闇のオベリスク



 流川がいなくなって、洋平は自分の身体を調べてみた。そして闇に受けた胸の傷に原始的な処置が施されているのを知る。流れた血液は拭き取られ、きれいな布で抑えてあった。流川がした事に間違いはなかった。
 傷を治すためにはもっと光が必要だった。しかし洋平の中に残る光は、傷を完全に治すほどの量は蓄えられてはいなかった。それどころか生命活動を維持することでその量はどんどん少なくなっている。新しい光を体内に呼び込まなければならなかった。
 洋平は空腹だった。光の物質を食物として摂取して、生命維持のエネルギーに変換しなければならなかった。しかしこの闇の世界に光の生命を求めることは不可能である。せめて光の仲間が一人でもいたら、一緒に考えることができるのに。
 空腹を忘れるため、そして少しでも体力を回復させるために、洋平は眠りについた。そうして再び目を覚ましたとき、ベッドの縁に流川が腰掛けて洋平を見つめていたのである。
 洋平は先程の会話がどのように終わったのかを思い出して少し狼狽えていた。しかし流川は無表情で洋平を見つめ、無言で何かを差し出した。手に取って見る。洋平の表情は和らいでいた。
「光だ……」
 それは小さな薄桃色の花だった。心を和ませる名もない雑草。流川が採ってきた小さな植物は、洋平には可憐で美しい花に見えたのだ。
「光の花だ。流川、こいつはどこにあったんだ?」
「闇のオベリスクの反対側の極だ。だけどこいつは光の植物じゃねえ。闇の植物だ」
 そう言われてみれば確かに光の植物ほど光を含有してはいなかった。しかし僅かながらこの植物は光を含んでいる。その光は洋平の光とは微妙に違っていた。本来闇と光とは相殺し合うもの。同じ物質の中に両方が存在することはできないのだ。
「どうして闇の植物の中に光があるんだ?」
 その質問に、流川は答えなかった。洋平も質問の答えを期待してはいなかった。質問というより、独り言に近かった。
 流川が再び何かを差し出す気配に、洋平は我に返った。流川が手にしていたのは洋平には見慣れたものだった。驚き、まさかと思ってひったくるようにして受け取った。それは、光のもの達がよく身につける護符の一つだったのだ。
「流川、これ!」
「光のものの死骸が持ってた」
 一瞬、生きている仲間がいるのだと思った。しかし死骸という流川の言葉が、洋平の思考をあらぬ方向へ向けていた。自分がどういう存在か、目の前の流川がどういう存在か、洋平は忘れた。忘れて流川に掴みかかっていた。
「お前、そいつのこと殺したのか! 殺して奪ったのか!」
 闇の流川に触れた手は光と闇が喰い合い、チリチリと痛んだ。それは金属に触れた瞬間発生する静電気の痛みが一瞬に留まらず継続し続けているような、そんな痛みだった。答えない流川の無表情が更に洋平を逆上させた。掴みあげた胸倉を突き放し、拳で頬を殴り飛ばしていた。
「答えろよ! 殺したのか? 殺してねえのか? 答えなけりゃ判らねえんだよ!」
 殴られた方の流川は、確かに痛みを感じたはずなのに、然したる反応は示さなかった。頬を押さえるでもなく、無表情に洋平の様子を見つめていた。思いがけず殴ってしまった方の洋平は、殴ったことで少し冷静さを取り戻していた。相手が闇の世界の王であることを思い出して、気持ちを引き締めていた。流川が短気な王ならば今すぐに洋平を殺してしまうこともありうるのだ。
 しかし流川が口にしたのは、洋平が予想もしなかった言葉だったのだ。
「洋平、どうしてお前は声の大きさが変わる」
 洋平はあっけにとられて何も言えなかった。その沈黙は数秒間続いた。再び口を開いたのは流川の方だった。
「お前の声は前はもっと小さかった。だけど今の声は大きかった。前はもっと遠くにいて、今はすげえ近くにいたじゃねえか。近くにいるのになんで大きい声になるんだ。それに言葉が速かった。なんで言葉の速さを変えるんだ」
 洋平は答えることができなかった。答えは簡単なのだ。洋平は今は逆上して感情が高ぶっていたから、声の調子が変わったのである。しかしそれすら理解できない流川に、いったいどう答えればいいのか。流川は感情が高ぶると声が変わることを知らないのだから。
 少しだけ理解できた気がした。流川の沈黙の意味を。流川が何も答えず黙り込んでいた意味を。あれはこういうことだったのだ。どう答えていいか判らないから、流川は黙っていたのだ。
「流川、お前には感情がねえのか?」
 イエスかノーか、それすら流川には答えることができなかった。流川は感情を理解していない。流川は感情も、その言葉の意味も、理解できないのだ。
「オレはお前が助けてくれたことが嬉しかった。その、嬉しいって気持ちが感情だ。嬉しいは判らねえか?」
 沈黙。
「お前がオレの仲間を殺したと思った。殺したのが悔しかったから怒った。オレが怒ったのも判らなかったか?」
 沈黙。
「光の種族は、怒ると声が大きくなって、言葉が速くなるんだ。顔も変わる。オレの顔、変わってただろ?」
「変わってねえ。お前はずっと洋平だった」
 流川の答えがおかしくて、洋平はやっと顔の筋肉をゆるめていた。それは不思議な感情だった。目の前の流川はまるでロボットのようだった。感情のない、感情の理解できない生物。初めて流川のことを理解した。それが洋平には一番嬉しいことだったのだ。
 もっと判り合えるような気がした。流川は流川で、一生懸命洋平を理解しようとしているのだから。
「お前はこの護符を持ってた奴を殺したのか?」
 流川は答えなかった。だから洋平は質問を変えた。さっき流川が洋平に対して質問を変えたように。
「これを持ってた奴はどうして死んだんだ?」
 沈黙。
「お前がこれを持ってた奴を見つけたとき、そいつはどうしてた?」
「死んでた。死骸は闇のものに喰われたあとだった」
「それじゃ、こいつを喰った闇のものがこいつを殺したのか?」
 流川は答えなかった。だが、洋平には次なる質問を思いつくことができなかった。お互いにしばらくの沈黙が続いたあと、声を出したのは流川の方だった。
「殺した、は何だ」
 その質問に、洋平はやっと理解していた。流川が判らなかったのは、殺すという言葉の意味だったのだ。それは流川の中にその行為が存在しないことを意味する。流川だけでなく、闇のもの達すべての中に。
「判らねえなら知らなくてもいい。……光のものを喰った奴は、光のものが死んだあと、そいつを喰ったんだな」
「そうだ。生きてるものを喰う闇のものはいねえ」
 そして、生きているものを殺して死んだあと食べることも、きっとないのだ。自分が生きるためにほかの生き物を殺すことは、闇の世界には存在しないのだ。純粋な世界。それは神が描く理想郷のように。
「殴ったりして悪かった。オレの誤解だった。許してほしい」
「オレは怪我はしてねえ。だけどあんま動くとお前の怪我がひどくなる」
 泣きたくなった。この優しい生き物に触れて。流川に自分の感情を理解してほしいと思う。だが、感情などない方が、生き物は優しくいられるのかもしれない。
「ありがとう、流川。これは光の護符だ。気休めでしかねえけど、少しだけ闇を払う力がある。怪我を治す力になるはずだ」
 だけどおそらく失った光の力の代わりにはならない。洋平も流川もそのことを感じていた。だが何も言わず、しばし互いを見つめ続けていた。

 洋平が眠れば流川はオベリスクを離れ、様々な場所を飛び回っていた。睡眠は心のケアのために存在する。感情を持たない闇のもの達には、睡眠は必要なかった。
 光のもの達がどの程度生き残っているのか、流川には判らなかった。闇の森がどの程度光のもの達に影響を与えるかも判らなかった。そのデータを集めるつもりだった。そしてもしも流川一人で助けられる光のものがいるのならば、できる限り助けたいとも思っていた。
 オベリスクの周囲を取り巻く闇の森の中には、既に生きている光のもの達はいなかった。そのすべてが闇のものに喰われた残骸である。流川は近づき、そのものが護符を持っていれば外して集めて回った。流川が持ってもほとんど光の力を感じない、気休めでしかなかったけれど。
 森を出た草原に一人の光のものが倒れていた。ほとんど息はなく、近くに闇の住人がいて光のものが死ぬのを待っていた。流川が見ている前で、やがて光のものは息を引き取り、身体の中から魂が抜け出てゆく。その光の魂は、新しく生まれた光のものの魂を喰う闇のものに喰われて消滅していった。魂の抜けた身体には、やがていくつかの闇のものが群がり、その身体に喰らいついて光のものの姿を隠していった。
 流川は諦め同じ草原のもっとオベリスクから離れた場所に向かっていった。そこにはたどたどしい足取りで必死にオベリスクから遠ざかろうとしている光のものがいた。流川はすとんと地上に降り立ち、その光のものを見つめていた。やがて気配を感じた光のものは、振り返って驚きの表情を浮かべた。
「だ……だれだ!」
「闇の王、流川」
「ひ……」
 光のものの顔は引きつりその表情は驚愕を示していた。腰を抜かしてなおも後ずさろうとする。怪我はしていなかったが弱っているのは明らかであるから、流川は洋平に施したと同じように、そのものの身体から闇を払おうと手を伸ばしていった。そうすれば少しは長く生きることができるだろう。しかし光のものは護符を握り締めてほとんど悲鳴のような声で言ったのである。
「か、神よお助けください。この穢れた生き物から我をお守りください」
 流川は構わずに闇の呪文を唱える。そのものの身体の中の闇を、手元に引き寄せるために。
「ひーっ! よ……よるな化けもの!」
 光のものは明らかに自分の身体が軽くなったのを自覚したはずである。不意に不思議そうな表情になったかと思うと、すぐさま脱兎のごとく駆け出していった。神への感謝の言葉を叫びながら。
 流川はまた別の場所に飛んだ。そこは砂漠のような荒れ果てた場所だった。光のものの一人が長剣を杖にして広い砂漠を歩き続けている。流川が背後から近づくと、光のものは身を翻して長剣を抜き放っていた。
「貴様、なにもの」
「闇の王、流川」
「闇の王だろうが何だろうが簡単に殺される訳にはいかねえ。覚悟!」
 そう言ったかと思うと光のものは流川に襲いかかってきた。その長剣のすばやい動きは、流川の身体を切り裂いた。肩口から血液が溢れ出し始める。流川は癒しの呪文を使って、傷を塞がなければならなかった。
 流川はまた別の場所に飛んだ。それは小さな川の近くだった。一人の光のものが正しく座って身体を休めている。そのものは長剣は持ってはいなかった。だが、短剣を握り締めていた。
「何をしている」
 振り返ったその顔に既に生気はなかった。しかし流川の姿を見て、小きざみに震え始めていた。
「誰……」
「闇の王、流川」
「……神よお許しください」
 そう言ったかと思うと光のものは短剣を首筋に当てて引いた。次の瞬間血柱が立って光のものは絶命していた。その場に倒れて動かなくなる。護符は血にまみれて流川は持って帰るのを諦めなければならなかった。
 闇の王流川にとって光のもの達の行動は全て理解できないものだった。

 眠っている洋平のベッドに腰掛けて、流川は洋平の顔を見つめ続けていた。眠っている洋平の身体からは、あまり光の放射がみられなかった。その光が全て消えたとき、洋平の命も潰える。光のものの死を見てきた流川は、そのことを理解することができていた。
 すぐにでも死んでしまいそうだった。洋平が死ねば、光のものの魂を喰う闇のものがすぐにやって来る。そして、光のものの死骸を喰う闇のものが、群がるようにやって来る。そうなれば洋平の身体はすぐに喰い尽くされて、ただの残骸になるだろう。それは誰しも同じことだった。闇の王流川でさえ、死からは逃れられないのだ。
 流川は洋平の目が覚めるのを待っていた。そして、洋平の光の放射が大きくなり、やがて目覚めたとき、集めた護符を差し出し手渡したのだ。
「流川、これ……」
「光のものの死骸が持ってた護符だ」
「こんなにたくさん死んでるのか?」
「もっと死んでる。持ってこれないのは置いてきたし、持ってねえ奴もいた」
「……だろうな」
 洋平は護符を持ってはいなかった。持っていても持っていなくても死ぬときは死ぬ。喩え流川がたくさんの護符を集めてきても、洋平だって死ぬときは死ぬのだ。
「洋平、どうして光のものは自分で死ぬんだ」
 洋平は顔を上げて流川を見た。自殺は、自分を殺すこと。人を殺すことすらしない闇のもの達に、自分を殺すことをどう理解させろというのか。それよりも、流川の前で誰が自殺なんかしたのだろう。
「誰か、自分で死んだ奴がいたのか?」
「首を何かで切った。たくさんの血が出て、すぐに死んだ。光のものはみんなああやって自分で死ぬのか? お前も自分で死ぬのか?」
 流川の言葉を聞きながら、洋平はだんだん悲しくなっていった。どうして自分は流川に自殺の説明などしなければならないのだろう。どうしてそんなことを教えなければならないのか。そんなことは知らなくてもいいことで、知らない方が幸せなことなのかもしれないのに。闇のもの達は、自殺の醜さなどひとかけらも持ってはいなかったというのに。
 このまま光のもの達は闇のもの達を穢し続けてゆくのだろうか。
「……光のものは、痛みとか苦しみとか、そういうものに耐えられなくなるんだ。身体が耐えられなくなれば死んでしまうけど、それよりも先に心の方が耐えられなくなる時がある。これ以上生きていたくないと思っちまうんだ。……感情が光のものを弱くしてる。生きているものが自分で死ぬことなんか、本当はできねえはずなのに」
 その洋平の説明を、流川は理解しなかった。理解しないでくれたことに、洋平はほっとしていた。洋平は生きていたい光の種族だった。身体が耐えられなくなるその瞬間まで、生きる事をやめない光の種族だった。
「どうして同じ光のものなのに洋平とそいつは違うんだ。ほかの光のものも洋平とは違ってた。なんでおんなじ姿をしててそんなに違う」
 洋平が答えないでいると、流川は自分の言葉を補足した。
「お前はオレが名乗ったとき、自分も名乗った。だけどほかの光のものはオレが名乗ったら自分の身体を切ったりオレの身体を切ったりした。洋平はそんなことしなかったじゃねえか」
「……お前の身体を切ったのか? どこを切った!」
 洋平は叫んで流川の身体に取り付いていた。確かめないではいられなかった。流川がどこを切られたのか、その傷はどれほどのもので、命に別状はないのか。冷静に考えれば、流川は闇の王でここは闇のオベリスクであるのだから、癒しの呪文でその傷はほとんど治っているはずなのだ。だが今、洋平は冷静さを失っていた。流川の身体が傷つけられたことで、逆上していたのだ。
「ここだ。でももう傷はねえ」
 マントをずらして、流川は傷があったと思われる場所を洋平に指し示した。肩口には既に傷はなかった。ない傷を夢中でさがしていた洋平は、やがて本当に傷がないことが判ると明らかにほっとした様子で息を吐いた。そして、相も変わらず無表情に見つめる流川の視線と合って、顔を赤くしていた。
「治ったんだな」
「このくらいの傷ならすぐに治る。たいして痛くもねえ」
「悪かった、ほんとに」
 流川を傷つけたのは、光のものだった。それは洋平の仲間で、洋平は流川を傷つけた光のものの仲間なのだ。洋平だって流川を傷つけたかもしれない。あのとき、流川と会ったあのとき、洋平が怪我をしておらず、長剣を持っていたなら、洋平だって切りかかったかもしれないのだ。出会ったばかりのあのときは知らなかったのだから。闇の生き物が光の生き物よりずっと優しく純粋で、神の倫理に近いのだと。
「流川、オレ達光のものは、闇のもの達にとっては悪いものかもしれねえ。お前の身体を傷つけたり、あまりよくないことを教えたりする。……なあ、流川、お前はどうしてオレのことを助けた? どうしてオレを助けたんだ?」
 返事に何かを期待した訳ではなかった。
「洋平が生きようとしてたからだ。生きてるものは必ず生きようとするからだ」
 だけどその答えを聞いたとき、洋平は胸の奥に重苦しい何かを意識していた。流川の言葉に傷つけられた何かが心の中にあることを知った。初めて出会ったのが洋平でも、洋平でないほかの光のものでも、流川は同じだった。感情を持たない、純粋に美しい闇の王。
「もしもお前がほんの少し気分を変えて別の方向に行ってたら、オレ達は出会うこともなかったんだな」
 もし、今目の前にいるのが洋平でなかったのだとしたら。
 その仮説は、流川にとってどう考えていいか判らないような、複雑な命題だった。


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