ライセンス
同じ一日はレッドフォックスの二人のもとへも訪れていた。
完全とはいえないまでも、昨日一日である程度の種は蒔き終えた二人である。そういう意味では二人の対応は思いのほか早かったのだ。とりあえず今の彼らにできることは、芽が出て育ち、刈り入れられる時期を待つだけである。昨日の夜情報を整理しながら眠りについた流川は、未だ眠りこけていた。
花道の方は早々に目覚めて、自分だけコンビニ弁当で朝食を済ませたところであった。その空き弁当箱とジュースの缶はテーブルに置き放してゴミの山を巨大化させている。そんなときだった。流川の部屋から携帯のベルの音がかすかに聞こえたのである。
花道は聞くともなしに聞いていたが、五回六回数えるころになるとさすがに焦りが見えはじめる。大切な電話かもしれないというのに流川は電話に出ないのだ。眠っているのは明らかだった。
「流川! お前何やってんだよ! さっさと電話に出やがれ!」
三人の間にはいくつかの取り決めがある。お互いの電話に勝手に出ないというのも取り決めの一つだった。もちろん緊急の場合は別であるから、昨日流川が洋平の電話に出たのは罰則のおよぶところではなかったが、今ここで花道が流川の電話に出ると規定違反になって、流川の言うことを一つだけ無条件で聞かなければいけなくなってしまうのである。
ドアを開けるとベルの音は相当のものである。寝起きの悪い流川は電話のベルも最大音量で合わせているのだ。洋平がさらわれたという一種異常な事態の緊張の中でこれだけ安眠できる流川が花道には不思議だった。数か月前の苦い経験があったのでさすがにパンチを打ち込むことはしなかったが、すこやかに眠る流川を乱暴にゆり起こしながら、さらに耳元でどなりつけた。
「流川! てめえ洋平がどうなってもいいってのかよ! 起きやがれこの糞馬鹿キツネオタク!」
突然の扱いにいかな流川でも眠っている訳にはいかなかった。薄目を開けてむくりと起き上がる。目覚めた流川は昨日までの状況を瞬時に思い出していた。そして、彼にしては珍しいほどのスピードで現実に対応したのである。
「起きた。桜木、出てろ」
「てめ……」
流川に命令されることは気に入らなかったが、なにしろ電話に出てもらうことが最大優先順位である。電話が終わってから喧嘩を再開することを決めて、花道は部屋を出た。流川の方は枕元の受話器を取り、まずは日本語で対応した。
「もしもし」
やや遠くから聞こえた返事は、流川の対応を受けて日本語でなされた。
『狐か? Fから連絡もらったぞ』
「……エース」
天使のエース。本名を仙道彰といって、流川とは幼なじみのスナイパーである。数か月前、裏切りを決めた流川を殺しに来たが果たせなかった。流川にはエースが味方であると確信できた訳ではなかったが、手さぐり状態の流川はそう信じて賭けに出たのである。
電話の向こうのエースが協力してくれるかどうかは判らなかった。だが、たとえエースに対して借りをつくろうとも、流川はそうせずにはいられなかったのである。
『何か用か? ……まさか戻る気になったのか?』
「そいつはねえ。ただ、聞きたいことがある。……今どこだ」
『NYだ。もっと言えば美人ダンサーマリアのベッドの中』
「日本語は」
『極秘事項か? ちょっと待て……大丈夫だ。中国と日本の区別もつかねえ』
いつになくエースは話が早かった。だいたい連絡自体が流川が予想したよりもだいぶ早い。流川が自分に連絡をよこすということがかなりの異常事態であることから、エースもせっぱつまったものを感じたのだろう。
「真夜中の川縁で風はなかった。ほとんど真っ暗闇で距離は二百ヤード。全速力で走ってた体重百四十ポンドの人間をライフルで狙撃して十ヤードすっ飛ばして川へ落とした。そんなことできる奴は誰だ」
『真っ暗で二百ヤード……? 川に向かって走ってたのか?』
「違う。川縁を川上に向かって走ってた」
『横向きに走ってる人間をライフルで十ヤード飛ばしたのか? 偶然じゃないとしたらできる人間は一人しか知らねえな。たぶんそいつはゴッドの仕事だ』
狙撃の神様ゴッドの名前は流川も知っている。どんな仕事でも確実にやってのける正確無比なスナイパーである。その仕事はまさに神業。失敗することはありえない、まさに狙撃の神様なのである。
「確かか」
『さあな。ただ、オレが知る限りではそんなことできる奴はゴッドしかいねえ。たぶんあいつならやるだろうさ。本名は神宗一郎っていって、美人の専属エージェント囲ってるんだ。裏取ってやるから待ってろ』
「本名知ってるくらい親しいのか」
『エージェントの方はな。本人とは一度一緒に仕事したことがあるだけだ。ほれ、ゴッドの場合は昔は本名で仕事をしてたが、ゴッドの異名を取るようになってからはそっちの方が通称みてえになっちまったからな。今でも聞けば気軽に本名名乗るぜ。……まあ、詳しいことは裏が取れてからだ。オレに任せろ。女の股……もとい、口を割らせるのは得意だ』
なにも聞かず、ただ流川の言うことをストレートに受け取って骨を折ってくれるエース。今まではその図式に不思議を覚えたことはなかった。だが一年以上の時を経て、二人の関係は変わってしまったのだ。もしもエースが裏切り者フォックスと通じていることを元締のダディに知られたら、今度はエースまでも追われる立場になるだろう。
「エース」
『……なんだ?』
「聞かねえのか、何があったとか」
電話の向こうで笑みが漏れる気配があった。
『当ててやろうか、狐。撃たれたのは兎だろう?』
隣にいるという美人のマリアをはばかって、エースはそういう言い方をした。
「……」
『怪我をしてそばにいる訳じゃねえ。死んでもいねえ。どこかに連れて行かれたんだ。どうだ? 違ってたか?』
エースの言葉は大まかではあったが状況を正確に指摘していた。もちろん流川は驚いていた。
「どうしてそれが判る」
『オレを甘く見るな。お前が生まれたときから二十何年だぞ。お前が何を大切に思っているかくらい判る。もしも兎が怪我をしてたらお前はすぐに復讐なんか考えねえ。死んでたらお前のことだ。オレなんか頼らねえで自分一人で復讐に燃えるだろ。借りを作ること判ってまでオレを頼るってことは、一刻争う事態だって以外ねえさ。お前にプライドより大切なものができるなんて、あの頃には思いもしなかったけどな』
昔、命よりもプライドが大切だと思っていた。プライドを守るためなら命なんか捨ててもいいと思っていた。洋平がさらわれてから、流川は何回人に頼り、お願いをし、頭を下げただろう。今改めてそのことに気づいた流川は、自分が根本的に変化したのだということを初めて理解したのかもしれない。
どうしてそうなのか判らない。洋平の何が流川にそうさせるのかも。だが、理屈ではなく、流川を行動に駆り立てる何かが洋平にはあるのだ。そしておそらく同じ想いは花道も持っている。
流川がずっと花道と行動を共にしている理由がそこにある。流川の目から見れば花道は人間的には頼りない男だった。人間同士の駆け引きではほとんど訳に立たず、盗みの作戦会議でも力押しの作戦を提案することしかできない。だが、実際に救い出す段階になったとき、力を発揮するのはその《想い》なのだ。それは不可能を可能にする。そういう意味では、流川が今回本当に信頼できるのは、花道以外の誰でもないのだ。
エースとの電話を切り、部屋から出ると、待ってましたとばかりに花道が駆けよってくる。その目は花道のイライラがそろそろ頂点に達しようとしていたことを物語っている。
「流川! オレがろくに眠れもしねえで洋平のこと心配してるってのに、なんでてめえは熟睡かっとんでんだよ! もっと緊張しろよ! 洋平がどうなってもいいってのかよ!」
「……寝てねえんなら今寝ろ。オレが起きてる」
流川の言葉を受けて、それまで興奮しまくっていた花道は拍子抜けして言葉を失った。それまでの流川なら、どあほうかうるせえの一言で済ませるシチュエーションである。流川の言葉の中に明らかに花道を思い遣る気持ちが含まれていることを知って、花道は面食らってしまったのだ。
「てめえの携帯が鳴ったら起こしてやる。出かけるときはどんなに熟睡してようが叩き起こす。睡眠不足の人間は役に立たねえ」
一度思い遣りの意味を汲み取ってしまうと、次の言葉もその延長に思えた。花道は期待されているのだ。睡眠不足を解消して、役に立って欲しいと思われているのだと。
「流川……」
「水戸を救いだすときのてめえの活躍には期待してる。だが、それまでのてめえはたいした戦力じゃねえ。よけいなこと考えねえで寝てろ」
期待していた分、その後の花道の怒りは筆舌に著しがたい相当なものがあった。(それゆえ筆者には書けません)。その一言だけを言わなければ平和にことが片づくというのに ――
結局のところ、流川という男は花道を怒らせることしかできないようである。
街をふらつく小さな洋平には後悔があった。初めて見捨ててしまった。施設を抜け出してから、初めて出会った仲間。同じ想いを抱えた、少し年上のか弱い仲間。
(洋平君、助けて!)
耳をこだまする声。打ち消すことのできない永遠のリフレイン。
(洋平君、むりだよ。こんな高いところとべないよ。こわいよ)
誰でもできるのだと思っていた。自分にできることはほかの人間にもできるのだと。洋平には何でもない高さだったのだ。乗り越えた壁の向こうで、仲間の悲痛な叫びが聞こえる。
(助けて洋平君! つかまりたくないよ。こわいよ。おねがい、助けて! ぼくを見捨てないで!)
その時盗んだはずのパンは、いつの間にかどこかへいってしまっていた。壁越しに仲間が大人達に捕まる気配を聞いて、それ以上そこにいることはできなかった。一緒に捕まる訳にはいかない。洋平は保身のために仲間を見捨てたのだ。幼い洋平は自分を正当化することもごまかすこともできず、ただ後悔と真っ正面から向き合って、自分を傷つけていった。
過ぎてしまった時間を正確になぞり続ける洋平の夢。忘れてしまいたいことばかりを、まざまざと鮮明に映し出す夢。
歩き続けていた洋平の前に、ふいに一人の男が立ちはだかっていた。ニヤニヤ笑いながら右手を持ち上げる。そこには、さっき洋平自身が盗んだパンの袋。
「腹が減ってたんじゃなかったのか? いいのか? 食っちまって」
その瞬間、洋平の中で頭をもたげたのは泥棒としての矜持だった。それは、自分が盗んだものを他人に奪われたくないというプライド。なくしてしまったのならそれでいいが、もらうぞと言って持っていかれるのは屈辱だった。
ぶら下げられた獲物に洋平はすばやい動きで飛びついた。しかしその手は宙を泳ぐ。男は一瞬早く獲物を移動させたのだ。
「……驚いたな。お前、まるでウサギみてえに身が軽いじゃねえか」
男の言葉に、洋平はほんの少しの間だけ忘れていたことを思い出した。身が軽い自分。そう、洋平の身の軽さは特別なのだ。仲間の少年にはできないことができる。それを知らなかったからこそ、洋平は仲間を見捨てることになったのだから。
そんな、後悔に彩られた洋平を、男は少しの間見つめていた。やがて手にしていた獲物を路地の隅に放り投げる。はっとして手を伸ばそうとする洋平に言った。
「やめとけ。それじゃ乞食だ。……もっと効率のいい盗み方を教えてやる。来るか、ウサギ」
それまでの洋平はホームレスと呼ばれる人種とたいした違いはなかった。ホームレスと泥棒に違いがあることも判らなかった。このまま浮浪者になるのか、泥棒になるのか。洋平は人生の選択を迫られたのだ。
プライドがある。乞食と言われたらたとえ空腹であっても捨てられた獲物に手を出せないと思うくらい強いプライドが。
その後しばらく、洋平はウサギの名前で呼ばれることになる。
花道と流川の筆舌にたえないけんかの最中から、洋平の携帯電話が鳴り始めていた。そのため結果として彼らのけんかは中断せざるを得なくなってしまった。一つ切れば次が鳴る。とてもじゃないがけんかを続ける余裕はなかったのである。
「 ―― 何度も言わせるな。レッドフォックスの情報屋は決まってる。そっちに入った情報じゃなけりゃ受け付けねえ」
そのほとんどが下っ端連中の情報の売り込みである。あまりの多さに必要な情報が入りづらいと考えた流川は、正当な情報筋の連絡先を流川の携帯番号に変更しなければならなかった。その内容にしたところで、関係あるのかないのか判らないものから、明らかに関係ないと判るものまでさまざまである。途中入った絵画ブローカー大楠雄二からの情報も、その例に漏れなかった。
『それがラビット本人かどうかは知らねえよ。それにそいつが言うにはもう十年以上も前の話だって事だし。そいつが出入りしてたウルフって泥棒のとこにまだ十才そこそこのウサギって子供が囲われてたんだ。年回りから言や、そのウサギがラビットだっておかしくねえ。……だからどうしたって言われたって困るぜ。ただその子供はウルフが警察に捕まるまでの二年間くらい、ウルフと一緒に泥棒やってたって事だけなんだ。……ただ、そのウルフの捕まり方ってのが、ちょっと不自然だったらしいんだよな。ウサギもその直後に姿消したから、もしかしたらウルフはウサギに裏切られたのかもしれねえって……ま、こりゃそいつの憶測だけどな』
万事が万事、こんな調子である。根拠もなく関連性も判らない断片的な事実だけを情報として送りつけられる。この情報を吟味し組み立てて結論を導きだすのが情報屋の手腕なのだ。流川は情報の専門家を牧も含めて三人抱えられたことに、心底ほっとしていた。
「そいつは洋平じゃねえよ。そのウルフって泥棒がどんな奴か知らねえけど、世話になってたんなら洋平は裏切ったりしねえ。もしもそのウサギが洋平だったとしたら、ウルフが勝手にヘマこいたに決まってら。あぶねえから逃げたんだよ、洋平は」
花道の言葉をそれほど突拍子のないものとは思わなかったが、これまでの情報を照らし合わせると、水戸洋平という名前と裏切りという単語はあまりに密接に結びついている気がする。その裏切りがどこまで事実かは判らないが、水戸洋平という人間の中に勘違いされるだけの要素は確かに存在するのだろう。事実流川はさほど驚かなかった。むしろ、花道のとらえ方自体が特殊なのだ。
自分の信じたいものを信じ、そのために事実すら曲げてしまおうとする。花道には事実を事実のままとらえるという能力はないのだ。花道のその能力を補佐するために存在していたのが水戸洋平だった。水戸洋平が緩衝材となって初めて、花道は事実を事実として認識することができるのだ。
花道にしてみれば、回りを認識する土台自体が崩れつつあったも同じだった。このままでは長いこと持たないのは花道の方かもしれない。
流川に対するライバル意識や反感で花道の感情を操作することには限界がある。大きな問題を抱えながら、流川はそれでも逃げ出そうとは思わなかった。何のことはない、流川は花道を仲間としてしっかり認めているのだ。
それはもうとてつもなく手のかかる子供であったけれども。
男はウルフと名乗った。
本名を聞かれず、ただウサギとだけ呼ばれた洋平は、ウルフの住む場所へと連れてこられ、寝食を共にし始める。ウルフの住家は荒れ果てたプレハブの建物だった。もちろん無断借用だったので、持ち主が選挙事務所に貸し出したりするときにはバレないように移動しなければならなかった。
ウルフとの生活はそれまでとたいした違いはなかった。ただ、一つだけ違っていたのは、ウルフがホームレスでも強盗でもなく、泥棒であったということ。
「人間には善良な奴とそうでない奴がいる。それはどこで見分けるか。簡単だ。泥棒にとっての善良な奴は金を持ってない奴で、そうでない奴は金をしこたま持ってる奴なのさ。善良じゃない奴から盗むのが真の泥棒だ。どうだ? 判りやすいだろ?」
泥棒にとっての善良な奴。目の前の人間が善良であるかそうでないのか見分ける方法で、これほど単純な見分け方はなかった。自分が泥棒である限り悩む必要はない。要は、金持ちから盗めばいいのだ。
生活をし、ウルフの盗みを手伝いながら、洋平はさまざまなことを覚えていった。ウルフは必要以上に洋平に優しくしようとはしなかった。しかしそれも偽りの優しさを向けられ続けてきた洋平には、かえって真実のような気がしていた。ウルフに対する信頼が芽生えてくる。だがしかし、ウルフが教える世界はもっと辛辣だった。
「ウサギ、人間は裏切るもんだ。オレも裏切る。お前も裏切る。裏切ることを恥じちゃいけねえ。そういう生き物なんだ、人間て奴は。……裏切る奴は悪くねえ。悪いのは裏切られる奴だ。だから誰も信頼するな。オレのこともだ。いつも回りに神経巡らせて、いつ裏切られるか見張ってろ。裏切られる前に裏切れるようにしてろ。眠ってるときだって安心しちゃいけねえ。信じられるのは自分だけだって事、覚えとけ」
ウルフの言葉を聞きながら、夢の中の洋平は半分納得し、半分疑問を持つ。自分が裏切る人間だということは知っている。だが、裏切らない人間もいた。自分が知っている事実よりも信じたいものがある。裏切らない人間が存在することの方を、本当は洋平は信じたかったのだ。
夜、安心して眠れる場所を欲していたのは洋平だった。洋平すら寄せつけず、背を向けたまま眠るウルフ。洋平が近づけば必ず目を覚ますウルフ。そのウルフの傍らで守られて眠りたかった。たとえ寝首をかかれても、信じたまま眠ってしまいたかったのだ。
身体に痛みを感じた。
混濁した意識が現実に引き戻されるのは一瞬だった。夢から目覚めるとき誰もがそうであるように、ほんの一瞬だけなにもかも判らなくなる瞬間がある。空間も時間も消え去り、自らが置かれている状況に困惑する。目を開けて洋平が最初に見たものは、暗い場所の石の壁だった。
(……痛ぇ……!)
どこが痛いのか判らなかった。ただ、夢から醒めた瞬間、洋平は自分の時間を取り戻していた。眠っていた自分がどういう状況にあるのかを本能的に探ろうと身体を動かす。痛みに悶えつつ寝返りを打った洋平は、そこに二人の人間を見つけたのだ。
(しまった! 無防備でオレ……)
最初に思ったのは、自分がなんの警戒もせず二人の人間を近づけてしまったことに対する後悔だった。しかしその顔を見て更に困惑する。この二人には確かに記憶がある。
「目が覚めたか、水戸。まさかオレの顔忘れたとか言わねえよな」
ようやく目が慣れてきた洋平の目に映る風景は、どうやら地下室のような天井の低い石造りの部屋。目の前にいるのは、夜ごと洋平を苦しめ続けてきた夢の中の男。
(三井……それから、宮益)
夢の続きなのかもしれないと本気で思った。しかし、痛みがその考えを押しとどめる。この身体の痛みは本物だ。そしてそのころには洋平は自分の痛みが脇腹からくるのだということも判っていた。
最後の記憶をたどる。盗みの最中川縁を走っていた。その時身体にショックを感じて、洋平はどこかに飛ばされたのだ。空中をくるくる回る一瞬のうちに何を思っただろう。そう、自分は思ったのだ。とうとう殺された、と。
しかし死ななかった。洋平は回りを見、頭を巡らせる。それは反射的な行動だった。しゃべらずにいて手に入れられるだけの情報をまず最初に集めること。考えるのはそのあとのことだ。
「なんだよ。しゃべる元気もねえのかよ。宮益、ほんとに目が覚めたんだろうな」
「覚めてるはずだ。た、ただ……薬のせいで少し混濁しているかもしれないが……」
「薬は全部抜けてねえのか? ……ったく、まどろっこしいぜ」
三井は洋平に近づいて、その胸倉を掴み上げた。洋平の身体に痛みが走る。だんだん徐々にではあるが、薬の効用が切れつつあるのだ。意識の方はだいぶはっきりしていたが、薬が完全に抜ければおそらくかなりの痛みに襲われることだろう。そうなればこの状態をどうにかするどころではなくなる。洋平の頭の中の忙しい計算は、三井の目にはただの混乱にしか映らなかった。
「あのときお前はオレに何をした? てめえはサツにオレ達を売りやがったんだ。オレが矯正施設で地獄の苦しみ味わってる間も、てめえはのうのうと暮らしてやがった。恨まれてねえなんて思っちゃいねえよな? オレがてめえに復讐するのは当然の権利だろ。オレが味わった以上の苦しみを味わわせてやるからそのつもりでいろよ、水戸洋平」
言いおえて、三井は洋平を壁に叩きつける。身を捩った洋平は微かな呻きを漏らした。その声に、今までまるで無反応だった洋平に対してつのらせていた三井のイライラもいくぶん解消された。
「まあいい。まだオレにはたっぷり時間があるからな。ゆっくりいたぶってやるさ。その時にはだんまり決め込むわけにはいかねえだろうよ」
一度洋平の腹を軽く蹴り上げて、痛みに身悶えする洋平を笑ったあと、三井は宮益を伴って地下室を出ていった。これみよがしに鍵をかける音が響く。遠ざかる足音を注意深く観察して距離を測る。さらにむこうの扉を閉める音が響くころには、洋平はある程度自分の置かれた状況を把握していた。
盗みの最中に洋平は撃たれ、気絶したままさらわれたのだ。そしてここにつれてこられた。どのくらい眠っていたのかは判らない。今がいつなのかも。つけていたはずの時計や銃は外され、衣服のたぐいはすべて違うものと取り替えられていた。あのとき持っていたものはそれですべてだ。もしも絵画や道具関係を持っていたとしたら、仲間達に迷惑をかけることになっていただろう。
傷の具合を確かめる。痛みだけでもかなりの傷と判るし、自分一人で立ち上がることはできても歩いて遠くへ逃げることは不可能らしかった。洋平の得意とする飛んだり跳ねたりも無理である。この地下室から外へ通じるのは先ほど二人が出ていったドア一つだけで、その他には驚くほどなにもない。洋平はまず一番最初にトイレの心配をした。今度三井がここを訪れるまで我慢できればいいのだが。
(参ったね、これは)
洋平は悲観的な質ではないが、そう楽観的という訳でもない。誰かが助けてくれるなどとはそもそも考えもしなかった。仲間達は探しているかもしれないとは思うが、そう思うだけで期待はしていない。結局自分を助けるのは自分だけなのだ。
かつて三井を裏切った事がある。それは事実で、誰にも関わりのない自分だけの問題だった。言ってみれば自業自得である。もちろん洋平自身が悪いことをしたとは思ってはいないし、一番悪いのが三井であることは疑いようのない事実である。だが人は時として逆恨みをする。恨まれるのもまた、真実なのだ。
自分を助けるのは自分だけ。自分のしでかしたことの尻拭いをするのも自分以外の誰でもない。誰も助けにはこない。むしろ、来ないでくれた方がいい。
命をかけた脱出は、洋平をかつてないほど高揚させる。
洋平が自分の力で無事に三井の手から逃げることは、同時に怪盗レッドフォックスからの離脱をも意味していたのだ。
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