闇のオベリスク
闇の力が及ばない場所で飛び続けることに、流川はある程度慣れてきていた。闇は闇の王流川のもとに集まる。普段闇のオベリスクに棲む流川はその力をあまり意識したことはなかったが、闇の力の希薄な場所で流川が闇を呼んだとき、闇は忠実に王の命令に従った。そうして希薄な闇を集めて流川は飛んだ。オベリスクのちょうど反対側の、極の場所へ。
そこには一本の大きな樹木が聳えていた。まるで闇のオベリスクと対を成すように。そしてその樹木の下に集まっているもの達がいる。ほんの十数人程度だったが、それは間違いなく光のもの達だった。
星のほぼ全域に散らばった光のもの達。彼らはみな光を求めてこの極に集まってきていたのだ。
太陽の光が燦々と降り注いでいる。太陽に育まれた闇の植物達が小さな花を咲かせている。この樹木の回りに限っては、闇はその力を及ぼしてはいなかったのだ。闇の植物なのに闇の力を感じなかった。まるでここは光のもの達のために用意されたような場所。洋平が唯一、生きることのできる場所。
ここに洋平をつれてくればいいのだと、流川は思った。そうすれば洋平は生き延びられるのだ。回りに光の仲間達がいれば、洋平の傷もすぐに癒えるだろう。光の癒しを行えるものもいるかもしれない。どちらにせよ、光の仲間とあることが、洋平にとって一番生きる確率が高いということなのだ。
集まった光のもの達に会わない場所で、流川は植物をひと房採った。そしてそのままオベリスクに向かって飛んでゆく。徐々に心地よい闇が周囲を覆い始め、流川の身体に力を授けいった。地上を歩く光のもの達は、全て光の極の場所へと向かっていた。見下ろしながら、その存在を洋平に知らせてすぐに連れてゆこうと思っていた。
洋平のための部屋の、洋平のためのベッドに腰掛けて、流川は目覚めを待っていた。長い時間を待って洋平が目覚めたとき、流川は真っ先に洋平に植物を手渡していた。
「光の花。……ありがとう、流川」
太陽の光をたっぷり吸った光の花。だが、洋平はそれが光の花だからでなく、流川が持ってきた花であることが嬉しかった。
「光じゃねえ。闇の植物だ」
「前にも言ったな。だけどこの花には闇の力は感じねえよ」
「闇のねえところで育ったからだ。この植物は太陽で育ったんだ」
「この世界にも闇のねえところがあんのか?」
「闇は闇のオベリスクが集めてる。闇のオベリスクの力は反対側の極までは届かねえ。だからそこには闇はねえんだ」
「だったらそこになら光の住人も住めるかもしれねえんだ」
明るい、太陽の光。広がる草原の心地よい風と、揺れる季節の花達。洋平はどの位光を見ていないだろう。温かい大気を感じていないだろう。
既に遠い感触だった。光の世界は、忘れてしまいそうなほど、遠い世界だった。
「そこにお前を連れていく」
その流川の言葉が、白昼夢の洋平を我に返らせた。光の極に行くことは、この闇のオベリスクを離れること。闇のオベリスクを離れることは、流川と離れること。
闇の王流川のそばにいられなくなるということ。
「何で……」
「光の住人が集まってた。だからお前は一人じゃねえ。そこに行けばお前の怪我も癒してもらえる。そうすればお前は生きられる」
仲間と会える。だけど、流川と会えなくなる。永久に。
「お前を光の極に連れて行ったら、オレはもっと闇を集める。オベリスクの力と闇の王の力で闇を集めれば、闇がない場所はもっと広くなる。そうすれば今極に向かって歩いてる奴らも闇の影響を受けなくなるから助かる確率が上がる。もし、そのまま闇を閉じ込められたら、この星は光と闇が半分ずつの世界になる」
流川の語る世界像は、洋平に衝撃をもたらしていた。流川は今ある闇の世界を半分にして、光と共存できる世界にしようとしているのだ。どうしてこんなに純粋なのだろう。ただ生きたいという欲望のままにこの世界を目指してやってきた異質なもの達のために、自らが今まで築いてきた世界を半分明け渡そうというのだから。
今はっきりと、洋平は理解していた。この世界にやってきたあのとき、自分があんなにも生き延びたがっていたのはどうしてなのか。なぜ闇の世界で苦しみ喘ぎながらも、命を断つことができなかったのか。
洋平は、流川と出会いたかったのだ。
そして最期の時まで、流川とともに過ごしたかった。それが洋平が闇のオベリスクに辿り着いた本当の理由。自分に死ぬことを許せなかった、ただ一つの理由。
なぜなら、今なら許せるのだ。自分が流川のもとで滅びてゆくことを。
「オレは行かねえよ」
洋平の言葉に、流川は沈黙で答えた。生きているものは必ず生きたいと願う。その前提に当てはまらない洋平の言葉は、流川には理解できないものだった。
「オレはオレ自身が光を失って死ぬときまで、お前の側にいてお前のすることを見守ってる。それがオレの命だ。だから光の極には行けねえ」
「闇のオベリスクは闇の集まるところだ。光は集まらねえ。光がなけりゃ洋平は死ぬ。ここにいてもお前は生きられねえんだ」
「闇のオベリスクでもほかの場所でも、流川がいるところにオレはいたい。流川、お前は光の極じゃ生きられねえだろ? だからオレが闇のオベリスクにいるんだ」
行動の選択は、自分が生きるために最善であることを基準に成されるべきだった。それまで流川が洋平をオベリスクの中で守り続けていたのは、流川が闇を払っている状態が洋平にとって最善だったからだ。しかし流川はそれよりも更に生きる確率の高い方法を見つけた。生きるために最善であることを基準とするなら、洋平と流川の意見が違うことはありえないはずだった。
二人の意見を隔てるのは、感情という名前の不思議なもの。洋平の中にある、理解不可能なものだった。
「お前も自分で死ぬのか?」
感情が光のものを弱くするのだと言った。あの時それを理解することはできなかったのだ。
「お前には区別がつかねえかもしれねえな。だけど、感情がオレを弱くした訳じゃねえ。……オレは流川に出会って、闇の住人の正しさを知った。光の住人に間違いがあることも判った。それを踏まえて、オレがしなければならないのは、流川と一緒にいることだって判ったんだ。オレの中の感情がそれをオレに教えた。そして、オレの中の感情は、オレに正しい道を歩く勇気をくれた。オレの中の感情がオレを強くしたんだ。
オレは生きてる。これからも生きてる。お前の側で生きるから、オレが生きる意味があるんだ」
その洋平の言葉を、流川は理解しなかった。流川にとっての生きる意味は、今生きているということだった。そしてこれから先も生きていくために何をすればいいかということだった。
光の生き物は理解不可能。言葉は通じるのに、流川と同じ姿をしているのに、異形の闇の生き物達よりももっと判らない存在達。
闇の星は彼らを受け入れたのだ。この闇の世界に必要なものとして。
「感情を持つと生き物は複雑になる。これから先、感情を持った闇のもの達が生まれるのかもしれねえ」
その流川の言葉を受けて洋平は知った。流川が洋平の意志を尊重して、流川の側で生きることを許してくれたのだと。感情によって光のものが強くなり、生きる意味を見い出しより近い死というものに向かって生きるその生き方を、理解できないながらも認めてくれたのだと。
洋平は位置を変え、ゆっくりと流川に近づいていった。そして首に腕を絡ませ、唇を重ねた。前に触れたときほど痛みは感じなかった。緩やかに流れる時間の感触を確かめるように、流川の唇を確かめていた。
闇の王に、光の存在である自分が誇れるものが、たった一つだけある。内臓を流れる血液がそこで生まれた想いを隅々にまで伝え、やがて肉体の構造さえも変える。それは感情を持つものだけに許された営み。ただ、互いと一つになるために。
やや長めのキスの間、流川は動くことをしなかった。自らの体内に蓄積された闇の放出を最小限に留める努力を続けた。洋平ができるだけ光を失わないように。残された洋平の時間を、一秒でも長く保つために。
やがて唇が離れ互いの視線が絡み合う。見つめたまま、流川は言った。
「どうして唇を触れる」
僅かな痛みを感じながらも、洋平は絡めた腕を放そうとはしなかった。
「それがお前に判ったらいい。いつか……」
光と闇の相容れぬもの達。感じる痛みは罪の証なのかもしれない。相殺し合い食い合う資質。痛みが弱まってきているのは、洋平の中にある光の粒子が少なくなっているためだった。
洋平はいつまでも痛みを感じていた。流れ落ちる砂が残してゆく痛みを。
闇は闇の王の命令に忠実にしたがって、流川の身体に力を与え続けていた。オベリスクの最上階に近いフロアに設えられた祭壇の中央、台座に据えられた黒水晶に向かって、流川は集めた闇の力を注ぎ続けた。それは流川の頭ほどの大きさを持つ球体。黒水晶は、際限なく流川の闇を受け取り続けていた。
流川が闇を呼ぶのは、本来ならその力を何かに使うためだった。その体内で使われない闇を集めるには、おのずと限界がある。飽和量に達した闇の力を更に集めるため、黒水晶はその受け皿の役目をするのである。身体の周囲の闇を流川が集めその密度が薄くなれば、オベリスクが闇の密度を回復させるために周辺の闇の森から闇を集める。風はオベリスクに向かって吹き付け、周囲の闇を呼び込んでゆく。
もしもこの星を衛生軌道上から眺めるものがいたとしたら、まるで暗雲がオベリスクに吸い込まれ、反対側に太陽の光が満ちて光の世界が広がってゆく様子が克明に見えたことだろうう。
フロアの隅、流川の背後に座って、洋平はその様子をずっと見つめ続けていた。力を集める作業に集中する流川は、洋平の身体の回りを闇の真空状態に保つことができなくなっていた。やがて呪文の効力が切れ洋平の身体の回りにも闇が吹き付け始める。それでも洋平は見つめていた。体内を通過してゆく無数の闇が生み出す痛みに耐え続けながら。
星の有様が変わってゆく。その歴史的な事実を目の当たりにしている。
星全体が光の住人達を受け入れるために変化してゆく。それは闇の王と呼ばれる尊い存在によって。やがて光の住人達はここを新しい故郷として根付いてゆくだろう。子孫を増やし領土を拡大して繁栄の一途を辿るのだ。その出発点に、洋平はいた。その先の変化を自分の目で確かめることはできなかったけれど。
何が正しいのかを知ることなどできない。
闇の住人達を闇の領土へと追い立て光の繁栄を築くことが本当に正しいことなのか。光の世界はあの日消滅した。この一歩が、闇の世界の滅びの始まりなのかもしれない。いつか光の住人達は滅ぼしてしまうのかもしれない。優しい闇の生き物達にとって、今日が滅びの始まりの日なのかもしれない。
流川は、いつか後悔するのだろうか。光の生き物を受け入れた自分を。そしてそのために尽力した、今日の日のことを。
とても長い時間だった。洋平も自分の身体の限界を感じ始めていた。もしも自分がこのまま闇に喰い尽くされるのだとしても、流川を煩わせることだけはすまいと思った。息をひそめて見守り続けていたとき、流川は呪文をやめ、闇の風が吹き止んだのである。
「……終わったのか? 流川」
振り返って歩み寄る流川に、洋平は言った。その身体はもう座っていることすらできないほど、消耗され尽くしていた。
「黒水晶が閉じ込められる闇が限界を超えた。星の闇の半分は吸収しきれなかったはずだ。もっと耐えられるかと思った」
「……たぶんいいんだ、それで……」
この星の自然と黒水晶が決めた境界線。世界の意志に従った割合こそが、一番自然であるということなのだから。
流川は洋平の身体を抱き寄せ、闇の痕跡を払おうとしていた。しかし傷の部分から喰い破った闇はすでに洋平の身体の機能を支配していた。このまま闇を払えば洋平はその衝撃で死の瞬間を迎えるだろう。闇の王である流川には、もう手のほどこしようはなかった。
「疲れたんじゃ、ねえ……?」
「闇が身体を通り抜けるときは疲れねえ。オレは闇が少なくなったときに疲れる」
「……なら、頼みがある……」
オベリスクの高い場所から、闇の世界を見たいと、洋平は言った。洋平の身体を抱き上げた流川は、オベリスクの外壁の近くで闇の呪文を唱えた。見る間に外壁は透過し、眼下に暗闇が広がっていった。周囲を守る闇の森は下方遥かにぼやけて見え、遠くに草原、更に向こうに砂漠が広がっている。
その景色を、洋平は美しいと思った。光と対極の美しさがある。目の前の闇の王が、闇の美しさを備えて黒水晶に溶けるように。
「オレは、次に生まれるときは、闇の生き物になる。……ずっと、世界が終わるときまで、お前といられるように……」
洋平の最期の光は燃え尽き輝きを失っていった。その命には、明日への執着も、後悔もなかった。
洋平の肉体から離れた光の魂が、中空へと上ってゆく。
そしてどこからか現われた闇のものが洋平の魂を喰うために近づいてくる。
流川には見ることができる光景。闇に生まれたものだけが、闇のものに喰われる魂の行方を知る。
その自然の営みを、流川は阻んでいた。その絶大なる闇の力をもって。
「闇の王流川の名に於いて命ずる。この光の魂を喰うことは許さない」
闇のものは明らかに怯んでいた。そして流川を畏れた。闇を操る闇の王に逆らうことは、闇に生まれたものには不可能だった。
洋平の肉体を喰いに現われた闇のものも、流川に阻まれていた。そうして再び静寂を取り戻したオベリスクの中で、流川は洋平の身体に闇の呪文を唱え始めていた。
光の痕跡の消えた身体に、闇の力を注いでゆく。
組織の一つ一つ、細胞の一つ一つに闇の洗礼を与える。魂の抜けた身体を再生してゆく。闇に属する身体へと変えてゆく。少しずつ、確実に。
漂う魂は呼応するように変質していった。光の肉体を失い闇に染まった身体に再び戻るために。
そして二つの洋平は一つに結び合わされる。闇の肉体と闇の魂を持って、かつて洋平であったものは生まれ変わり、闇のものとなったのだ。
最期の望みだった。光を失う直前、洋平が願った最期の願いだった。
「お前は、新しく生まれた」
流川の呼び声に、新しく生まれた闇のものは目を開けた。漆黒の、宇宙を溶かし込んだかのような双の瞳。
「オレは……誰だ。お前は……」
瞳は光の痕跡を残してはいなかった。生まれつき表情を持たない新しいものは、洋平の顔をしていてもすでに洋平ではなかった。光の資質のないもの。それは、新しく生まれた闇の住人。
「オレは闇の王流川。その名に於いて、お前に名を与える」
闇の王は感情を持たなかった。だから判らなかった。今自分の中にある不思議な想いの名前が。
「お前の名は水戸。感情を糧にする闇のもの」
「感情は、どこにある」
「かつてはお前の中に」
流川は洋平を引き寄せ、その唇に自らの唇を押し当てていた。闇に生まれたものには、その行為が何を意味するのか、知ることはできない。
「どうして唇を触れる?」
唇に痛みはなかった。
「それが、オレに判ったらいい」
唇の代わりに胸が痛むこと。いつかその理由が、流川に判るときがくればいい。洋平が本当に願ったものが何なのか、どのくらい時間をかけたら、流川に判るのだろう。
それが判ったとき、生きる世界を変えたことに対する後悔が生まれるのかもしれない。
闇のオベリスクが見守り続けている。
了
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