ライセンス



 今がいつなのか、洋平には判らなかった。
 遠い昔の、自分でも忘れていたくらい昔の夢。その時自分がいくつだったのかすら判らない。ただ、その記憶は洋平の生まれて最初の記憶だった。
 目が覚めたとき、それまでの回りの様子とは一変していた。好きだったはずの両親はおらず、一人の少年としてごく当たり前だった生活も失っていた。見も知らない大人たちに囲まれて呆然とする自分がいる。中の一人に両親は死んだのだと聞かされて、洋平は多くの子供達が暮らす施設へと放り込まれたのだ。
 洋平が信じていた世界は一瞬にして崩れ去った。表面的な優しさをふりまく大人達と、それまで自分が接してきた子供とは明らかに違う目をした子供達。泣くことも叫ぶこともできず、礼儀正しく過ごすことだけを強要された。環境の激変に適応するだけの能力は、その時の洋平にはなかった。
 息苦しさに眠れぬ夜が続く。喘ぎ続けてそこに辿り着いた。
 子供の時間は終わっても、大人達の時間はまだ終わってはいなかった。明かりのもれる部屋の前で耳にした自分の名前に、洋平は足を止める。
  ―― ……洋平君自身はぜんぜん悪い子じゃないのよ。むしろ被害者じゃないの。御両親があんなことになって……
 洋平は聞き耳をたてる。盗み聞きが悪いことだとは思わなかった。だが、大人達に気づかれてはいけないことだけは理解していた。
  ―― そんなことは判ってる。だけど、あいつの父親が人を殺したってのは事実だろう? どんな形であれ、人の命を奪ったって事は許される事じゃない。
  ―― それはそうだけど、でも ――
(自分の父親が、人を殺した……?)
 信じる信じない以前に、洋平はその言葉の意味をすぐに理解することができなかった。それ以上の大人達の会話は耳に入らず、ふらふらとその場を離れる。夢の中の洋平はまるで泳ぐような動作で建物の外に出た。そして、一つ一つ理解するのだ。あの部屋にいた男の先生がいつもどことなくよそよそしく接していた理由も、自分がここにつれてこられた訳も、優しかった父親が人を殺したという、その本質的な意味も。
 世界征服をもくろむ悪に立ち向かって平和を守るのがヒーローだった。悪は人類の敵の顔をして、たくさんの人を殺す。ヒーローはそんな敵達を悪逆非道と言ってののしるのだ。洋平はいつもヒーローだった。あこがれるのはヒーローだった。
 人殺しの子。悪逆非道な人類の敵の子。
 大人達の不用意な一言で、洋平は自分を追いつめていく。洋平自身は悪くなくても、父親は人類の敵。そして洋平には同じ血が流れているのだ。誰も自分を愛さないだろう。そしていつか、自分自身も人を殺すかもしれない。
 その夜、洋平は施設を飛び出す。優しかったはずの両親を思い出せない夢の中の洋平は、ふらつきながら夜の街をさまよってゆく。何を求めるのか。今夜のこの夢で洋平が求めるのは、赤い髪をしたこの状況にもっとも不釣合な男だった。
 不器用なほどまっすぐな目で洋平を求める心。純粋な心。逃げ出したかったのは、自分の過去をこの心に知られる訳にはいかないから。この心に蔑まれることほど、つらいことはないのだから。
 記憶の奥底に封じ込められた洋平の昔。それはそうであるがゆえに洋平の奥底で今も疼き続けている。

 牧の車で適当な場所に送られてからも、そこからマンションまでの道程も、花道はずっと黙ったままだった。
 流川もあえて口を開くことはしなかった。花道がおとなしいのは普段であれ今であれ歓迎すべき事態であった。流川の方も、今日一日で得た情報を頭の中で整理することに忙しかったのである。マンションまで帰りつくと、時刻は十二時を回っていた。
 何と長い一日だったことだろう。もう少しで洋平がいなくなってから二十四時間が経つ。丸一日という時間は、二人にとっての洋平の存在の意味を根底から変えてしまった。今まであたり前のようにそばにいた洋平は、いなくなることで二人に自分の存在の大きさを知らしめたのである。
「風呂先に使う」
 流川の言葉に、それまで無口だった花道はようやく反応していた。
「待てよ。オレが先だ」
「……いいけど」
 既にバスタオルも用意し風呂に入りかけていた流川であったが、ここでけんかしてもしょうがないので素直に順番をゆずる。そもそも流川というのは人に気を遣うということをまずしない男である。予想された抵抗がなかったことに、花道は改めて流川の態度に苛立ちを覚えていた。
「てめえナメてんのか! なんでいつもみてえに向かってこねえんだよ! てめえのけんか相手にオレは不足だって言いてえのかよ!」
 今の花道はいつになくむちゃくちゃである。自分だってさっきまでは流川とけんかしないようにつとめていたのだ。
 流川の方はもともと花道の相手などで時間をつぶすことを生活のパターンとして持っている訳ではない。それは洋平の役目であったし、今夜は静かにおとなしく情報を整理して明日に備えたかったのである。明日は明日で何があるかは判らない。体力をつけてしっかりした頭で望まなければ、罠に嵌められてとんでもない羽目になる。花道に期待が持てない流川は、そんな緊張感で一杯だったのである。
「てめえにつきあってバカなことに費やす時間はねえ。先に風呂に入りてえならさっさと入れ。明日も水戸を捜さなけりゃならねえんだ」
「誰がバカだ誰が! こんなことになったのはてめえのせいじゃねえかよ! だいたいてめえらみてえなスナイパーがいっから洋平が撃たれるなんてことになんじゃねえかよ! 全部てめえが悪いんだ! この人殺し野郎!」
 花道がまくしたてた言葉の中には流川にとって触れられたくないようなこともあったし、耳の痛いことも、まったくのぬれぎぬもあった。それらをすべて統合して、流川は花道に怒りを一番強く感じた。しかしそれも一瞬のことで、すぐに思い直す。花道の言葉などまともに受け取ることはないのだ。
「バカじゃなけりゃガキだ。眠いからってかんしゃく起こすんじゃねえ。いい年して人にあたるな」
「うるせえよ! オレは悪くねえ! 洋平が帰ってこねえのはてめえのせいなんだ! オレがバカだからじゃねえよ……」
 訳の判らない花道の癇癪にとまどいつつも、流川はようやくその意味を理解していた。花道の洋平に対する信頼は、あまり根拠のない土台の上に成り立っていた。不安定で、少しの刺激で簡単に揺らいでしまう程度のもの。それでも洋平がいたときにはどうにかバランスを保つことができていたのだ。
 見捨てられることに対する恐怖を歪みとして抱えた花道は、洋平の裏切りに対して平常心でいることができなかった。裏切られたくないからといって洋平を見捨てることができないところに、花道の弱さがある。本当は信じたいのだ。洋平が花道の信頼を裏切ることはありえないのだと。
 花道の自信過剰な一面は、根底の自信のなさの裏返しである。洋平が帰ってこないのは洋平が裏切ったからではない。裏切ったのではないが、自分を嫌いになったのかもしれない。いや、洋平が嫌いになったのは自分ではなく流川なのだ。花道の特殊な心理構造は、むちゃくちゃな理論立てで流川に責任を押しつけることによってバランスを取ろうとしていたのである。
 そのすべてが流川に判った訳ではない。ただ、花道が流川がそうであるように洋平を信じきってはいないということ、それだけの強さは花道にはないのだということは、はっきりと理解したのだ。
「水戸はいなくなった訳じゃねえ。掠われたんだ」
「判ってら! さらった奴は何とかって傷のある男だろ!」
「そいつは水戸に裏切られたんだ。だから水戸に復讐しようとしてる」
「洋平が裏切る訳ねえだろ! 洋平はそんな奴じゃねえ。なんか勘違いしてやがんだそいつは!」
「……そう思うんだったら何で自分で信じねえ」
 流川の言葉は花道の中にある種の衝撃をもって迎えられた。言われてみて初めて気づいた真実。花道は、言い訳を考えることだけに熱中して、一番単純なことを忘れていたのだ。
 悪いのは流川ではない。花道自身でもない。洋平が悪いのかどうか、今の時点ではよく判らない。だが、一番悪いのは顎に傷のある男なのだ。洋平をさらったその男こそ、非の打ち処なく悪い男なのである。
 そもそも洋平の裏切り(そんなものがあったとしての話だが)は、男のしようとしていた盗みが悪い盗みだったのが最大の理由である。花道も泥棒であるから、自分のしていることが悪いことなのだという自覚はある。この場合の悪いこととはつまり、社会を構成する一員としての悪いこと、という意味である。たとえば今この社会に花道以外の人間が一人もいなくなってしまったのなら、誰の家から何を盗もうと自由である。生きるための食べ物や衣服などを盗むのは、社会的に悪いことでも人間としては許されることになるのである。つまり、花道の盗みは人間として生きている以上しなければならない盗みであり、花道の中で正当化された行為なのだ。
 ところが男がしようとしていた盗みは、不特定の人間の健康を害する盗みである。自分で使う薬であればなにも言うことはなかったが、そこに盗み盗まれる以外の第三者が存在し、その人間を不幸にするのであれば、それは悪い盗みである。罰せられるべきは悪い盗みをしようとし、洋平に悪い盗みをさせようとした傷の男なのだ。
 流川に言われて初めて気づいた。問題は洋平が誰かを裏切ったかどうかではなく、花道が洋平をどれだけ信じることができるかなのだ。
「どうすんだ。風呂に入るのか、入らねえのか」
「……入る」
「出たら呼べ」
 部屋に戻ってゆく流川の背に、花道は改めて不思議なものを感じていた。これだけ的確に花道の欝屈を理解できる男。その意味は一つしかないように思われたのだ。
「流川!」
 ドアを開けようとした流川はその呼びかけに振り返る。いつもの流川の無表情を睨まれているように感じるのは花道の心もとなさ。
「お前……洋平のことが好きなのか?」
「……てめえよりずっとな」
 思っていたよりもあっさり言われた言葉に、花道は言葉の意味を正確に理解することができなかった。そのまま流川は部屋に消える。流川はいったい何と言ったのだろう。花道のことより洋平のことが好きだと言ったのか。それとも、花道が洋平を想っているよりも強い心で、洋平を想っていると言ったのだろうか。
 どちらも本当のような気がした。そして、どちらの言葉であっても、花道にはこの上なく不本意な言葉だったのである。
「ばっきゃーろー! オレだっててめえのことなんか嫌いだし、オレの方が洋平のことたっくさん好きなんだよ! ふざけんじゃねえキツネオタク野郎!」
 そして ――
 捨て科白を吐いて風呂に入る足音をドア越しに聞いた流川は、更に大きなため息を吐いたのである。

 悪夢にうなされながらもただ眠っているだけの洋平を眺めるのは、三井にとってそれほどおもしろいものではなかった。
 鍵のかかる地下室は、元々洋平が逃げ出せないようにと用意された部屋である。だが、今ここに眠る洋平に必要な設備ではなく、三井は予定を変えて洋平を環境のよい二階の一室に寝かせることにしたのである。寒すぎる地下室ではせっかく捕まえた洋平の命をむざむざ縮めることになってしまうのだ。三井が調達した薬や機材のおかげで今のところ容態は安定していたので、三井は部屋を出て、階下のリビングへと足を運んだ。
 だだっぴろい森林に囲まれた私有地に建つ別荘である。丘の上の建物はまるで陸の孤島であった。雇い入れた数十人のボディガードが建物の周囲を巡回しているが、未だまったく異常はみられない。それもそのはずである。洋平の仲間たちがここに来ることは、まずありえないのだ。
「三井、水戸の様子は?」
 階段を降りてくる三井に気づいたのだろう、一人の青年がソファから立ち上がって言った。三井ほどの長身を持つ、眼鏡をかけた青年。
「かわりばえしねえ。……ったくあのスナイパー野郎はどこ行きやがった。言ってやりてえことが山ほどあんのに姿見せやしねえ」
「ゴッドならさっきボディガードを一人つれて銃の練習に出かけたよ。一日休むと腕が落ちるんだってさ。大変だね、スナイパーも」
「木暮、ゴッドが帰ってきたらオレが呼んでるって言ってくれ。……コーヒー頼む」
「疲れてるみたいだな、三井。今いれるよ」
 実際のところ、三井はそれほど疲れているわけではなかった。体力にたいして自信はないが、年齢はまだまだ若い。一晩や二晩の徹夜はお手のものである。それだって悲願の復讐のためだと思えば疲れも吹き飛ぶというものだ。しかしやっとの思いで捕らえた洋平が目覚めもしない怪我人では、精神的疲労が倍増してしまうのである。
 張り詰めていた五年間の想い。日々の辛さは復讐という目的があってこそ耐えることができたのだ。木暮という協力者を得て、今やっと実現する。自分が味わったと同じ地獄を洋平に味わわせるのだ。
「三井」
「……ああ、サンキュ」
 やや温めのブラックアメリカン。テーブルの上に置いて、自らも腰掛ける。
「ゴッドはよくやってくれたと思うよ。あの距離であの暗闇で狙撃するだけでも大変なのに、殺さずに川に落とすなんてやっぱりすごいんだよゴッドは。狙撃の神様の異名をとるだけのことはあるよ」
「……そうかもな。だけどむかつかねえか? 最初にオレ達の復讐の話したとき、あいつは言いやがった。『理由はけっこうです。金額に見合う仕事をするだけだから』……莫迦にするにもほどがある。オレはそういう奴は大っ嫌えなんだ」
「……なんだ。結局三井はゴッドが気に入らないだけなんだ。同情して欲しかったのか?」
「馬鹿野郎! そんなんじゃねえよ!」
「ごめんごめん」
 三井がイライラしても無理はないのだと木暮は思う。今までの五年間、三井はずっと待っていたのだ。その気持ちを察するのは木暮にはそう難しいことではなかった。まるで子供のように引くことを知らず突っ走る三井は、そのプライドを刺激するゴッドのような人種とは一番馬が合わないのだということも。
「ゴッドは結局ビジネスライクな人間なんだから、いちいち関わっても腹が立つだけだよ。それより、さっき宮益が言ってたけど、水戸は思ったほど回復が遅い訳じゃないらしいね」
「どういうことだ? 意識が戻らないんだろう?」
「そう言うと聞こえがいいけど、実はただ単に眠ってるだけなんだってさ。ほら、三井が調達してきた栄養剤、あれのせいで身体が起きようとしないんだ。点滴やめればたちどころに目が醒めるよ。激痛で」
 それまでゴッドにのみ向けられていた三井の怒りのほこ先が変わりつつあった。丸一日以上待ち続け、栄養剤を調達し、日当たりのよい部屋を占領されて、三井もいいかげん切れかけていたのだ。どうにかこうにか切れなかったのは、意識のない洋平に対して精神的苦痛を与えることはできないのだという、ただそれだけが理由だった。激痛で目覚めるのならば願ってもないことだった。洋平が痛みにのた打ち回る姿を見られたら、三井の気もいくぶん晴れるだろう。
「宮益の奴、オレを騙しやがって」
 立ち上がる三井を、木暮は笑って制していた。木暮にしてみればイライラしてゴッドに当たられるよりは宮益や洋平に怒りをぶつけてもらった方がかなり都合がよかったのである。
「今点滴外したらたぶん死ぬぞ。あせって自然死でもされたら復讐にならないじゃないか。オレ達には時間はたっぷりあるんだ。三井は五年も待ってたんだろう?」
 五年間は長かった。三井にとっては永遠のように長かったのだ。
「あと二日待てよ。そのころにはだいぶ体力も回復するさ。それに……もしもここの場所が奴らに知れても、その時には水戸の味方はいなくなってるはずだ」
 その木暮の言葉が、三井を動かしていた。そう、この場所は偶然で発見されることはない。今は探している洋平の仲間の二人も、この場所をつきとめられるほど水戸洋平という人物を知ったら、おそらく助ける気などなくなってしまうだろう。
「二日か。……五年に比べりゃ一瞬だ」
「そうだよ。そして水戸には残りの一生分の苦しみがある」
 人一倍しつこくねちねちした三井の恨み。洋平のせいで一生をめちゃくちゃにされたと思い込んでいる三井にとって、二日待つことは長くもあり、けっして長くはなかった。
 彼らには時間だけはたっぷりと残されているのである。


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