ライセンス
―― ちょっと出かけてくる。
―― え? 何だって? ちょっと待てよ! どこ行くんだよ!
―― 遠くじゃねえ。すぐに戻ってくる。
―― 何で一人で行くんだよ! オレも連れてけコラァ!
確かそんな会話だった気がする。花道のどなり声をほとんど無視して、流川はマンションをあとにしたのだ。人と会うとき、花道をつれていることが流川にとっても有利に働く場合がある。それは、流川が気づかない面に花道が気づいたりすることも稀にあったし、泥棒の常識について、流川が知りえないこともある程度は理解していたりするからだったりする。いることで生じるマイナス面を補う程度のプラス面は、花道にはあるのだ。
だが、その相手がエースである場合、花道はほとんど役に立たなかった。話の内容は前記のような狙撃関係中心である。花道の持つプラス面が役に立たず、ゆえにマイナス面だけを残すのみとなってしまうのだ。
しかしその計算が間違いの元だった。花道を一人で置いて出た流川は、再びマンションのドアの前に戻ってくる。そして鍵のかかっていないドアを開け、内側から鍵をかけて振り向いた瞬間、盛大な足音を立てて走り込んできた花道に抱きつかれて、さらに近所迷惑な音とともにドアに倒れ込んでしまったのである。
「てめえ、何をする……」
「……流川、よかった。帰ってきて……」
「……」
涙声で力任せにしがみつく花道の様子に、流川もその意味を理解していた。一人で部屋にいることが、普通の大人であれば何でもないことができない花道。待ちかねたエースからの連絡に気もそぞろだった流川は、そんな花道の性癖にはまったく気づかずに出かけてしまったのである。
「ただでさえ洋平がいねえで、生きてるかどうかもよく判らねえのに、お前までいなくなっちまったらオレ……」
花道は更に力を込めて流川を抱き竦める。玄関に靴のまま座り込み、尻の下にはおそらく花道のであろうバスケットシューズを踏みつけている。背中は冷たく固い鉄製のドアである。そのうえ玄関のドアの内側にはたいてい郵便受けのでっぱりがあって、ドアに打ちつけられた流川の背骨にしっかりと食い込んでいるのである。流川でなくともこれでは痛い筈である。だが、ふいを突かれたとはいえ花道の力によって迂闊にも倒された流川は、けして花道にそうと告げようとはしなかった。
「……おい。桜木」
「うるせえ」
「ふざけるな。さっさと離れろ」
「放すかよ! ……電話で呼び出されていなくなったら帰ってこねえんだ。どんなに待ってたって、毎日ずっと待ってたのに、帰ってきやしなかったんだ。お前だっていなくなるかもしれねえじゃねえかよ。洋平は帰ってこねえんだぞ。同じじゃねえって言えるのかよ」
「お前……オレのこと嫌いなんじゃなかったのか」
「嫌いだ! てめえはほんとにむかつく野郎で死ぬほど腹立って気に食わねくてキツネ野郎でそんでもって……」
「……」
言葉とは裏腹に更に力を入れて流川に抱きつく花道の腕はわずかに震えていた。花道と流川がともに暮らし始めてからもう一年以上の月日が経つ。しかし二人の間には常に洋平がいて、その洋平を介することでお互いを認識していたと言っても過言ではなかったのだ。流川は花道に対する接し方など、ほとんど学んでこなかった。ゆえに流川は今自分に抱きついている図体ばかり大人で中身は子どものまま成長を止めてしまった花道を引き離す方法すら判ってはいなかったのだ。
しかしこのままではあまりにみじめである。寒い玄関の冷たいドアに押しつけられた身体は既に冷え始めていた。自分でなんとかしなければ、今日は助けてくれそうな洋平はいないのだ。
「てめえ、とにかく離れろ」
「離れねえよ! てめえはオレのこと嫌いなんだろ? 離れたらそのまま逃げるに決まってら!」
「逃げねえよ」
「逃げる!」
「逃げねえ」
「逃げる!」
「……逃げねえ」
「逃げる!」
「…………逃げねえ」
「逃げる!」
「………………逃げ……」
「逃げる!」
「……」
まったくもってばかばかしいと流川は思う。それでなくても考えることは多いのだ。ここまで手に余る行動を取られると、その気がなくても本当に逃げたくなってくる。花道は判っているのだろうか。
「てめえはオレに逃げてほしいのか。それとも逃げて欲しくねえのか」
そう、冷静に問われたところで、花道自身にもよく判らないのだ。花道が流川を嫌いなのは心底間違いのない真実である。その原因は数々の流川の行動の迷惑さだったり、莫迦にしたような態度だったり、好きになった女の子の想い人だったりしたことだったが、それよりもまず基本的に相性が合わないのだと思っていた。流川がいなければこんなにイライラすることもなかったし、腹の立つこともなかった。こんな奴いなければと思う。いなければいいと思うのだ。
「てめえが逃げたらオレはせいせいして、二度と会いたくねえって思う。絶対思う」
「こっちもだ。てめえみてえな迷惑な奴には金輪際会いたくねえ」
「うるせえ! 迷惑なのはてめえの方だ! だいたいてめえは……」
「オレは玄関先で嫌いな奴に抱きついてダダこねたりしねえ」
「う……」
それは本当のことだったので、花道は反論することができなかった。そんな花道に、流川はため息を一つついて、言い聞かせるように話し始めたのである。
「教えてやる。てめえがオレに逃げられたくねえのは、水戸のことが好きだからだ。オレを嫌いだってことより、水戸を好きだってことの方がてめえには大切なんだ。水戸のことが好きだから、嫌いな奴と一緒でも絶対取り戻してえんだ」
流川の言った言葉が、花道が考えても判らなかったことの一つの答えのような気がした。
「……そうなのか?」
「オレに言ったじゃねえか。オレに負けねえくらい水戸のことが好きなんだって」
洋平のことが好き。それは、花道の心が一番よく知っていること。いないからこそなおさら思う。自分がどれだけ洋平のことを好きだったか、いなくなってよけいに思い知らされたような気がする。
流川の言うことが本当なのだと思った。流川を嫌いなのだという気持ちよりも、洋平を好きなのだという気持ちの方が、自分の中では強いのだということ。そうして自分の心が見えてくると、花道は穏やかになって、そして気づくのだ。あのとき流川が口にした気持ちに。
「……お前もか? お前も洋平のことが好きだから逃げねえのか?」
「……」
「お前もオレのこと嫌いで、だけど一緒に洋平捜してんのは、オレを嫌いだってよりも洋平のことが好きだからなのか? そうなのか?」
流川はなにも言わなかった。だけど、花道は感じていた。その気配が、無言の肯定を示しているのだと。
「……そうか。お前も洋平のことが好きなのか。……そうだよな。オレがこんなに好きなんだから、お前も好きだよな。洋平はすっげーいい奴なんだから」
「……」
「たぶんみんな知らねえんだ。洋平がすっげー優しい奴なんだって。だから洋平のこと裏切り者だとか好き勝手なこと言いやがんだ。オレはちゃんと知ってる。洋平が優し過ぎんだってこと。……オレ、ずっと洋平のことが好きだ。洋平が誰に何言われたって、洋平のことが好きだ……」
もしも流川が今の花道の立場だったとしたら、おそらくこういう科白は出てこなかったことだろう。自分が一番好きな洋平のことを、自分と同じような重さで好きな人間が目の前にいたら、それはすなわちライバルである。こんなにほっとした表情で、なんの衒いもなく「お前も好きなのか、そうだよな」とは言わないはずだ。以前洋平が触れた花道の純粋さ。それと同じ純粋さに、流川も直面していた。それは意外で、そんな流川の驚きに追い討ちをかけるように、さらに花道は言った。
「お前もずっと洋平のこと好きでいろよな。嫌いになったら承知しねえからな。そんでもって一秒でも早く洋平のこと助ける。な、流川」
これが桜木花道。心は子供のまま、ひたすら純粋に水戸洋平のことを好きだと言える男。
「……ああ」
「よかった……」
そう言ったきり、花道は動かなくなる。しばらく花道の言葉を待っていた流川にも、やがてそれがまるっきりむだなことなのだと判った。ドアに押しつけられ、しがみつかれたままで、流川は花道に眠られてしまったのである。
「どあほう。寝るんだったら腕を放してからにしろ」
つぶやいてみたところで既に深い眠りに入ってしまった男には届かない。やがていびきを立て始めた花道に流川は引き離しをかけるが、それはむだな努力以上のものにはなりえなかった。
子供のまま成長せずこの年になるまでひたすら純粋でいられた男。
そのはた迷惑さは、流川の心と身体に一晩の時間をかけてたっぷりと染み込んでゆくのである。
あれから更に丸一日の時間が過ぎ、洋平は毛布も点滴も許されぬまま、地下室で寒さに震えなければならなかった。
意識をしっかり保とうとする努力はある時に限って報われている。すなわち、三井が洋平をいじめに来る時には、洋平はとても元気に見えていたし、皮肉の応酬に衰えは見られなかったのである。しかし三井がいなくなると、洋平は痛みすら忘れるほどの衰弱を見せた。意識は混濁し、おそらく体温は摂氏三十九度を越えていた。
正気を保つ努力は一人になると及ばなくなる。普段であれば聞こえないはずの自分の心音が、寒い地下室に響き渡る気がする。自分という存在がどれほど確かなものなのかすら判らなくなる。まどろみの中で、洋平は夢を見ていた。
電話ボックスの中の洋平は、自分でしでかした裏切りへの葛藤ですべてを忘れていた。つい数分前まで仲間だった三井。今この瞬間にも、洋平を疑うことなく訪れを待っているはずの三井。優しかった時間、暖かかった風景だけを思い出す。本気で思っていたのだ。このままずっと三井やその仲間達と過ごすことができるのだと。
裏切りを決めてからまるで何かに突き動かされるようにプッシュホンを押した。この瞬間、洋平は自らの正義を信じた。だが、今浮かんでくるのは屈託なく誘いをかける三井の笑顔と、やがて三井の心に訪れるはずの絶望と怒り。失ってしまった信頼と、裏切り者の印を背負った自分自身だった。
本当は、洋平も逃げなければならなかった。一一〇番通報は発信者の居所を把握する。時間が経てば経っただけ洋平が逃げるチャンスは失われてしまうのだ。事実、洋平にはすでに警察の手が伸びつつあったのだから。
ボックスのドアを開ける気配に洋平は振り返らなかった。二の腕を捕まれて引きずり出されたとき、初めて人の存在を感じた。
「何をしている。いつまでもここにいたらお前も同類だぞ」
引かれる腕に反射的な抵抗をしながら見上げた顔はよく判別できなかった。真っ暗な街道沿いに通り過ぎるテールランプが照らしては再び闇に包む。
「やるなら自分の安全も考えてからやれ。隠れ家はあるのか? お前がやらかしたことで勢力図が変わったんだ。生き残れるのか? 頼れる人間はいるのか?」
やっと、おぼろげながら洋平にも判る。問題は三井と自分の関係だけではないということ。この町で生きる人間達にとって、三井の勢力が消えることはさまざまな利害関係を覆すのだ。喜ぶ人間もいる。そして、致命的な打撃を受ける人間もその中にはいるのだ。
「……オレ、殺されるのか……?」
疑問というより確信。洋平の回りには敵しかいなくなるだろう。
「信じるならかくまってやる。車に乗れ」
頼るしかなかった。顔も知らないこの男を。
男の車に揺られながら、洋平は自分の行く先に巨大な不安を覚えるのだった。
既に馴染んでしまった地上に続くドアが開く音を合図に、洋平は急速に意識を取り戻した。できるだけ痛みを感じないように慎重に、かつ迅速に身体を起こすと、目の前の部屋の扉の鍵を開ける音が聞こえる。意識を保つ。ドアから入ってきたのは、宮益でも三井でもなく木暮公延ただ一人だった。
「検温に来たよ、洋平君」
夢を見ていた。ひどく鮮明で、心の奥底が闇に葬られるような悪夢を。
「宮益じゃねえのか」
「三井に頼むと一枚八千円もするようなの買ってきちゃうからね。自分が贅沢な人間なんだってことにまるで気づいてないんだ。体温計自分で挾める?」
「……何の話だよ」
「洋平君のパンツの話」
「……」
体温計を受け取る手が震えないようにつとめながら脇に挾む。それはいつもの洋平からすればかなり緩慢な動きだった。様子を見つめていた木暮は表情を変えない。だが、その目の光が既に普通ではありえないことに気づいていた。
「憎まれ役を演じてくれるのはありがたいと思うけど、たとえば少し弱ったふりとか反省したふりとかそろそろしてくれるともっと嬉しいんだけどね。洋平君はいじめ甲斐がなさ過ぎるよ。五年前だって三井は今と同じくらい意地っ張りだっただろ?」
木暮を味方につけなければならないと思っていた。目覚めてから丸二日が経って、木暮が一人で地下室に来たのはこれが初めてだった。これまで何回三井が訪れたのか、もう覚えてはいなかったが、三井が木暮を伴って来たのはおそらく二回くらいだったはずである。その時も木暮はずっと三井の後ろにいて、洋平を不思議な微笑みで見つめていたのだ。まるで三井の影であるかのように。
木暮は三井の協力者なのだ。金で雇われているのか。それとも、宮益のように三井を信奉しているのか。三井に同情しているのか。三井と同じくらい、洋平を恨んでいるのだろうか。
「それで三井の気が晴れたらオレは殺されるんじゃねえのか?」
「頭がいいな。確かに三井の征服欲はねちっこいよ。もしも今洋平君が意識不明の重体になれば、三井は洋平君を回復させない訳にはいかなくなるだろう。だけど、同じことを繰り返していれば三井だっていずれ飽きるよ。そうしたらもう見向きもしなくなるはずだろ。さっさと殺されるか自然死だよ。同じことだと思うけど」
「だったらいじめ甲斐があろうがなかろうが関係ねえじゃねえかよ」
「そりゃそうだ」
少しでも気を抜いたら飲み込まれてしまう。身体の熱は思考力も判断力も奪い去ろうとしているようだった。目の前にかかる靄が画像を揺らしてしまう。木暮の表情を読み取ることすら困難なほど。
「公延……」
初めて名前を呼んだ。あのころの痛みがよみがえる。おびえた声で洋平の名前を呼ぶ小さな少年の記憶。
「名前で呼ばれるの久し振りだな。かれこれ四年ぶりくらいか」
「お前も恨んでるのか? オレの事」
揺れる、木暮の画像。表情が読み取れない。
「恨んでるよ。三井がそう言わなかった?」
その木暮の声すら、洋平にはおぼろげにしか伝わってはこなかった。知っていた。木暮が洋平を恨んでいるだろう事は、洋平はよく判っていた。裏切ることでしか仲間と別れられない自分。そんな自分であることを洋平は開き直って生きてきた。裏切り続けながら理解した。自分という人間はそうなのだ。そうあることを恥じることなく、そうであるのが自分なのだと胸を張って生きているはずだった。
自分を変えることができたと思っていたのは、洋平の思い上がりだったのだ。別れを告げたはずの罪悪感が今、洋平の精神のすべてを支配していた。そして発見する。変えたと思っていた洋平の本質が、まったくあの時のままであったことを。
昔の自分との出会いを、洋平は恐れていた。恐れていた現実に出会ってしまった。画像が揺れる。木暮は微笑んでいる。
「だけど……」
木暮の声。再び、洋平は自分を焚き付ける。計算の及ばない弱みを見せる訳にはいかない。弱みを見せるときは切り札として見せなければならない。
「……この間三井にも言ったように、オレは十三年も昔の事は本当はどうでもいいんだ。オレの人生はあの時狂ったけど、でも同じ事を続けていればいずれ補導はされたと思うし、洋平君のことは一つのきっかけで、恨んだことだってあるけど、前提に孤児だった自分の境遇だってある訳だから、全部が全部洋平君のせいだとは思ってないよ。……ただ、三井の場合はかなり違うよな。地位もお金も人脈もそろった父親がいたのに、そのすべてを失ったんだ。はっきりと洋平君のせいだからね。
そろそろかな。体温計見せて」
洋平がその緩慢な動作で体温計を取り出そうとする。それを待ちきれなくて、木暮は洋平に近づき、開いた襟元から手を伸ばした。ひんやりとした木暮の指が胸元を探る。汗ばんだ体温計を覗いた木暮は少し顔をしかめるようにした。
「九度五分か。ひどい熱だよ。下手すると本当に危ないな。三井にはちゃんと話しておくから、もうしばらく頑張っててくれ」
遠い声。触れられた指は冷たく心地よかった。見せたくなかったはずの弱みは、何の抵抗もせずに身体に触れさせてしまったことで木暮に見透かされたような気がしていた。
ドアに手をかけて木暮が振り返る。その時見た洋平には、もうどんな表情もなかった。
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