の方に促した。そして、お伴の相田とかいう生意気そうな少尉にお茶を運ばせる。軍隊では異例の待遇だ。だが、安西中佐はそういう人間だった。
「赤木君、仙道君、私は君達に残念な話をしなければならなくなりました」
安西中佐の話はそんなふうに始まった。役職を言わずに君付けで呼ぶのも、ですます調で話すのも、この中佐の特徴だ。おかげで部下には評判がいいが、上官には疎まれる。六十にもなろうという精鋭軍人が未だに中佐なんぞをやらされている原因の一つだ。
「残念、と言いますと」
「近いうちに全面開戦になるんです。敵軍は国境を一斉に攻撃してきます。増援を要請した本部に上層部は言いました。国境は捨てると」
国境を捨てる……?
軍は俺達を見殺しにするって言うのか?
「巨大遺跡の砦で応戦する心構えだとのことでした。私は国境警備隊の撤退を要請しました。ですが、聞き入れられませんでした。済まない。私の力がたりなかったばっかりに……」
俺は呆然として安西中佐の話を聞いた。俺達は撤退すら出来ないのだ。軍は俺達を見捨てた。国は俺達を見捨てた。
「この場で応戦せよとのことでしょうか」
赤木大尉は冷静だった。予想はしていたのかも知れない。本陣から見捨てられてここに集められた俺達が、国からも見捨てられる運命だということは。
「出来うるかぎり敵の侵攻を防ぐようにとの命令です。援軍はありません」
「むちゃくちゃだな」
「仙道中尉! 中佐殿の前だぞ」
ぼそっと言った俺を、赤木中尉がたしなめる。今ここで中佐殿のご機嫌をそこねたところでどうって事はねえさ。除隊になるんならその方が命が助かるだけましってもんだ。
「赤木君。仙道君の言うとおりです。彼らは命をどう考えているのか。ここにいるのは一人一人まぎれもなく人間なんです。それも、こんなに若くて躍動的で、希望に満ちた未来ある青年達だ。私は君達を死なせたくない。言っている意味は判るね」
逃げてもいいと言っているのか。逃亡兵になれと。戦争に勝てば逃亡兵に生きる道はない。安西中佐は日本が戦争に負けるから逃亡しろと言っているのか。
そうだよな。バスケットボールのチームがあるような国に、日本が勝てる訳ねえよな。
寿に会いたい。会って、抱きしめてもらいたい。
「安西中佐殿、もしもうちの部隊から伝令が行ったら、彼らのことを頼みます」
「赤木君……? 君は ―― 」
「約束してください。まだ……子供なんです。何も知らない純粋な子供なんです」
赤木大尉に一歩遅れて、俺も頭を下げた。それが、今俺が出来ることの精一杯のことだったから。赤木大尉の心が判る。俺は今、この人の部下で幸せだ。
「判りました。彼らのことは任せなさい。赤木君、仙道君、君達はいい子だ。何としても生き延びなさい。最後まで諦めることなく」
この時、俺は覚悟を決めた。
生きるために、生き延びるために死地に赴いてやろうという覚悟を。
その夜、赤木大尉は宮城少尉を部屋に呼んで、ずいぶん長い時間話をしていたらしかった。
俺は部屋を抜けだして、洞窟に駈けた。いつもよりも遅くなっている。だが、多少遅くなっても寿は待っているはずだ。俺には確信があった。
いつも歌声が聞こえるあたりになっても、寿の声は聞こえなかった。嫌な予感を覚えて、俺は足音を忍ばせる。この先が寿と俺との狭間の場所だ。気配を殺して覗くと、まっ暗な中に、寿の影が横たわっていた。
俺がわざと石を転がすと、寿は気付いたのだろう、少し身体を動かした。そして、まるで寿の声とも思えない声で歌いだしたのだ。
「春は……名のみ……の、風……の寒さ……や……」
『早春賦』だった。俺は寿の名前を呼びながら駈けよってその身体を抱きしめた。
「ごめん……歌えなく……て……」
「もういい。どうしたんだ、こんな……」
寿の軍服はぼろぼろだった。怪我も酷い。これは……
「お前……輪姦されたのか?」
寿は悲しそうに微笑んだ。お前、こんな身体でここまで来たのか? 俺が待っていると思って。
「大丈夫。……慣れてるから」
俺の身体の中を、押え切れない激しい怒りが走った。今すぐぶち殺してやりたい。今すぐ乗り込んでいって、寿を傷つけた奴等を全部、なぶり殺しにしてやりたい。
「よくあるのか、こんな事」
「俺には味方がいねえから。……一対一なら負けねえ。一対二でも場合によっちゃ何とかできるけど、三人いたら俺の力じゃどうにもできねえ。喧嘩は強い方なんだ、これでも」
「なんて名前のどういう奴だ。俺が殺してやる」
「いいんだ彰。……それより俺、今日だってのが悔しい。今夜は俺、彰に抱いてもらえねえ」
「馬鹿。俺はお前といられればそれでいいんだよ」
寿の唇は、まだ血の味がした。側にいて守ってやりたい。もしも今二人で逃げたら、俺達は幸せになれるか? 誰もお前を苦しめないところへ、お前をつれてゆけたら……
逃亡した捕虜に生きる道はねえ。日本が負ければ寿は殺される。日本が勝てば、俺は殺される。どちらが勝ったとしても、俺達は幸せにはなれねえ。
「彰、今日は俺、あんまり話せねえから、何か話してくれ。バスケットボールの話でも」
「おう。けっこう進んだぞ。あいつらとうとう球を作りやがった」
前回話せなかった分も含めて、俺は寿に話してやった。寿は目を輝かせながら、俺の話に聞き入っていた。籠球の話を聞いている寿はよく笑った。俺は嬉しかったけれど、その笑みの中に時々深い悲しみが混じるのを感じ取って、胸が締め付けられるような切なさをも味わった。やがて、寿はぼそっと言った。
「俺も仲間に入りたい」
どうにも出来ないことだった。俺だって寿を仲間に入れたい。寿と一緒に籠球がやりたい。
「彰、もしも平和になって、俺がちゃんと日本人になれたら、その時は俺も仲間に入れてくれるか?」
「ああ、もちろん。もしもそんな時が来たら、真っ先にお前を迎えに来る」
「早く戦争が終わればいい」
戦争は終わらないよ、寿。もう、全面戦争が始まることは決まっちまったんだ。俺とお前は一番最初に死ぬ。だから戦争が終わるときには、俺達はもういないんだ。
「彰、俺を立たせてくれ」
「この身体で立てるか」
「大丈夫だから、立たせて」
俺は寿の身体を支えて、立ち上がらせた。最初ちょっとふらついて俺を心配させたが、一度安定したらけっこうしっかりと立つことが出来た。支えようとする俺の手を降り払って、寿はにっこりと笑った。
「見てろよ、彰。これがドリブルだ」
見えない球をドリブルする寿。腰を落として小きざみに動く。俺にも判った。寿は俺に、一度も見たことのない籠球の動作を教えようとしているんだ。
「これがパス。……もう一度パスを受けて、ドリブルしながら、シュート!」
シュートの瞬間、時が止まった気がした。なんて綺麗な動作だろう。寿は、なんて綺麗にシュートを打つのだろう。
着地した寿は気力を使いはたして勢いよく壁にぶつかろうとした。俺はあわてて壁との間に割り込む。再び俺の腕に戻ってきた寿は息を切らしていた。寿の動作がまぶたに焼き付いてはなれなかった。
「捕虜じゃなかったら、バスケットボールの選手になりたかったんだ」
「ああ、最高に綺麗だった」
「死ぬ時は、彰の手で死にたい」
寿……お前も判っているのか? 知らされているのか? 国境が戦場になることを。
「約束してくれ、彰。俺を殺してくれると」
「ああ、約束する。お前は俺が殺す」
「指切りだ、彰」
「ああ……」
二人が出会ってから二度目の約束。守りたくない約束。約束が守られるとき、お前は死ぬのだから。
今度こそ最後かも知れないと、俺はありったけの想いを込めて、寿を抱きしめていた。
朝食が終わって、桜木がやっと籠球場の建設にかかれると腰を浮かせかけたとき、赤木大尉によって出鼻を挫かれていた。
「今日は武器の整備をやってもらう。これは命令だ」
「赤木大尉殿! 今日から籠球場を作っていいって……」
「終わってから作ればいい。早く始めれば早く終わるだろう。流川少尉と桜木少尉は長銃を十丁整備しろ。半分は銃剣にして、弾は千五百用意して運び出しておくように。判ったな」
「了解致しました」
「すぐにかかれ」
微妙な緊迫感に、二人は文句も言わずに作業に出かけた。奴らが出てゆくと、三人の間に何とも言えない空気が漂う。宮城も昨日聞いたはずだ。その宮城が、誰にともなく言った。
「とうとう始まりですか。長銃と銃剣と長剣。大砲が欲しいですね」
地雷と罠もあるぞ。役には立たねえだろうが。
「宮城少尉。貴様は武器庫に火薬を仕掛けてくれ。始まったときにすぐに爆破できるように」
「はい。承知いたしました」
「仙道中尉は無線当番を替わってくれ。俺は地雷を増やしてくる」
「了解しました」
「終わったらみんなで籠球場建設を手伝ってやろう。最後になるかもしれん」
籠球場建設の作業が、この世の最後の仕事になるかも知れない。
その日が来るのが出来るだけ遅くなりますように、俺は願わずにはいられなかった。
籠球場の建設と合わせて、俺はみんなに籠球の動作を教え始めていた。特に桜木と流川に集中的に教える。奴らは喜んで練習に励んでいた。教える俺も初心者だから、効率がいいとはどうしても言えなかった。
それでも、上達してゆく奴らを見るのは楽しかった。ドリブルもパスも、寿の動きに近づいてゆく。そうこうしているうちに、一つ目の得点籠が立った。奴らの練習項目に、シュートの練習が加わった。
「こう、調子をとってだな、膝で高く飛んで、飛んだ勢いで球を浮かせる感じだ。手で入れるんじゃなくて、膝で入れるような感じでやってみろ」
一度しか見たことのない寿の動きを脳裏に浮かべながら、目の前の二人の動きと重ねあわせる。何度やっても寿のような美しい動きは出来なかった。まあ、二日や三日でできるもんじゃねえだろう。綺麗だと思えるようなシュートが出来るようになるまでは、何万回も練習しないことには無理だ。
俺が休憩を言い渡すと、桜木と流川は二人で座って熱っぽく語り合っていた。とはいっても、話すのは桜木がほとんどで、流川は、ああとかふんとか、必要以上の事は話さない。このごろ二人はほとんど喧嘩をしなくなっていた。本当は気が合うのかも知れねえと、最近俺は思う。あり余る情熱をぶつけられる場所がなかったんだろう。
俺も休憩しながら、空き地の隅で二つ目の得点籠の製作に取り組んでいる宮城少尉のところへ行った。得点籠は、大きめの馬穴を分解して作る。手先の器用な宮城少尉は、何の苦もなく得点籠をこしらえていた。
「大喜びだな、二人は」
「ええ、あんだけ喜んでもらうと、作った甲斐がありますよ」
「あと一つはいつごろできるんだ?」
「そうですね。二日もあればできるんじゃねえですかい。材木は切ってあるからあとは組み立てるだけですから」
宮城は節度をわきまえた立派な軍人だった。名前のことで反発さえしなかったら、こんな所に回されることもなかっただろう。悔しくはないのだろうか。後悔は、ないのだろうか。
「宮城、どうして名前を変えなかった」
宮城は意外そうに俺を見た。そして、にやっと笑った。
「変わらなきゃならねえのはお偉方達の方で、俺じゃねえんですよ。名前が片仮名でどこが悪いってんですか。女の人ならたくさんいるじゃねえですか。ミキさんとかエリカさんとか。軍隊で禁止するなら、戸籍係から変えればいいんですよ。俺の名前は宮城リョータです。それ以上でもそれ以下でもねえんですよ」
昔、何かの折で聞いたことがある。宮城の両親はもういないのだと。生きていたら両親も辛かろう。自分の付けた名前のせいで、息子が早死にすると知って。
「あの人だってそうです」
「あの人?」
「赤木大尉です。あの人が回されてきたのだって、結局インディアンの血が原因でしょう? インディアンは元々ここの原住土着民です。日本人が勝手に占領して、日本の領土にして、彼らの名前を日本風に変えちまった。日本人がインディアンを日本人に仕立てあげたんです。それなのにどうして軍隊ではインディアンの血を認めないんですか。俺が今まで見て来た中でも、あの人ほど軍人らしい軍人は見たことねえ。あの人が出世したら、国にとっても宝になったはずです。……なにげない顔してますけど、悔しいと思いますよ。たぶん、俺達の中では一番」
だから抱かれたのか?
赤木大尉の悔しさを察したから。
どこか遠くを見つめる宮城少尉は、俺にはとても眩しく映った。芯の強さと生真面目さを持った頑固者。お前が真正面から見据えるものは、希望なのか、それとも絶望なのか……
「得点籠が完成したら、俺、流川にだけは話そうと思うんです」
「流川に?」
話すとは、全面戦争での俺達の行動のすべてを話すという意味だろう。俺は驚いていた。と同時に、改めてこの男の器量についてある種の感動を覚えていた。
「流川は頭のいい奴です。無口ですけど、必要以上のことは質問しねえし、理解するだけの頭はもってる。今は餓鬼ですけど、でかくなりますよ。桜木もある意味ではどでかい人間になるでしょうけどね」
本来なら上官の許可なしに作戦について話すなどという事はないだろう。だが、俺は何も言わなかった。状況はもうそういう段階を超えている。宮城も俺も、十七の男でしかないのだから。
「得点籠が作りおわったら、お前にも籠球を教えてやる。その視野の広さは宝だ。一流の選手になれる素質だよ」
「最高の夢ですね」
時間が欲しい。せめて、夢を実現できると錯覚できるくらいの時間が。
俺の欲する時間は今、刻一刻と失われつつあった。
扉へ 前へ 次へ