ライセンス
二人が部屋に戻ってきたのは、平和な午後の昼下がりといった時刻だった。持ち歩いている携帯電話には、未だ身代金の要求も犯行声明もない。情報屋彦一の指定した夕方五時にもまだしばらくの時間がある。エースから連絡が入るにしても数日単位の時間がかかることは判っていたから、流川は帰ってくるまでの間宝石ブローカー牧にいかにして連絡をつけるかを考え続けていたのである。
いかな二人にも疲労の色が見え始めていた。当然である。二人とも昨日の夜から泥棒にかかり、それ以後一睡だってしてはいなかったのだから。だからといって眠ることができないだろうことも感じている。洋平の行方についても救いだす方法についてもなんのメドも立たない今の段階で眠ることができるほど、二人は太い神経の持ち主ではなかったのだ。
部屋の中には着衣回収袋が出されたときそのままの格好で転がっている。盗んできた絵画も壁に立てかけてある。帰ってきてから次々に飲み散らかしたビールやジュースのたぐいも、リビングのテーブルの上で既にゴミの山となりつつあった。ソファによりかかりながら、ふいに流川は花道に言った。
「桜木、てめえはほかにいねえのか。水戸と共通の情報屋とか、ブローカーとか」
花道は黙って首を横に振った。知ってたらとっくに連絡をとっているだろう。花道は洋平と出会ってから数年というもの、情報関係や雑務をほとんど洋平にまかせきりにしてきたのだ。
そういう意味では、洋平は本当に賢いリーダーではなかったのかもしれない。うしろで何が起こっているのかメンバー達に知らしめるのも、真のリーダーの役目だったのだから。
「流川、お前の携帯、再ダイヤルって機能、ついてるか?」
思いついたように、花道が言った。その言葉に流川ははっとして三つ並んだ携帯を見つめた。
「……水戸の携帯にもついてる。再ダイヤルも、短縮ダイヤルも」
三人の携帯は音も違えば機種も違うのだ。しかし、必要な機能は全部ついている。よく使う番号は短縮ダイヤルに登録しておくというのは、むしろあたり前のことではないだろうか。
「洋平の短縮、片っ端からかけてみろ! 情報屋とかブローカーとか、もしかしたら牧って奴のもあるかもしれねえ!」
今まで気づかなかったのが不思議だった。極度の不安と焦りの中で考える能力が低下しているのだ。とにかく、今不足しているのは情報である。誰が、いったいなんのために洋平をさらったのか。洋平の回りの人間から攻めていくしか今の彼らにはできないのだ。
自分の携帯電話すら満足に扱えない花道は、洋平の携帯を流川に託すしかなかった。流川もそれほど機械に精通している訳ではなかったが、携帯電話くらいなら扱える。まずは再ダイヤルで電話をかけた。緊張のうちに呼び出し音は五回を数え、ようやく相手の声が聞こえる。
『もしもし……』
相手は名乗らなかったが、名乗らないときには名乗れない理由があるものである。たとえばすぐ側に人がいるようなところでは、うかつに符丁を使うこともできないだろう。
「こちらラビット運送」
洋平の符丁は間違い電話がかかってきたときのための防衛策も兼ねている。こう名乗れば向こうも電話の相手がラビットだと判るのである。
『ああ、高宮だ。なんか判ったのか?』
なんと、洋平が最後に電話したのは高宮だったのだ。待合せの約束をしていたのだとすれば当然だったかもしれない。
「いや。今ラビットの電話で短縮全部調べてるところだ。あんたに用はねえ」
『そうか。いい手だな。頑張れよ』
「そっちも頼む」
この調子で、流川は短縮ダイヤルの捜索を始めた。運のいいことに、短縮ダイヤルの一番は、宝石ブローカーの牧だったのである。
『はい、牧商事』
「ラビット運送だ。だけどラビットじゃねえ。オレはレッドフォックスのフォックス。宝石ブローカーの牧か」
電話の向こうの牧はすぐに反応した。牧はフォックスの顔を知っているのだ。
『狙撃屋フォックスか。そろそろかかってくるころだと思ってたぜ。ラビットが行方不明なんだってな』
「何でそれを」
『情報屋彦一と便利屋高宮が探り始めたからな。ほかの奴らも動き始めてる。オレの情報はほかより高いが、買うか?』
宝石ブローカー牧。流川の中で忙しく計算が働いた。この男を味方につけておいて損はない。この情報の速さはただの宝石ブローカーではありえないだろう。
「買う。時間と場所指定してくれ」
『悪いが今忙しい。夜の九時だ。場所は……』
すばやく記録する。流川も花道も、事態が一気に動きだしていることを感じて身震いした。すぐにも洋平が見つかるような気さえしたのだ。
「判った。必ず行く」
『ただし、一つ条件がある』
調子の変わった牧の様子に、流川は戦慄を覚えた。
『これからお前が誰に情報提供を頼むかは知らねえ。だが、オレの情報を買う以上、ほかで何を聞いてもオレを信じるんだ。できるか?』
昔、流川は一人の人間を信じた。その人間が間違っていたことを知ったときから、自分を信じろと言う人間を信じなくなった。
「根拠が判らねえ。都合よく動かされんのはまっぴらごめんだ」
『……そういう奴か。だから洋平には言ったんだがな。殺される前に別れろって。まあいい、待ってる』
「ちょっと待て! 今のいったいどういう意味だ!」
流川が言葉の最初の一文字すら言い終わらないうちに、牧は電話を切っていた。花道が会話の内容を聞き糾すうるささに耳を塞ぎながら、今の牧との会話の意味を考える。そして気づいていた。牧が最後に洋平の名前を呼んでいた事実に。
「流川! やっぱてめえが電話すんのが間違いだ! 内容話さねえならオレに携帯渡しやがれ!」
花道の科白はもっともである。流川よりもさらに話し下手な花道に携帯を渡す訳にはいかなかったので、流川もその重い口を開いていた。
「今夜九時にこの場所で会う。情報料が高い分できるだけ聞き出すからな」
「いろいろ知ってそうか?」
「知らなかったら殺せ。オレが許す」
泥棒は素人でも、プライドだけは譲れない流川であるのだ。
その手術に、医者はかなりの時間をかけなければならなかった。
腹部に残った弾丸の摘出。つぶれて役に立たなくなった臓器の摘出。切断された血管の修復に、切り裂かれた筋肉の縫合。それをすべて一人で行わなければならないのだ。患者の状態を知らせる最先端の計器類も存在しない。全身麻酔が可能なことと、輸血用の血液が用意されていたことだけが、幸運であるのかもしれなかった。
医師免許を剥奪されて五年になる。もぐりで弾傷を手術したことくらいはあったが、これほどまでの大手術を試みることになろうとは、本人も予測していなかった事態であろう。それも、殺してはいけないという至上命令つきである。冷や汗を拭いながら、医者はようやく手術を成功させたのであった。
なんにせよ若く体力もあり、なおかつ鍛えられた肉体である。そうでなければそもそも運ばれてくる間に命を落としていたところだ。医者をしていると一つだけ判ることがある。医者の腕以上に患者の生命欲が、生死を左右するのだということ。
「三井、終わったよ」
医者は手袋を外し、マスクを取った。気弱そうな小さな男である。眼鏡の奥できょときょとと落ち着きなく動く目が、ドアから入ってきた三井という男を心底恐れていることを物語っている。
「生きてるのか、宮益」
手術台に近づき、眠る患者が寝息さえ満足に立てていないことを気にしての言葉である。三井は宮益と呼ばれた医者とは対照的な印象の男であった。野生的に短く刈り込んだ髪と長身。そして、顎には一筋の傷。
「今は生きてる。ただ……栄養剤を調達してもらわないと、このままじゃ……」
「ふん、めんどくせえ。栄養剤だけでいいのか?」
「あと、点滴機材と念のため輸血用血液も五パックほど」
「もっと軽傷でつれてくる予定だったのにな。あのへぼスナイパーめ。かかった金額礼金から差し引いてやろうか」
それはやめた方がいいだろうと宮益は思ったが、三井の反応が怖くて口に出すことはしなかった。どちらにせよ患者は予断を許さない容態である。この重傷患者に自分はなんの好意もなかったが、生きようとしている人間を見捨てることなど、医者である宮益にできるはずがなかった。
「できるだけ急いでくれ、三井。体力が限界にきてるから」
「ああ、判った。オレが戻るまで生きてるようにそいつに伝えておけ。……今死んでおいた方が幸せかもしれねえがな」
捨て科白を吐いて、三井が部屋を出てゆく。宮益はのろのろとした動作で手術が終わったばかりの患者に毛布をかぶせながら、三井が今言った言葉を反芻した。
もしかしたら、この患者が今ここで死ぬ方がこれからの三井のためにはいいのかもしれないと思いながら。
短縮ダイヤルの二番は絵画ブローカーの大楠雄二だった。流川は携帯電話で打ち合わせ、指定された場所に花道を伴ってやってきたところである。
「赤い髪の方がレッドか? 違いねーな?」
この男は二人と会うのはまったく初めてである。男自身も金髪にカーリーヘアーで、赤髪の花道といい勝負というところであろうか。
「ああ、オレがレッドだ。ラビットの親友はオレの方だ」
先ほど便利屋高宮と会ったとき、花道はなんとなく目立ち損なってしまったようなところがある。流川の方が洋平に近い人間だと他人に思われるのがしゃくで、花道は一度誰かにそう言っておきたかったのである。
「オレはラビットの絵画専門ブローカー大楠雄二だ。ラビットは絵の販売ルートの方はオレに任せてる。今回レッドフォックスが盗んだ絵についても一応の口約束は取り付けてんだ。オレに売るってことでいいんだろ? ラビットの親友のレッド」
突然に絵の話をされた花道は、とっさになにも答えられずに黙り込んだ。しょせん目立とうと思ってもこういう微妙な場面での瞬間的な判断力は伴ってないらしい。大楠に言葉を返したのは流川の方だった。
「てめえはラビットのブローカーだがレッドフォックスのブローカーじゃねえ。ラビットが行方不明なんだ。本人がいなけりゃ絵の話はできねえ」
「ラビットが行方不明かどうかなんて絵には関係ねえだろ?」
「絵を売るのはレッドフォックスではラビットの役目だ。絵はラビットが売る。だがもしもラビットがみつからねえ時は、ブローカーはレッドが選ぶ。レッドのブローカーはてめえじゃねえ」
これは大楠にとっては予想外の出来事だった。大楠はラビットのブローカーである。ラビットのブローカーということは、レッドフォックスのブローカーであることと同義語だった。ラビットがいなくても絵は手に入ると楽観視していたのだ。この意外な展開に、大楠にも焦りが見え始めていた。
「ラビットとは値段の交渉も済んでんだ。いまさら売らねえじゃこっちにも都合ってもんがあんだよ。仁義外したらこの世界じゃやってけねえぜ、フォックス」
「オレもレッドもてめえにはなんの義理もねえ。その上レッドのブローカーの方が条件がいいとなったらそっちに売るのは当たり前だ」
「オレは信用で買ってんだ。多少条件が悪いのは仕方ねえだろ」
「てめえの信用の値段なんてオレは知らねえ」
こうなると、流川の素人ぶりは最大の武器になった。まるっきり泥棒というものを知らない人間に信用がどうのと説教したところで始まらない。何だかとんでもないことになったと、大楠は負けを認めない訳にはいかなくなってしまったのである。
「判った。ラビットを捜せばいいんだな。ブローカー仲間にあたってみる。その代わり、ラビットが見つかるまで絵は誰にも売るなよ」
「そんな余裕はねえ。安心しろ」
「ったく、妙なことに巻き込まれちまったよ」
絵の話をラビット捜索の話に見事すり替えた流川は、まるで自分が普段寡黙であったことなど忘れてしまったかのように饒舌であった。
そして、花道はさらにイライラをつのらせるのである。
短縮ダイヤルの三番は、情報屋の野間忠一郎であった。オールバックに口髭のオヤジくさい男である。しかし見かけほど年はいってないようだった。
「ラビットが殺されたとかなんとかデマが飛び交ってるぜ。発信源はお前らだろ」
人気のない場所で待ち合わせ、お互いの名前を確認したあと、いきなり野間は言った。流川が答えるより早く花道が言う。
「殺されてねえよ! 誰だか判んねえけどラビットのこと盗んでった奴がいるんだ! 絶対死んでねえ!」
花道にしてみればまどろっこしくて仕方がないのだ。洋平が盗まれたのである。洋平にかかわりのある人間が一致団結して捜索に乗り出す、というような図式が当然なのではないだろうか。期待と現実とのギャップにイライラは怒りに変わりつつあったのだ。
流川の方は花道よりは現実的である。泥棒の世界の常識にとまどいつつも、それなりに適応し、対処する術を少しずつ身につけていた。
「オレ達が話したのは情報屋一人と便利屋とブローカーだけだ。それがどうしてデマんなる」
そのうちの一人、情報屋彦一はまだ具体的な動きはしていないはずである。便利屋高宮は戸籍の方から調べると言った。絵画ブローカー大楠はブローカー仲間にあたってみると言っただけだし、宝石ブローカー牧には何もしゃべってはいない。この状況でどうしてデマなど発生するのか、流川にはさっぱり判らなかったのである。流川の経歴について洋平から情報を得ていた野間は、説明する労をあえて厭わなかった。
「ブローカーだろうが便利屋だろうが、この世界じゃみんな独自の情報網を持ってるもんだ。その情報網ってやつは必ずどっかしらの情報屋につながってる。たとえば、お前らが話したって情報屋、そいつは情報屋としちゃ独り立ちしてる奴だろう? 名前は?」
関係ない話を始めた野間に花道はまたイライラしていたが、しゃべりたい話を全部しゃべらせなければ必要な情報を得られないという情報屋の特性を知り過ぎるほど知っていたので、忍耐を自分に言い聞かせて質問に答えていた。
「彦一だ。相田彦一」
「あいつか。まあ、彦一みてえな独り立ちした情報屋には、必ず駆け出しみてえなセコい情報屋が何人もついてるもんだ。彦一が売る情報ってのは、そいつらが足で稼いだ情報なのさ。いわゆる下請けってやつだな。そっちに情報が流れると、他の下請けの奴らも探り始めるのさ。とくに高く売れそうなネタなら光速で広まっちまう。……要するに、そいつらにとってお前らはいいカモなんだよ。そのうちラビットの携帯の方にわんさか情報が集まるぜ。全部相手してたら破産だろうな」
野間の話は、流川の想像をはるかに越える恐ろしいものだった。それまでの流川の常識を大きく覆したのだ。流川も日本に来る前はそれなりに情報屋と取引をしたことくらいはある。しかし上っ面だけで、情報屋の深淵にまで深く首を突っ込んだことはなかったのだ。
「そいつらはどうしてラビットの携帯の番号知ってんだ」
「ラビットは今すぐ情報屋始められるくれえの情報マニアだぜ。下請けの人間最低二桁は知ってるはずだ。腕はオレより上かもな。……ま、余談だけど」
見境なしの金の世界。洋平が見つかるならいくらでも支払うつもりはあったが、ムダ金を使う気は二人には更々ないのだ。このお祭り騒ぎは二人にとって歓迎すべきものではなかったのである。
「どうすりゃカモにならねえですむ」
「情報屋を決めちまいな。そうすりゃ自然とそこに集まる。オレの条件としちゃ、情報言い値で買うってことだけだ。金額はリーズナブルだぜ、オレは」
ラビットの情報屋。流川は洋平のことは信用している。そして、洋平がかなり用心深い人間であることも知っていた。しかし簡単にこの男を信用していいものか、流川には判断がつかなかったのだ。用心深い人間は時として、信頼できない人間を選んで手元に引き寄せることもあるのだから。
「今んとこ彦一って奴がレッドフォックスの情報屋だ。レッドの情報屋だから間違いねえ」
「窓口はいくつか用意しておいた方がいいぜ。ガセネタに踊らされる回数が減る。彦一ってのはガセネタ専門みてえなとこもあっからな」
「てめえが信用できる奴かどうか判らねえ」
「そりゃあな。……手え切るのはいつでもできる。それに、オレはラビットの情報屋だ。個人的な情報も持ってるぜ」
その言葉が、流川を動かしていた。洋平に関わった人間のナマの言葉ならば、人伝に情報屋が集めた情報より格段の価値があるのだから。
「……判った。取引する。そのかわり少しでもおかしなことしやがったら契約はなしだ」
「ああ、見張りでもなんでもつけてくれ。なんなら宝石ブローカーの牧にでも聞いてもらったっていいんだぜ。オレは情報屋としちゃ善良な方だ」
宝石ブローカー牧。ここでも聞いた名前に、一瞬流川は野間から意識を逸らした。そのまま歩き去っていこうとした野間を呼び止めたのは、結局話に参加することのできなかった花道だった。
「ちょっとまてチュウ! ラビットのことで知ってること話すって約束だろうが!」
振り返った野間は目を丸くして、やがてニヤリと笑った。
「一か月前にラビットに言われて調べた銃砲ブローカーがいる。その時そいつは誰かと連絡取ろうとしてた。名前は『F』。あとは自分で調べな、フォックス」
「そうじゃねえだろうが! オレが知りてえのはラビットの居場所だ! 知ってること全部話せよコラァ!」
興奮した花道を取り抑えながら、流川は自分がしていることの効率の悪さを実感していた。
Fは、数時間前に流川が国際電話をかけた人間の一人なのだ。
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