ライセンス



 さてこの日、怪盗レッドフォックスのうちの残された二人にとって、どうやら無視できない最大の難関が訪れたのである。
 情報屋野間との会談のあと、部屋に戻った二人はドアを開けた瞬間、奇妙な異臭を嗅いだのだ。不思議に思いながらも廊下を進む。そうして二人が見たものは、テーブルの上と言わず下と言わず、所狭しと積み重ねられた弁当の空き容器だったのである。
 洋平が消えてからはや三日。外食もしたが、どちらかと言えば人目をはばかる泥棒である。コンビニや弁当屋の弁当で済ませることも多かったのだ。冷蔵庫の中のビールやジュースも二人で飲み続けその数をかなり減らしている。そのすべてがここに転がっている今、テーブルの上には次なる弁当を広げるスペースは完全になくなっていた。
 部屋の片付けは洋平の役目だった。二人は今、洋平がいなくなってから最悪の困難に直面したのである。
「……おい、逃げるな」
 すべてを忘れて部屋に逃げ込もうとした花道を、流川が呼び止める。もちろん二人ともこの現状が今までぜんぜん見えていなかった訳ではなかった。しかし、視線の隅に押しやりながら、ひたすら逃げ続けてきたのである。だが、多少見栄えが悪いことには我慢できるが、異臭は無理である。逃げようとしていた花道も、ぴたっと足を止めた。
「オレはこれから考えなけりゃならねえことがあんだ。たとえば……」
 そのたとえばの先が思いつかず、花道はなんとかごまかそうと唸り続ける。しかしそんなものは逃げるための口実でしかないことは誰の目にも明らかであるので、流川は簡単にはごまかされなかった。
「考えるだけなら手を動かしながらでもできる。……天才ならな」
「う……。……あとオレ、彦一に用事が……」
「今朝会ったばっかでなんの用事だ」
「うう……。……そんでもって……ええと……」
 言い訳を考えるよりもさっさと終わらせてしまう方が早いと思うのだが、花道は必死で頭を悩ませて考え続ける。始めてしまえばそう難しいことではないのだが、手をつけるまでが一番嫌なのである。その気持ちは流川にも判っていた。だが、ここで流川までもが逃げ出した日には、レッドフォックスのアジトは数日後には冬バエ達に占領され、夢の島の楽園と化してしまうことだろう。
「それに桜木、てめえもそろそろねえんじゃねえのか?」
 自分の言葉のあとの答えを恐れるように、花道は恐る恐る言ってみる。
「……何が」
「下着だ」
「……」
「オレは今夜着替えたら終わりだ。てめえはどうなんだ?」
「……昨日ので最後だった」
「……」
 言葉にはしなかったが、流川は心の中でどあほうをつぶやく。そもそも着替えなど際限なく出て来る訳ではないのだ。全自動洗濯機からはすでに汚れた衣服があふれ出している。そのうち風呂場までの道は完全に封鎖されるだろう。
 とうとう花道も諦めた。そして二人はすさまじく様子を変えたこの部屋の中の大掃除を敢行することにしたのである。
 地方自治体の指定のゴミ袋を探すだけで二人は約三十分の時間を費やさなければならなかった。ようやくシステムキッチンの扉の中から見つけ、テーブルの上のゴミを放り込み始める。巨大な袋に三つ分。普段掃除などしたことのまったくない二人は、それだけで異様に疲れ果てていた。
「終わったーっ!」
「終わってねえ。次は洗濯だ」
「知ってたけど再確認」
「何がだ」
「てめえはサドだ」
「言ってろ」
 洗濯機に衣服を詰め込み過ぎたためのエラーサインなど軽いジョークである。洗剤も入れ、説明書通りに操作するのにどうしてもエラーが止まらない。それが、ホースを蛇口につないで水を出さなかったためだと判るまでが約一時間。すべての衣類を洗い終え、部屋中にロープを張り巡らせて洗い上がった洗濯物を乾し終えた頃には、時刻は真夜中を大きく回っていたのである。
 そして翌朝、ドアの呼び鈴の音に眠い目をこすりつつ玄関まで足を運んだ花道は、めったに顔を会わせることのない管理人のおじさんと、そのうしろに昨夜のうちにゴミ置場に出したはずの三つの巨大なゴミ袋を目にすることになる。いぶかしんで尋ねる花道に、不機嫌そうな管理人はこう宣った。
「いいですか、一ノ瀬さん。第一に、ゴミというのは夜中に出してはいけないんです。犬に荒らされたら散らかるでしょう? 第二に、今日はゴミの日じゃありません。第三に、ゴミというのは分別しなければダメなんです。ここにゴミの出し方とゴミの日の表を持ってきましたから、よく読んで、燃えるゴミとプラスチックと金属をきちんと分けて、指定の日の朝八時半までに出してください。判りましたね」
 そうして返品されてきたゴミの袋をむりやりたたき起こした流川とともに分け始める。分けながら、二人は心の底から洋平の存在のありがたみを実感していた。
 そして改めて、一日も早く洋平を取り戻すことを天に誓うのである。

 洋平の怪我の状態はかなりひどく、本当であればまだ暖かいベッドに横になって点滴を受けながら完全看護されていなければならないほどだった。それを麻酔なしでこれほど寒々とした地下室に放り込まれているなど、正気のさたではない。体力のない者であれば一日たりと持たないであろう。丸一日が経とうとしている今、洋平自身も自分の体力の限界を悟り始めていた。
 洋平の世話をするのは主に宮益の役目だった。怪我人を殺さぬためだけに病人食を作り、地下室に運ぶ。検温して包帯を取り替え、状態がほとんど回復しないことに溜息を漏らした。このまま消耗を続ければいずれ洋平は死んでしまうだろう。
「宮益、寒いんだけど毛布かなんかもらえねえの?」
 包帯を替え終わったあと、洋平が尋ねる。意識がはっきりしていることが、今のところ唯一の救いだった。
「……意地を張ってるだけなんだと思う。オレも何回も言ってるから、そのうち判ると思うけど」
「死んでからかけてもらってもな」
 五年前、三井と仲間だったときの洋平は、宮益とも何度か言葉を交わしたことがあった。そのころから宮益は三井に頭が上がらず、なにかにつけて言いなりになっていたのだ。だが、宮益本人が悪人だった訳ではない。三井の言う事には逆らえない宮益も、それなりの常識や良心は持っていたのだ。
 どういう経緯だったのかはまったく判らない。だが、宮益は三井のことをまるで女神のように信奉し、同時に恐れている。だからたとえ三井が間違っていたとしても言う通りにせずにはいられないのだ。宮益は、今のたよりない状態の洋平が、まず最初に味方に付けなければならない人間だったのだ。
 洋平は慎重に言葉を選んだ。小さな言葉の積み重ね、心の動きが、大切なところで実を結ぶものだ。たとえそうはならなくても、根回しはいついかなる場合にも必要である。
「オレの傷、どんな具合なんだ? そのくらい教えてくれんだろ?」
 医療機器をかたづけていた手を止めて答える。
「三井が蹴ったところから少し出血していて、もしかしたら内臓に流れ込んでるかもしれない。もしもそうだとしたら早めに取り除かないと危険だと……。治りが遅いのは栄養が足りないから……」
「その手術も点滴も許してくれないのか」
「……判ってるとは思うんだけど」
 三井がすることには一貫性がないことが、洋平にも判ってきていた。三井はおそらく最終的には洋平を殺そうと思っているのだろう。その途中では洋平を精神的に追いつめようとしている。肉体的な苦痛を味わわせようともしている。だが、そのために洋平の命を縮めてしまったのでは、十分に苛めて憂さを晴らすことはできないのだ。
 誰が考えても、まず最初にしなければならないのは洋平を元気にすることである。宮益にはそれが判っているはずだ。だが、宮益が意見すればするほど、三井は意地を張って言うとおりにしようとしないのかもしれない。
(もしかしたらオレが元気過ぎるのがいけないんかもな)
 あれから何度か三井が訪れた。そのたびに洋平は皮肉って三井を煙に巻いてきたのだ。どうやらそれが三井に意地を張らせる原因になってきたらしい。だが、洋平もそれなりのプライドの持ち主なのだ。下手に出てやるなど、高すぎるプライドが許さなかった。
(いよいよ八方塞がり。袋のウサギってやつか)
 そう思ってふと、洋平は思う。確か三井は木暮の言うことなら素直に聞いていたのではなかっただろうか。木暮は洋平への恨みをそれほど表に出してはいなかった。あの木暮なら暖かいベッドと点滴と手術をすすめてくれるかもしれない。
 何をおいても体力を欲する洋平は、なんとかして木暮を味方に付けようと算段し始めたのである。
 しかしそれは、昔の自分と今の自分との熾烈な戦いのはじまりであった。

 運転手兼ボディーガードの屈強な男に守られ、後部座席から降り立ったのは、見かけは平凡に見える一人の青年だった。
 その手にはぱっと見ただけでは何だか判らないような細長い袋を持っている。白地ににんじん模様の一見可愛らしいキルティング袋の中身は、この男が持っているというただそれだけで死を意味する。男の名前は神宗一郎。そして、手に持っているのはここに来てから銃砲屋で買い求め、さらに改造を加えた殺傷力抜群のライフルだった。
 狙撃の神様と異名を取るほどのその男も、そう思って見なければごく普通の青年である。運転手の男に笑顔で礼を言って、別荘の玄関のドアを開ける。居間に顔を出すと、そこには元外科医の宮益だけが所在なさげに座っていた。
「あれ、珍しいね。一人なんだ」
「お帰りなさい、ゴッド。三井はその……例の場所で」
「また地下室で水戸洋平を苛めてるのか。それとも逆に苛められてるのかな。地下室のあとは機嫌悪いみたいだし」
「無茶してなければいいけど」
 狙撃の神様、通称ゴッドは、特にこの宮益を嫌いという訳ではなかった。元々それほど好悪の差が激しい性格ではない。よほどのことがなければ人を嫌いになることも好きになることもないのだ。そしてその分、その人の人間性を客観的に見ることに優れているようなところがある。
 宮益の方もゴッドを嫌いではなかった。ゆえにこの二人は終始穏やかで、二人きりでいるときもその会話にほとんど波風は立たないのが常であるのだ。
 しかし、三井の方は最初に出会ったときからゴッドに対して訳の判らない敵意を燃やしている。その三井が奥の扉から居間に現われ、ゴッドを認めると不機嫌な顔を更に不機嫌に変えた。
「宮益、コーヒーくれ」
「コーヒーくらい自分で入れたら?」
「うるせえな! てめえはオレに雇われてんだから口出しすんじゃねえよ!」
「今入れるからけんかはしないでくれよ、頼むから」
 三井のイライラは誰もが手に取るように感じ取っている。そのイライラも、洋平が目覚めてから更にその度合いを増しているのだ。たとえば、ゴッドの普段の仕事ならば、一度目的を達してしまえばその後の後始末は雇主が負ってくれるのでその場で無罪放免になるのが普通である。それが今回の場合、ここまで長い間足止めを喰らっているのだ。それには三井なりの理由があってその理由についてはゴッドはなにも聞かされてはいなかったし、そういう契約でここにきたのだから文句を言うつもりもなかった訳なのだが、ゴッド自身も半ばうんざりし始めていた。ゴッドは他人の復讐になど興味はない。またそんなゴッドの態度がより三井をイライラさせることも判り切っているのだ。
 ゴッドはだんだん、あの時洋平を殺してしまえばよかったと思い始めていた。そうすれば仕事は失敗だが、ここまで三井にイライラをぶつけられることもなかったのだから。
 早々に自室に引き上げようとゴッドが居間をあとにしかけたとき、今まで出かけていたらしい木暮も居間に現われていた。
「ただいま。お揃いでどうしたの?」
「遅かったな、木暮。……で、例のブツは手に入ったのか?」
「ああ、これがそうだよ。実験用のと二つ入ってる。ダンボール箱も調達してきたから、水戸が元気なうちに見せてあげような」
 引き上げかけていたゴッドも三人の会話に耳を傾ける。そして、そこで聞いた会話に、ゴッドはめまいを起こすほど胸糞悪いものを感じていた。
 そしてゴッドは、自分のためにというよりも洋平のために、あの時なぜ殺しておかなかったのかと自問自答を繰り返すのである。

 あたりがすっかり暗くなるまで、それほどの時間を待つ必要はなかった。
 エースが言った例の場所という言葉を、流川はたった一つしか思いつかない。高架橋の下で待ち続ける流川の前に、エースは天使の微笑みをたたえて現われていた。最後に会ったのもこの場所だった。裏切り者とそれを追う潜在的な暗殺者という関係は、今でも変わっていないはず。
「よう、フォックス。この前の熱烈なキスシーンには感動したぞ。愛しい兎はまだ見つからねえのか?」
 見つかっていたらこんなところに来るはずはない。その言葉を、流川はあえて省略した。
「裏は取れたのか」
「メリッサはウブな美女だ。天使のエースにかかりゃ表も裏もねえ。一か月前にFを通じて依頼があって、スケジュールの調整をして日本に渡ったそうだ。なにしろ仕事の期間が普通じゃねえ。まるまる三週間だってんだからエージェントは泣くわな」
「やった奴はゴッドに間違いねえんだな」
「ああ、間違いねえ。前金の送り主の欄にちゃんと三井寿の名前があった。羨ましいくらいの金額だったぜ。聞きたいか?」
「……その金でラビットが撃たれたのにか」
 たっぷりと怒りの込められた視線に睨まれて、エースも自分の失言を悟っていた。どうやら今のフォックスはエースの軽いからかいになど応じる余裕はないようである。この二人、一年前までの関係から推測するならば、多少エースの方が優位に立っていたのだ。しかし今のこの状況では、相手に対して失うものが少ない分だけ、フォックスの方が優勢であった。
「ゴッドはどういう奴だ」
 話題を変えたフォックスに、エースも気分を変えて答える。
「半年くらい前だったか、アフリカのとある国の裏政府からの依頼が舞い込んできた。名指しだったんで一応話だけは聞いてみたが、それがとんでもねえ仕事でな、オレは断ったのさ。ところがオレのほかにもう一人その場にはいて、そいつが引き受けちまったんだよ。それが、狙撃の神様ゴッドだった」
「……」
「場所は砂煙舞う砂漠の上だ。キャラバンのふりした運び屋が屯してて警戒は厳重際まりねえ。時刻は真っ昼間、ってことは陽炎漂う灼熱地獄。百ヤード以上近づけねえ上に、そのたくさんいる運び屋の中のたった一人を一発でしとめろってんだぜ。お前ならやるか?」
「……」
「……だろうさ。ところがあの神様はすんなりあっさり引き受けやがった。おもしろすぎるだろ、オレはゴッドについて、行ってやったよ、アフリカの砂漠の真中まで。成功しても失敗しても無事逃げられるか判らないような状況だ。殺されたってオレは一セントの得にもならねえってのに」
「……それで。成功したのか」
「オレはとなりで双眼鏡覗いてターゲットが出て来るのを待った。奴に合図送って、構えたと思ったら一瞬だった。振り返ったオレにゴッドは笑顔で言ったよ。『終わった。さ、帰ろう』 ―― 」
 狙撃屋として食っていた頃の流川は、どんな大きな仕事もめったに断ることをしなかった。それは、自分に対する絶対の信頼があったからだったし、大きな仕事に対する征服欲のようなものもあった。大きな仕事はそれだけで流川の気分を高揚させた。プレッシャーを力に変えることで、成功を続けてきたのだ。
 ところが、ゴッドというスナイパーは、そのプレッシャー自体をほとんど感じないのだ。まるで氷のような冷静さで仕事を行い、機械のような正確さで仕事をこなす。それは精神に影響されない腕。最初にそう呼んだ者が誰なのか、流川には判らなかったが、きっと誰もがいつかは呼んだのだろう。正確無比なスナイパー、狙撃の神様ゴッドと。
「とにかく集中力がものすごい。一瞬で精神の最高の状態を作り上げて、相手を捉えると一番確実なやり方で殺しちまう。建物と建物の間をラビットがすり抜けるほんの二三秒の間に重心めがけて弾を撃ち込むくらいできそうな気がしねえか? それも、終わったあとはニッコリ笑って『さ、帰ろう』だ。正直未だに信じられねえよ。あんな奴が百人いたら、オレなんかおまんまの食い上げだろうな」
 そのゴッドは今、洋平のそばにいる。さらったのは三井寿。だが、洋平を撃ったのはゴッドなのだ。洋平の身体に傷をつけたのは。
「そいつがどこにいるのかは判らねえのか」
「さあな。ただ、二日に一度くらいの割合でエージェントの方に連絡が入るらしいから、伝言をたのんどいた。運がよけりゃ本人に会えるぜ。うまく話せたら情報流してやるよ」
 その会談に同席を頼もうとして、流川はやめた。エースにもエースの立場がある。ここまでしてくれるだけでもエースにとっては綱渡りの筈なのだ。多くを望めば結果は倍になって反ってくる。
「ラビットの居場所が知りてえ。判ったら真夜中でもかまわねえ」
「ああ、連絡する。ときどきはお前からも連絡よこせよ。やっかいごとの相談だろうが歓迎するからさ」
「……判った」
 背を向けて、見る間に遠ざかってゆく。いつもそうだった。まるでフォックスにならいつ殺されても本望なのだと言わんばかりに。
 このとき流川は、いつかエースに何かがあったとき、何を置いても真っ先に駆けつけようと、心に誓ったのである。


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