ライセンス
その光景は、今までに洋平自身が何度も目にしたものと、少しも変わることがなかった。
目の前の男はごく普通の不良少年だった。きっかけすら思い出せないくらい自然な出会い。二人の目的は同じだった。ただ、楽に生きたいということ。社会の枠内に生息する大人という生物に、とらわれず自由に生きたいということ。
洋平にとって、盗むことは日常だった。生きる糧を得るためのもっとも確実な手段で、唯一無二の方法。自分が一人ではなく、男を通じたたくさんの仲間とともにあるのだという思いが、洋平のそれまでの孤独を癒すかに見えたのだ。
洋平は知らなかった。男が立てた計画で、盗むものがどんなものであったのか。
それを知る場面から、洋平の夢のイメージは一変する。息もできないくらいに苦しい時。崩れ落ちる男への信頼。洋平の葛藤は精神さえ押しつぶしてしまうほどの圧力を与える。のろのろとした動作で喘ぎながら、たどり着く場所はいつも決まっていた。計画の四十五分前。電話ボックスで、洋平は裏切りを決める。
夢の中で叫び続ける男の名前。今日はどうしてもその名前を思い出すことができなかった。夢であることが判っているのに、目覚めることすらできなかった。
今がいつであるのか、夢の中の洋平には判らなかった。同じ夢のイメージを何度も何度もなぞり続けて、目覚めることもできず、近づいては遠ざかってゆく過去の場面を彷徨い歩く無間地獄に陥っていたのだ。
男の顎には、一筋の傷跡が残る。
流川が知る水戸洋平は、異常なほど用心深い男だった。ひとたび信用すると決めた人間であっても、折を見て徹底した調査をする。おそらく今現在花道とつきあいのある人間については、すべて調べは済ませていることだろう。それも、さりげなく探っているから、当の花道にはまったく気づかれてはいないはずだ。
一か月半ほど前、流川は洋平に、自分の銃砲ブローカー清田信長の話をした。一か月前に野間が調べた銃砲ブローカーが清田であることは間違いないと流川は確信できたのだ。あと少しで彦一に言われた午後五時が過ぎようとしていたが、流川は先に清田に連絡をつけ、花道を伴って待合せ場所へ向かったのである。
聞きたいことがあるとだけ言われて呼び出された清田は、そんな流川にかなりびくついていた。流川の恐ろしさは先日のエースの一件で骨身にしみていたところである。しかしもともと負けず嫌いでもあるので、あんな脅しなどたいしたことはないというように振る舞おうと心に決めていたが、一緒にいた更に怖そうな花道を見て、その仮面もあえなく剥がれ落ちてしまっていた。
「……なんだよフォックス。最新のカタログなら来月発売だぜ。今言われても困るからな」
それでも精一杯虚勢を張る。目の前の流川は先日の対談の時より更に神経を張り詰めさせていた。花道の方はといえば訳の判らない状況に引っ張り回されて機嫌は最悪である。だいたいここでこの男に会うことにどんな意味があるのか。彦一にいろいろ聞いてさっさと洋平を捜しに行きたいのに。
「一か月前、Fに何を頼んだ」
その質問に、清田の血の気がさーっと引いていった。この件に関しては依頼人から大金を受け取って口止めを約束されているのである。フォックスを選ぶか依頼人を選ぶか、どちらにしても無事には済まないだろう。
「勘弁してくれフォックス。信用なくしたらこれ以上この商売続けられなくなっちまうんだ。銃砲連盟に知れたらオレは永久追放だぜ。裏切り者はフリーでやってく訳にもいかねえ。マジで困んだよ。頼む、それだけは……」
Fとは信用代行人の一人である。あらかじめ金を支払い登録しておくと、電話一本でさまざまなことを代行してくれるのだ。たとえば、流川は現在、昔の仲間から隠れている身である。その流川がエースに連絡を取ろうとするとき、素直に動くとその痕跡をたどられて逆に自分が見つかってしまう危険性があるのだ。エースに迷惑がかかることもある。そんなとき、Fのような信用代行人を通せば、その危険性はゼロになる。流川はアメリカとフランスに代行人を置いて、万が一に備えているのである。
信用代行人は究極の信用商売。今回のような事態でFに何を聞こうとも答えてもらえる可能性はない。だから流川は少しでも可能性のありそうな清田のところにきたのだ。もちろん素直にしゃべってもらえるとは思ってなかった。
「名前は」
「言えねえ」
「住所は。どのあたりに住んでる」
「知らねえよ。知ってたって言えるか」
「何を口止めされたんだ。全部言ってみろ」
うしろで見ていた花道は、まどろっこしくてもう見ていられなくなっていた。流川の肩をつかんで脇に寄せながら清田に凄んでみせる。
「フォックス。こういう奴は一発殴りゃしゃべる。オレがしゃべらしてやる」
指をならして迫る花道に、清田はかえって救いを見たような気がしていた。清田にしたところで流川の不気味さよりも花道の単純さの方が判りやすかったのである。
「なんだよてめえ。赤毛ザル」
「んだとコラア! てめえだって野ザルじゃねえかよ! 素直にしゃべってお山へ帰りやがれ!」
「単細胞原始人め。オレがなにしゃべったっててめえにゃ判らねえよ。文明社会で生き恥さらしてねえで原始時代へ帰りやがれ」
「フンガーッ!」
花道が拳を振り上げて清田を殴ろうとするところ、流川は清田の手を引いて避けさせる。花道の拳は清田が背にしていた壁に減り込んだ。花道は拳を押さえてのたうち回ったが、コンクリートの壁のひび割れを見て、清田は我を忘れて顔面蒼白の様相になっていた。
「なにしやがるフォックス! 痛えじゃねえかよ!」
「てめえが殴ったら狙撃のときに顔の判別に困る。こいつはオレのブローカーだ。始末はオレがつける」
「知るかよ! コケにされたのはこのレッドだ! オレに引き渡せキツネ野郎!」
自称文明人の清田にとって、殴られることよりもこうして殴られたらどうなるかを実践して見せられることの方が、数倍も恐ろしかった。人間には想像力というものがある。一発殴ってしまえば拳の威力はそれだけの価値しかなかったが、殴らずにいて精神的に追いつめていく方が、限りない想像力を刺激してより効果的なのである。花道を無視して、流川は清田に向き直った。すっかり毒気を抜かれておとなしくなってしまっている。
「固有名詞以外なら言えるだろう。全部しゃべれ」
「……う、腕のいいスナイパー紹介しろって言われて、Fに連絡つけてもらったんだよ。そいつが一週間前にライフル買いに来た。銃の練習できる穴場教えて……それだけだ。あとは死んだって言えねえ」
「依頼に来たのはどんな奴だ」
「背が高くて……お前らより少し低いくらいか。若い二人組で、顎に傷のある奴がボスみてえだった。恨みがどうとか言ってて……フォックス、そいつらがいったい何なんだよ。何でそいつらのことでお前に脅されなきゃならねえんだよ!」
改めて気づいたように清田が言う。流川の方は、今清田が言ったことを頭にたたき込むことで精一杯だった。その質問には花道が答える。
「ラビットの命がかかってんだよ! 何だか判んねえけどこっちはむちゃくちゃなんだ! 何がどうなってんのか、生きてるのかそうでないのかすら判らねえ。もしもお前が言った二人組がラビットさらった奴で、ラビットにもしものことがあったら、お前はぜってえ許さねえからな!」
銃にかかわる商売をする清田であるから、自分が売る銃で殺される人間がいることは知っている。割り切らなければできない商売だった。清田はまったく知らない人間の命を金に替えているのである。そのことは承知している。
「ラビットが生きてることを祈ってろ。レッドより先にオレが殺しに来る」
承知はしているが ――
このとき清田は、本気で転職を考えていたのである。
「……ラビットさんて、情報関係には知り合い多い人でんな。判っただけでも三十人くらいいてました。それも割に善良な下請け連中ばっかりですねん。見習いたいくらいですわ。ブローカー関係も安全な人間だけですね。それもきっちり一人ずつに決めてたらしくて、それだけ見ても用心深いお人だったことは判ります。評判はそこそこ悪くはないんですが、どうも悪ふざけの好きなお人柄らしくて、けっこうそこかしこでぽろぽろ恨みごと言わはる御人もおられましてん。わいがここ何時間かで調べた限りでは、一年以上ラビットさんと付き合いのある人はいてはりませんな。もちろんそれ以上もお調べしてますけど」
彦一の情報にはそれほど目新しいものはなかった。しかし、最初に彦一と話したときよりはずいぶん状況も変化している。それを伝えることができなかったのだから、仕方がないと言えばそうなのだろう。
「牧って奴はどうなんだ。あの野郎もラビットと一年くらいの付き合いなのか?」
花道の方は、本人はよく計算できなかったが、洋平とはおおよそ三年ぐらいの付き合いである。最近一年のことしか判らないのでは情報屋に情報を頼む意味がないのだ。
「宝石ブローカーの牧さんはわいくらいのレベルの情報屋ではたちうちできまへん。あの御人はほんまもんの大物ですさかい、個人的なツテで食い込むよりあらしまへん。ただ、文字通りの善良なお人とは違いますから、いろいろ考えはった方がよろしいんとちゃいまっか」
「信用しねえ方がいいのか?」
「難しいとこですね。あのお人の一言で動く人数はわいなんかとは桁違いですから、味方につければこの上ない戦力になりますけど」
白黒のはっきりしない言い方に、花道は混乱しかかっていた。こいつはいい奴、こいつは悪い奴、とはっきり言ってもらった方が、花道には判るのである。
「まあ、今のところラビットさんにそれほどの恨みを持ってる人間はおらへん、ちゅうことでんな。レッドさんがラビットさんと知り合ってからはおかしな事件はなかったってお話ですから、何かあったとしたらその前ってことです。でも思うに、そうなりますとかなり根は深いでっせ。確かなことは言えませんけど」
「どうしてだ?」
「たいていの恨みは時とともに解決していく、っていうのが世の常です。その瞬間ならいざ知らず、三年も四年もためとく恨みなんて、相当のもんですわ。よっぽどしつこくねちねちした人間のすることでっしゃろな。それならそれで、どこか計算違いさえ起きてなければ、ラビットさんまだ生きておらはります。そこまでねちねちした人間が、簡単にラビットさん殺すとは思えませんから。
ま、しばらく見といてください。情報屋彦一の鉄壁の情報網、お見せしますから」
胸をたたいて任せといてください、と言う彦一は、自信に満ちた顔をしていた。
だがなぜか一抹の不安を隠せない二人だった。
牧に指定された場所に二人で出向いていくと、そこには牧本人は現われなかった。待っていたのは一台の車と運転手らしい男である。花道は牧の顔を知っていたので、二人は声をかけずにいた。すると男の方から声をかけてきたのである。
「ラビット運送の方ですね」
いぶかしみながらもYESと答える。
「牧様はレストラン『ボルドー』でお待ちです。どうぞ」
後部座席を開けて、男が言う。警戒しながら、二人は車に乗り、レストランボルドーにつれてこられたのである。
時間の遅いせいなのか、レストランには客の姿はなかった。十分に警戒して男のあとについて行く。と、店の奥から正装した一人の男がこちらに歩いて来るところだった。
「ジイだ、フォックス」
花道にしては精一杯小さな声で、流川に確認する。流川は牧を見るのはこれが初めてだった。色黒で、妙に迫力のある男である。仕立てのいいスーツを着て髪をきちっと整えた牧は、老けて見えるが実際年齢はもう少し若いのだろう。お互いに少しの距離を保って立ち、先に口を開いたのは牧の方だった。
「いろいろ確認しなければならないことがあってここまで来てもらった。オレが牧紳一だ」
「フォックスだ」
「大怪盗レッドフォックスの突撃隊長レッドだ。そんでもってラビットの親友だ」
「好きなテーブルについてくれ。夕食はごちそうする。もちろん情報料に上乗せするなんてセコいまねはしないから安心してくれ」
二人は今日は夕食を食べている時間的精神的余裕がなかった。牧の申し出はかなりありがたかったが、どうしても裏を読んでしまうのである。牧についていろいろな方面から少しずつ情報を得ていたせいもあるが、流川は大物という奴が基本的に嫌いだった。長いものに巻かれろ的思想は、流川の中には生まれつき備わってはいなかったのである。
だいたい店の中央に位置する円卓についた三人のもとへ、まずはスープが運ばれてくる。花道はすぐに匙をつけたが、流川はまだおいしく食事ができる心境ではなかった。
「ワインのいいのがあるが、どうする?」
「酒は信用できる人間とだけ飲むことに決めてる」
「レッドは」
「どこどこ産の何年物だとかもったいつけたこと言わなけりゃ飲んでやってもいいぜ」
花道にかかるとどんな最高級ワインも一本千円の安物よりも価値が落ちてしまう。注釈がつかないだけ、安物の方がおいしく飲めるのだ。
ワインが運ばれてくる。花道もそろそろ焦れかけていた。
「さあ、レッド、乾杯しよう」
「いいかげんにしろよ、ジイ。オレは別に飯食いに来た訳じゃねえ。……そりゃおごってくれるっつーのはありがてえけど、ラビットの話聞けねえんじゃここにいる意味はねえ。もったいねえが帰らせてもらうぜ」
花道の性急さは、流川の素人ぶりと同じくらい強力な武器である。立ち上がりかけた花道に、流川も従って立ち上がろうとする。この連携プレイには牧も苦笑しながら負けを認めない訳にはいかなかった。
「判った。悪かった。とにかく座ってくれ。最後の情報が届かないんだ。聞いてからと思ったが、とりあえず話を進めながら待つことにしよう」
二人が座ったのを見届けると、牧は少し表情を変えた。今までの人を食ったような顔ではなく、商売人の顔に。
「まだ条件の折合がついちゃいなかったな、フォックス」
表情に加えて、口調までが変わっていた。流川も緊張感をたぎらせる。
「言い値で買うと言ったはずだ。てめえを信じるか信じないかはこっちが決める。とやかく言われる筋合いじゃねえ」
「オレがただの……つまり、ラビットとは何の関係もねえ情報筋なら、それでいいんだ。だがオレもラビットとは多少の関わりがある。金だけの関係で情報流す訳にはいかねえんだ」
流川は思い出していた。この間の電話の時、この男が洋平の本名を呼んでいたということを。
「ジイ、そりゃどういう意味だよ」
「つまり、ラビットこと水戸洋平の個人情報がほかに流れたら、オレが困るってことだ。オレの情報はほかに流して裏を取ってもらっちゃ困るのさ。それにはオレを信用してもらうしかねえ。……できないならこの話はなしだ。オレはオレで勝手に捜させてもらう」
沈黙が流れていた。今この耳で聞いた話を二人が自分の中で理解するのに時間をかけなければならなかったために生まれた沈黙だった。洋平の本名を知っている牧。花道の中では、洋平と牧との関係の深さが自分より深いのか浅いのか、それだけが問題で、心配だった。流川の方はもう少し建設的だった。電話の時、牧は言ったのだ。洋平には、殺される前に二人と別れろと言ったのだと。もしもここで牧と二人の交渉が決裂して、牧が二人よりも先に洋平を見つけたら、牧は洋平を二人から遠ざけようとするだろう。それで洋平は助かるかもしれない。だが、それでは流川は困るのだ。
洋平がもとの通りレッドフォックスのメンバーにならないのでは、意味がないのだ。
「ほかへ情報流さなけりゃいいんだな」
レッドかフォックスか、どちらかの言葉を待っていた牧は、やや肯定的な言葉をもらってわずかに笑みを漏らす。フォックスは泥棒こそ素人であるが、対人間の交渉ではけっして素人ではないのだ。並みの想像力があったことに、牧は満足して言った。
「信頼だ。その言葉を聞かない限り、情報は渡せん」
「……判った。信用する。裏切れば今度はてめえがつけ狙われる番だ。命が惜しかったらオレとレッドを嵌めようなんて考えるな」
「オレは洋平が生きて幸せならそれでいいのさ。誰のところにいてもな」
口調を変えず、表情さえ変えずに言われたその言葉を、流川は不思議に信じられる気がしていた。遠い目をして悲し気に言われたのなら信じなかったかもしれない。
「もう一つ、報酬に関して条件がある」
「金なら払う。即金が無理な金額ならローン組む」
「言わなかったか? オレの情報は高い。ローン組んだところで払いきれるようなもんじゃないぞ」
この半年、泥棒稼業で流川も花道も平均的なサラリーマンの年収の数倍は稼いでいる。花道は情報屋の相場というものはだいたい知っているのだ。いくら牧の情報が高いと言ったところで、相場の数千倍以上にはならないはずだ。いくらなんでもそれではふっかけすぎというものである。
「いくらなんだ」
億単位ではきつい。数年はただ働きをすることになる。そんな流川の心配を裏切るように、牧は言ったのだ。
「報酬はフォックスアイ。それだけだ」
―― フォックスアイ。
それは数か月前、レッドフォックスが高頭家の屋敷から盗み出した宝石の名前だった。流川のたっての希望で盗んだそれは、今は流川の部屋で愛しのプラ・メールと合体している。
二つの巨大なルビーが仮面の形をした銀の板にはめこまれていた装飾品。ルビーには不純物が含まれていてキラキラしてきれいなものの、宝石としての価値はなきに等しい。時価数百万という値段だって、教会のオークションでついたもので実質ほとんど価値という価値はないのだ。
流川にしか価値の判らない宝石。あの宝石は、流川にとってはこの世に二つしかない宝石なのだ。
「何で、あんな宝石を……」
「お前らがフォックスアイを盗んで何か月かして、暁の美少年を盗んだだろう。彫刻を受け取るとき、オレはラビットに交渉したのさ。フォックスアイを売ってくれって。もちろん売っちゃもらえなかったがな。オレが最終的にいくら提示したか知ってるか? 一億だぞ一億」
「……一億う!」
叫んだのは花道だが、流川も同じくらいは驚いていた。
「言っちゃ悪いがあんな宝石に一億提示して、なおかつ売ってもらえなかったら正直言って腹が立つぞ。普通は金に目がくらんだラビットがフォックス、お前に交渉してるとこだ。ところがラビットは交渉すらしないで断った。 ―― 友情だかなんだか知らないが、それが値段だったんだ、お前らの」
「……」
「オレの値段は高い。お前らがもし、ラビットがお前らにつけたと同じだけの値段をラビットにつけるなら、取引に応じてやる。オレが欲しいのはフォックスアイじゃねえ。お前がつけるラビットの値段だ、フォックス」
―― 一億だ。これ以上引き上げようとしてもムダだぞラビット。こんな宝石にここまで高い値段つける奴はほかにはいないはずだ。
―― だからさっきから言ってんじゃんかよ。フォックスアイはフォックスのもんなんだ。フォックスが売らねえって言ってんのにオレが勝手に話進める訳にゃいかねえんだって。五百万が一億になったって変わらねえよ。判んだろ? 牧。
―― どうしてだ? 一億ありゃしばらく遊んで暮らせるぞ? 食えもしない宝石持ってるよりは何倍も価値があるだろう。
―― オレにとっちゃ一億の金より、フォックスの機嫌がいい方がずっと価値があるってことなんだよ…… ――
流川にとってのフォックスアイ。これを手放さずに金で代用できるのなら、一億だろうが払うつもりはあった。それだけの価値がフォックスアイにはあるのだ。だが、フォックスアイと洋平の命とでは、比べようもないほどに違った。確かに本人が言う通り、牧は高い。
「判った。フォックスアイを売る。それだけの価値はあんだろうな」
「損はさせないさ。……おっと、ちょっと待ってくれよ」
牧がふところから携帯電話を出し、一言二言会話を交わす。そのあいだ二人はほとんど忘れかけていた食事を再開し出した。冷たくなってしまったスープを飲みほすと、やっとサラダが運ばれてくる。食べながら、花道はぼそっと誰にともなく呟いた。
「ラビットはオレよりお前の方が大事だったのかな」
ごく違和感なく過去形を使った花道に、流川は花道の中での事の重大さを改めて思った。
「なに言ってやがる。あれだけラビットに迷惑かけといて」
「なんだとフォックス! オレとお前とじゃぜってえお前の方が迷惑だったぞ! 朝は起きねえしふらっと出かけちゃ飯食って来るし、てめえのために作った飯何食ムダにしたと思ってんだ! 人のこと言えたぎりかてめえは!」
腹が減っているときは思考も食事に偏る花道である。
「どっちを大事にしてるって訳じゃねえだろ。つまんねえ事考えるな」
「……そうだよな。ラビットはいっつもオレもお前も平等に扱ってた」
だから、不安になってもなんとかやってこられたのだ。三人の関係は正三角形ではなかった。花道と流川の間が広い、つぶれた二等辺三角形。
流川は気づかれないようにため息を吐いた。いつの間にか花道の操縦法を習得してしまった自分にあきれながら。
電話を終えた牧は、自分もサラダにフォークを突き刺しながら二人に言った。
「これで全部つながった。ちょうどよく取引が成立してよかったな。もう一度確認を取る。これからオレが話すことは、外部には漏らすな。いいな」
「判ってる」
それまでのブローカーや情報屋との会話で思ったほどの情報を得られなかった二人は、牧に対してもそれほど期待はしていなかった。しかし、二人の想像はまずもって最初の牧の一言で大きく裏切られたのである。
「ラビットをさらったのはほぼ間違いなく三井寿って奴だ。五年ほど前にラビット……まあ、当時の水戸洋平だな、あいつと関わりを持ってる。洋平を恨んでてもおかしくねえ」
洋平がさらわれて二十一時間あまり。牧に情報が届いてから十二時間経っただろうか。やはり牧はほかの情報屋とは桁が違う。
「根拠は」
「一か月くらい前から三井は屈強な兵隊を雇い入れ始めた。総勢五十人くらいだ。もともとこのあたりの人間じゃないのに、最近よく近くで目撃されてる。顎に傷のある男だ。そっちの情報網にもひっかかってないか?」
「……腕のいいスナイパーを雇ってる」
「三日前にモーターボートを借りて、今日の昼間返しに来たそうだ。もぐりの医者相手に医療機器の買い付けもしてる。それが今日の午前中。ただ、今の時点じゃ居場所までは判らねえな。見当もつかねえ」
「医者が一緒にいるのか? そいつは」
「三井はもともと医者の息子だ。一緒にいる医者はおそらく宮益とかいう奴だろう。総合病院の外科部長だった奴で、腕は確かだ。三井がその総合病院の院長の息子で、五年前に三井が起こした事件で院長と宮益が病院を追われた形になった。洋平はその事件に関わったんだ」
―― 三年も四年もためとく恨みなんて、相当のもんですわ。よっぽどしつこくねちねちした人間のすることでっしゃろな。
二人の脳裏に、彦一の言葉がよみがえっていた。三年四年でしつこくねちねちしているなら、五年なら更にしつこくねちねちしているのだろう。更にしつこくねちねちしているのなら、ますます洋平の生きている可能性は高いのだ。
希望はまだある。だが時間が経てば経っただけ、その可能性は失われる。
「いったい何やったんだよラビットは。その、三井とかいう奴に」
花道の言葉に、牧は言いづらそうに口ごもった。だが、二人の視線を受けてそれでも重い口を開いたのだ。
「洋平はそのころからいっぱしの泥棒だった。三井の親の総合病院から、三井は薬を盗もうとしてたんだ。それに協力したのが宮益。病院の薬物倉庫からそいつを盗んで外まで運ぶのが洋平の役目だった。……洋平は直前まで知らなかったと言った。自分が盗むはずのものが麻薬だって判ったとき、あいつはためらった。生きるために続けてきた泥棒は、あいつにとって直接自分の生活に繋がるものでしかなかったんだな。自分が盗むことによって麻薬中毒者が生まれるなんて事態は想像しちゃいなかった。泥棒は悪いことだ。だが、自分のしてきた泥棒とこれからやる泥棒とは、洋平の中では根本的に違ってたんだ。
オレは洋平が正しかったとは思っちゃいねえ。もっとほかにいいやり方はあったはずだ。だが、あいつが選んだのは最悪の手段だった。洋平は電話ボックスから警察に通報したんだ」
花道も、流川も、何も言うことができなかった。
二人がもっとも信頼していた洋平は、仲間を警察に売ったのだから。
「洋平の知らせでかけつけた警察に三井やほかの仲間は一網打尽にされた。その証言で宮益が協力していたことも判った。事は公になって、三井の親も病院を追われた。三井自身は矯正施設に入れられたが、一度事件を起こしたらそう簡単に立ち直れやしねえ。……恨まれるんだよ。どうやったって恨まれるんだ。名前を変えて、日本中転々として、それからの洋平は同じ場所に半年といたことがねえ。水戸洋平の名前はあのあたりじゃ裏切り者の代名詞だ」
裏切り者の水戸洋平。
「……嘘だろ……?」
「嘘ならいいんだろうけどな。そういう訳にもいかねえさ。しでかしたことを真っ白にすることなんかできねえ」
―― 裏切り者の水戸洋平。
「裏切る訳ねえじゃねえか。洋平は卑怯者じゃねえし悪い奴じゃねえし優しくて思い遣りがあってそんでもって……」
―― 裏切り者の水戸洋平 ――
「お前と会ってからなんだよ。洋平は一箇所に腰すえちまった。だから三井に見つかっちまったんだ。……よかったのか悪かったのか、洋平にとっては居心地がよかったんだろうな。それも判らねえがな」
同じフレーズのリフレインが、花道の中の洋平への信頼を打ち砕こうとしていた。仲間の信頼を裏切るのは、泥棒としてではなく、人間として最低のことだと思っていた。世の中で一番信頼していた洋平が過去に仲間を裏切っていたのだという事実は、花道の神話を崩したのだ。洋平に対する絶対の信頼を。
仲間を裏切った洋平。だから洋平は流川を受け入れたのかもしれない。同じように仲間を裏切った流川を。
「それを知っててどうしてあんたはラビットと付き合ってたんだ」
流川の言葉に、牧は自分にしか判らない微笑みを漏らした。
「裏切りは洋平の歪みだ。だがそんなものは洋平の一部分を構成するにすぎない。そういうことはレッドよりお前の方が判るだろう。それに、たかが洋平に裏切られることをオレが恐れるか。かわいいもんさ、洋平の裏切り癖なんて」
仲間を売るという最悪の裏切りをした洋平。その話を聞いた今になっても、流川には何のためらいもなかった。
流川の信頼は、花道と違って揺らぐことはなかったのである。
扉へ 前へ 次へ