闇のオベリスク



 その世界は、いつも密度の濃い闇に閉ざされていた。
 重くねっとりとした質感を持つ空気が覆い、逢う魔が刻に見られるあの独特の暗さを絶えず保っている。森の木々はいつも揺れ、中央に聳える黒曜石のオベリスクを取り巻いて守りの樹海を形作る。下生えは厚く他のものの侵入を阻むように複雑に絡み合っている。すべての生き物は闇によってその形を与えられている。
 そこに光はなかった。ただ辛うじて辺りの様子が判るのは、闇の密度が均等でないからだった。風が動く時その流れによって闇を動かし、それまで闇のあったところに別の闇を運んでくる。その空気の移動が闇の密度を微妙に変えてゆく。まるで風が木々を揺らし、木洩れ日を動かし煌めかせるように。
 初めて見る世界だった。命がけで洋平が辿り着いた世界は、光が存在することすらできない信じられないような世界だった。
「……うぅ……はあっ……グッ!」
 息を吸うごとに周囲の闇が身体の中に入り込み侵食してゆく。胸に受けた傷からは命の源がたえまなく流れ出してゆく。そして同じ場所にじわじわと闇の粒子が触れ光の痕跡と合わさって消滅する。洋平の身体に蓄積されていた光が、闇に食われて無に還ってゆく。
 どうしてこんなところに来てしまったのだろう。激しい痛みと苦しみの中で、洋平は自問した。それまで暮らしてきた光に満ち溢れた光の世界。それは消滅したのだ。世界とともに自らも滅びるべきではなかったのだろうか。こんな苦しみに晒され僅かに生き存えるより、あのとき死を選ぶべきではなかったのだろうか。
 闇の空気が苦しい。闇を追い出したくて深い呼吸をするのに、それはただ新たな闇を身体の中に呼び込んでしまうだけだった。こんなに異質な世界で生きることなどできないだろう。そんなことは判っていた。この世界に来る前から判っていたのだ。
 それでも洋平はここに来た。世界とともに滅びたくなかった。少しでも望みがあるならば、生きることを諦めたくはなかったから。その気持ちは今でも変わらない。問われれば答えるだろう。自分は一瞬の死よりも苦しみの中の生を選ぶと。
 生きたい。一秒でも長く。自分が生きていること、生者の世界に留まっていることを実感していたい。
「何をしている」
 ふいに、洋平は声を聞いた。反射的に振り返りながら心に驚きと、頭に様々なことを浮かべる。光の世界からの脱出のあの時、洋平のほかにも多くの光の住人がこの世界を目指して飛び立った。辿り着いた時、いつの間にか洋平は一人になっていたが、脱出した仲間の数パーセント程度は無事にここに辿り着いたはずだった。近くに誰かいたのだ。そしてその仲間は洋平のような怪我はせず、ほかの仲間を求めて彷徨っていた。この声はその仲間に違いない。声をかけたものの姿が目に入るまでのほんの半瞬ほどの間に頭は巡り、その姿を認めるまで、期待はこれ以上にないほどに膨らんでいた。
 しかし洋平が目にしたのは、洋平が期待したものとはことのほか違っていた。洋平は半ば呆然とその姿を見つめたのである。
「……てめえ、だれだ……」
 漆黒の髪、漆黒の衣。目に入った一瞬洋平は、その姿にまるで闇がそのまま凝り固まって形となったかのような、そんな錯覚を覚えていた。長身を漆黒のマントに包んだ、闇そのもののような姿。洋平が知る光の住人とは明らかに様相を異にしていた。瞳に驚愕の表情を浮かべる。これは闇の住人。それは間違いないと洋平は確信した。
 目の前の生き物はそんな洋平の考えを裏付けるように答えた。
「流川。闇の王」
 洋平はその時痛みを忘れていた。驚きの方が勝ったのだ。未知の世界の未知の生命体。それが闇に棲む生命であるというだけで、光の住人である洋平の心の中には恐怖が沸き上がっていた。しかしこの時の洋平の好奇心は恐怖を凌いだ。恐ろしさよりも興味が勝ったのである。
「王……? 支配者か……?」
 未知の世界の未知の生命。その闇の生命が知的な社会を作り上げているかもしれないという事実だけに、洋平は震えた。洋平の問いに闇の王は答えなかった。表情のない瞳でしばらくの間洋平の身体を見つめているだけだった。
 胸の傷からじわじわと染み出した赤い血液が、洋平の衣を緋色に染める。それは二人の間に存在する闇を透過して、闇の王流川の目に鮮やかさを失いどす黒くさえ見えたことだろう。
「怪我をしているのか」
 洋平が反応するまもなく、闇の王流川は片手を伸ばして洋平に近づいていった。そして洋平の言葉を待たずに口の中で怪しい呪文を唱える。その時洋平は自分に何が起こったのかはっきり理解することができなかった。体内で闇が爆発したような気がした。
「グガッ……!」
 耐えられる限界を越えるかと思うような痛みだった。流川の手の先から注がれた闇の力は、洋平の身体の内部を傷つけ、痙攣させた。呼吸も止まるような衝撃。転がりのた打ち回らずにはいられなかった。
 これが癒しであることを信じていいのかどうか洋平は判らなかった。闇の王流川が悪意を持って洋平を殺そうとしているのかもしれない。その可能性の方が高いと、痛みにそのほとんどを征服された脳細胞の片隅で洋平は踏んでいた。しかし洋平はこの行為が流川の善意であることの方を信じたかった。悪意を信じたら、その時点で洋平が生きる可能性は断たれるのだから。
「……闇の……王……」
 洋平が喘ぎながらもようやく振り仰いだ流川の目に表情はない。その顔を見ただけでは、流川の今の行為を善と信じていいかは判らなかった。
「もしも……もしもあんたにできるってんなら……」
 だけど信じたかった。
「……オレの身体から闇の気配を払ってくれ。……オレは洋平。光の種……族……」
 光の種族であることを告げれば、悪意がなく知的な種族であれば闇がどれほど洋平にとって許されない力であるのか理解することができるだろう。そう、これは賭け。生と死の狭間に立つ洋平にとって、最後の。
 見届けることはできなかった。洋平の意識は混濁の中へと飲み込まれていった。

 再び目覚めたとき、洋平の身体は外気に晒されてはいなかった。目を開けるとそこは薄暗い部屋のようなところ。その一瞬の間に、様々なことに気付いていた。
 大気の軽さが、洋平の呼吸を楽にしていた。それまでの闇を溶かしたような重苦しい空気とは一変して、無色の闇を含まないただの空間に変わっていた。相変わらず光の気配はまるでなかったが、闇の放つ波動も抑えられ弱くなっていた。身体に触れるものすべてが放っていた闇の気配が最小レベルにまで下がっている。その意味はすぐに察することができた。目の前に座って無表情に見つめる視線を受けて。
「流川……闇の王」
 呼吸に加えて身体を動かすことも楽になっていた。闇の世界に晒され、あるいは流川が放った闇の力に侵食された洋平の身体の中に蓄積された闇、そのほとんどが身体の中から抜けているのだ。闇の王の力に間違いない。彼は洋平の言葉を理解し、身体の中から、そして周囲の空気や物質から、闇を払ってくれたのだ。
 ただ、洋平を助けるために。
「ありがとう、オレを助けてくれて」
 身体を起こし、ベッドの様な形に凝り固まった闇の物質に腰掛けていた流川を真正面から見つめて、洋平は言った。言葉にあわせて少し微笑んでみせる。自分が流川の行動に対して感謝している事を伝えるために。
 しかし意外にも流川の表情は変わらなかった。視線を外すことなく洋平を見つめ、言葉に反応することすらしなかったのである。
 その沈黙がどういう意味を持つのか、洋平には判らなかった。ただ無表情で微動だにせず、流川は見つめている。ただ洋平だけを。
 何か言わなければならないと思った。
「流川、ここは?」
「世界の中心、闇のオベリスク」
 今度は響くように言葉が反ってくる。またもや洋平は面食らっていた。流川は言葉を理解できない訳でも、声が聞こえない訳でもないのだ。それなのになぜさっきの洋平の感謝の言葉に答えてくれなかったのだろう。
 闇のオベリスク。流川が闇の王ならば、ここは流川の居城なのだ。洋平は流川の言葉をそう解釈した。世界の中心に棲む闇の王。それはおそらく、闇の世界の中で一番大きな力を持つもの。闇の世界の支配者。
 洋平を助けてくれたのは、闇の世界の王なのだ。
 もしもこの世界の支配者を味方につけられたら、生きてゆけるかもしれない。自分だけでなく光の世界からやってきた多くの仲間達も。流川は闇の世界の中に闇の力の存在しない場所を作ることができる。その力を持ってすれば、光はなくともある程度光のもの達は生きてゆけるのだ。この世界に住むことを闇の支配者が許してくれるなら。
 光の世界の崩壊の時、この世界に来ることを決めたもの達の中で交わされてきた議論だった。果たして闇の世界のもの達が光の存在をその世界に認めてくれるかどうか。仲間達がどこに散らばったのか、今は知ることができない。だが洋平は出会ったのだ。光の世界のもの達の代表として、闇の世界の王に。
 今、光のもの達の存亡は洋平の存在にかかっていた。流川をうまく懐柔できれば、新しい光の世界を築くことができる。この闇の世界に。
「流川、オレがいた光の世界は消滅しちまった。オレは最後の望みを賭けてこの闇の世界に来たんだ。オレのほかにもたくさんの光の住人がここを目指して降りてきてるはずなんだ。ほかの連中のこと、お前、何か知らねえか?」
「気配は感じた」
「ほんとか? どのくらい?」
 流川は答えなかった。変わらぬ無表情で、洋平を見つめ続けていた。
 会話がとぎれてしまう。洋平には判らなかった。流川は質問に答えたり答えなかったりする。それは一体何を意味するのだろうか。もしかしたら洋平を警戒して情報を操作しているのかもしれない。それならそれで当然のことなのだと思う。彼は闇の世界の王なのだから。
 だとしてもここで諦める訳にはいかなかった。
「……流川、オレは闇の世界では生きられねえ。オレの仲間もそうだ。今流川がしてくれてるみてえに闇を周囲から払っておかねえと、すぐに闇に食われて死んじまう。たぶんそう何日ももたねえだろう」
 流川は洋平を助けてくれた。その気持ちがあるならば、きっと助けてくれる。洋平の仲間である光のもの達を。
「お願いがある流川。オレ達を助けてくれ。オレの仲間を助けてくれ。お前の力で、オレ達が住める場所を作ってほしいんだ。頼む!」
 会話が、途切れていた。
 無表情で見つめる視線を受けて、洋平は絶望的な気分になっていった。まるで闇そのものが意志を持って動き始めたかのような漆黒の衣に包まれた闇の王。漆黒の艶やかな髪と吸い込まれそうな漆黒の瞳。絶対零度の宇宙を凝縮して二つに分けて納めたかのような、凍りつくほどの瞳。
 闇の王は美しかった。光の対極で息づく生命は、光と対極の美しさを内包していた。温かさに対する冷たさ。そして、太陽のまばゆさに対するブラックホールのように。
 触れることすらできない宇宙の宝石のように。
 それは強烈な無視だった。聞こえているのに、判っているのに、ただ見つめたまま答えずにいる。初めてだった。あまりに強烈すぎて、腹を立てることすらできなかった。
「……出ていってくんねえ?」
 流川は何も言わなかった。何も言わず、ベッドから立ち上がって部屋を出てゆく。大切なのはこんなことじゃなかった。答えてほしかったのは、かなえてほしかった願いは、出ていってほしいなんて簡単なものではなかった。
 誰もいなくなった部屋で、洋平は初めて孤独をかみしめていた。

 闇の王流川がその身体から闇の波動を放っているのと同じように、洋平もその身体から光を放ち続けていた。その光が流川の身体に影響を与えなかったという訳ではなかった。だが、闇の王は闇の力を操ることのできる存在である。闇の肉体にとって毒である光を身体から消し去るのに、然したる苦労はなかった。
 闇によって構成される肉体を持つ流川にとって、光の存在は異質だった。その異質さに導かれて、流川は洋平の存在を知り、オベリスクへ招き入れた。洋平以外にも流川は異質な存在を同じ時およそ数百程度感じていた。その数を正確に把握することは、闇の王の力を持ってしてもしきれるものではなかったのだ。
 洋平が語る洋平の仲間。その仲間が降り立っただろう場所の一つに、流川は向かっていた。しかしそこにはすでに光のものは存在しなかった。あったのは、無残に喰い散らかされた光の住人の死骸だった。
 洋平と同じように怪我をしていたのか。あるいは、光の力が弱かったために濃密な闇に耐えきれなかったのか。
 闇の世界で死骸を喰う闇のもの達が存在している。しかし、闇のものが光のものを喰うことができるはずはなかった。もしも光のものを喰えば、その光に負けて喰った闇のものは死んでしまうはずである。だが近くに闇のものの死骸はなかった。その事実は、光を喰らうことのできる闇の住人が新しく生まれたことを示していた。
 闇の世界のもの達はすべて一つの食物連鎖の中に存在する。それは世界の浄化作用。その中に光のもの達は取り込まれようとしているのだ。闇の星は、必要に迫られ、新しい闇の住人を生み出したのだ。
 星は既に光の存在を認めているのである。
 流川はその光の住人の死骸が身につけていた一つを外し手に入れたあと、闇の力を身体に精一杯蓄えた。そして飛び立ち、凄まじいスピードでオベリスクから離れていった。闇の王の力をもってすれば、星を半周することもそれほど困難ではない。しだいに闇の気配は希薄になってくる。こんなにオベリスクから遠く離れるなど、闇の王たる流川には初めてのことだった。体内の闇は昇華されどんどん力を弱めていった。
 空を飛ぶためには、流川は闇のエネルギーをより多く必要とした。それ以上飛び続けることに限界を感じて地上に降りる。闇が希薄なこの地には、地上にまで太陽の光が届いていた。そこには太陽光によって育まれた植物が生息する。闇の世界に存在する僅かな光を含有する植物。流川は手に取り、その中から闇の力を抜いてみた。
 闇によって育まれ、闇の力で生息する植物から闇の力を抜けば、その植物は力を失って枯れてしまう。しかしこの植物は萎れはしたが枯れはしなかった。流川はその植物を持って、来た道を引き返していった。
 この時流川が訪れたのは、オベリスクから反対側の極にかなり近い場所だった。闇は星のほぼ全域をその力で覆っているのである。このままではたとえ洋平がこの場所を訪れたとしても、長く生き続けることはできないだろう。もっと闇の力が少なく、光の力が多くなければならない。
 だがこの場所が光の住人が唯一生きられる場所なのだ。数百の光の住人達をこの場所までつれて来ることができ、怪我をした洋平をここまで動かすことができ、この場所に残る闇の気配を完全に取り除けば、彼らは生きられるだろう。その方法さえ判れば、洋平の願いをかなえることはできるのだ。
 流川に考える時間はそれほど残されてはいなかった。今のままの状態では生き残っている光のもの達も、洋平自身も、そう長く生きることはできないだろう。
 流川は今、光のもの達が生き残る方法を、洋平以上に真剣に考えているのだった。


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