ライセンス
大量の水分を吸って重くなった荷物を運び込んだ三人の男達が自分の仕事は終わったとばかりに無言で立ち去っていったあと、その部屋に残されたのは当の荷物と一人の青年のみだった。
月明かりの差し込む薄闇。中央に横たわる荷物に近づき、その前髪をかきあげた青年は、わずかに唇の端を上げた。川から引き上げられたびしょぬれの荷物。色も変わり容貌も変化してはいたが、間違いなくそれは彼が探し求めた人物だったのだから。
「水戸、洋平……」
つぶやいて、その表情はさらに至福の緊張に彩られる。どれほど長い時間、夢に見たことだろう。この瞬間を迎えるために、どれだけの地獄を見、くぐり抜けてきたことだろう。
まるで愛しいものでも見るように、青年は洋平の身体を隅から隅まで眺め見た。そして、濡れた服に手をかけて一枚一枚はがしてゆく。腹部には流れゆく血液が大輪の薔薇のように誇り高く広がってゆく。すべての服を取り去った青年は、細心の注意を払って洋平をタオルケットに包み込み、ベッドに運んだ。
「洋平、オレがどれほどお前に会いたかったか知ってるか? どれほど長い時間探し求めたか。だけど今、お前はオレの腕の中にいる。瀕死の重傷人として」
洋平の身体は震えていた。熱が出ている。
「だけど、このまま死んでもらっちゃ困るんだ。すぐに医者が来るから持ちこたえろよ。まだ、始まったばかりなんだから ―― 」
青年はこれ以上にないほどの冷たい笑みを漏らした。
「 ―― オレの、復讐は、さ」
「 ―― ゆう、かい……?」
長い沈黙のあとの花道の言葉は、流川に少しの安心感を与えた。一人でないことがこれほど心強いなどと、一年前の流川は思いもしなかっただろう。
「掠われたんだ。レッドフォックスのラビットは、誰かの手によって盗まれたんだ」
「ぬす、まれたあ!」
流川の言葉が花道のプライドを刺激した。花道は泥棒だ。泥棒は盗むことはあっても盗まれることがあってはならないのだ。泥棒が他人に何かを盗まれると、回りの失笑を買う。そんな例をいくつも見てきた花道にとって、盗まれることこそ最大の屈辱なのである。
「この世界最強のレッドフォックスから盗んだだと! そんなん許せるか! すぐに探しだしてぎっちょんぎっちょんにしてやる!」
ほんの数分前までまともに物を考えられる状態でなかった花道であったが、ふつふつ沸き上がる怒りがすべてを吹き飛ばしていた。洋平が誘拐されたというよりも、洋平が盗まれたという言葉の方が、花道には理解しやすかったのである。すでに死んでいる可能性も捨て切れないと流川は思っていたが、そのことについて花道に話すことは余計な一言以外のなにものでもなかったので、言葉にはしなかった。
「流川! すぐにそいつが誰なのかつきとめてやる。取り返せなけりゃ大怪盗レッドフォックスの恥だ!」
アルコールが入っていたこともあって、興奮した花道は大いに流川の手に余った。つきとめると言ったところで、花道に何かができるとは流川は思ってない。もともと花道は頭脳派タイプではなかったし、洋平といた時間が長かった分だけ更に頭脳的なものから遠ざかっていたはずである。情報合戦で花道がものの役に立つとは思えなかったのである。
流川にしたところで泥棒稼業に関してはまるっきりの素人と同じである。洋平が誘拐されたと判っても、救い出すためにいったい何から手をつけていいのかすら判ってはいなかった。
その時、興奮状態だった花道がいきなり携帯電話を取ったのである。とっさに制止行動の取れなかった流川の目の前で、花道はプッシュホンを押して誰かに電話をかけはじめたのだ。
「あ、彦一か? オレ。すぐにラビットのこと探してくれ! ラビットが行方不明なんだ! 誘拐されちまったんだ!」
流川が電話の相手の反応を想像することはそんなに難しくはなかった。まともな反応が得られなかったのだろう。花道は更に興奮してまくしたてる。
「てめえ! それでもお前情報屋かよ! ラビットがさらわれたんだぞ! ちったあ協力してくれたっていいじゃねえかよ!」
花道にしてはかなり的を得た選択であった。何につけても情報を得ることが先決なのだ。具体的な動きをなに一つ考えつかなかった流川は新鮮な驚きをも感じていたが、このままではせっかくのいいおもいつきも実を結ばないと考えて、花道から携帯電話をむしり取っていた。
「あ、この泥棒!」
「黙れ。……もしもし」
花道はさらに騒がしい声を上げていたが、流川は耳を塞いで電話の相手の反応を待った。さほど待つこともなく、受話器の向こうからはやや眠そうな声が伝わってくる。
『もしもし。……あんさん誰です?』
「フォックスだ。レッドフォックスのフォックス」
『レッドさんの仕事仲間でんな。わいは情報屋の相田彦一といいます。以後よろしゅうに』
人当たりのいい彦一はフォックスに対しても敬意を表することを忘れなかった。情報屋は第一に人に好かれることが不可欠なのだ。
『ところでなんですねん。レッドさん興奮してはってさっぱり判らしまへんのですけど』
「ラビットが誘拐された。それについて今判ることがあったら教えてくれ」
『誘拐……? いつのことです?』
「今朝だ。一時過ぎ」
電話の向こうで考えるそぶりが伝わってくる。彦一も眠かったのだろう。沈黙の時間はいささか長かった。
『判らへんのですけど……。誘拐て、身代金の請求でもありましたんか?』
「まだねえ」
『ほんまに誘拐なんですか? 自発的に姿消しはったんちゃうんでっしゃろか』
「盗みの最中に銃で撃たれたんだ。オレがちゃんと見てた。間違いねえ」
『ラビットさんが、誘拐、ねえ』
彦一には信じがたいものがあった。ラビットのことはほとんど知らなかったが、一二度会ったときの印象では黙って誘拐されるような人間にはどうしても見えなかったのである。どちらかといえば自発的に失踪したという方が信じられる気がした。しかし失踪するために自分を銃で狙わせる人間などまずいないだろう。
『判りました。わいも調べてみるさかい、フォックスさんも一つはっきりさせてください。身代金の請求はないんですね』
「ああ」
『問題は動機です。どないな理由でラビットさんさらいはったのかによってぜんぜん調べ方も変わってきますから。これから一日待って、身代金の請求があれば金目当てです。なければ恨みの線が濃いですね。はっきりしたらもう一度電話ください。よろしいでっしゃろか』
彦一の言うことはもっともな気がした。犯人の動機が判れば誰が犯人なのかも見当がつく。それからでなければ彦一も手のつけようがないのだろう。
「判った。はっきりしたらもう一度電話する」
『わいも夜勤開けなもんで夕方五時以降にたのんます。……レッドさんに代わってもらえまっか?』
流川に携帯を奪われたことでかなり不機嫌になっていた花道であったが、彦一と電話で一言二言話したあとはさらに不機嫌になっていた。電話を切ったあと、絨毯に携帯を叩きつけてぼそっと言った。
「あの野郎、足元見やがって……」
「どうした」
「ツケの支払いとラビットの情報言い値で買えって要求しやがった。オレが断れねえのいいことに」
「最初から現金で払っときゃこういうことにはならねえんだ。情報屋は大切にしろ」
「てめえに言われたかねえ」
いつもの二人であれば、ほんの小さなきっかけでけんかにまで発展するところである。しかし、今このときの二人は違っていた。洋平を捜すという共同の目的があり、けんかをしている精神的余裕がなかった。そして何より、今けんか別れでもした日には、お互いに一人きりになってしまうのだ。どんなに馬が合わなくても、こんな頼りない状況下で誰もいないよりははるかにマシだった。花道もそのことを無意識の奥底で感じて、あえて流川につっかかっていくことはしなかったのだ。
お互いに不自然さは感じていた。そして、洋平がいなかったらおそらく二人は決別するだろうというそれまでの予感を、ある意味で覆す結果も感じていた。本当の意味で洋平がいないのなら二人は決別していたのだ。二人をつなぐものは、今は洋平の存在だけだったのである。
「どこいくんだ流川」
立ち上がった流川に、花道が声をかける。普段であれば答えることすらしない流川も、今回ばかりは違っていた。
「水戸の携帯を取ってくる。あっちに電話が入るかもしれねえ」
身代金の要求。もしもそんなものがあったのなら、二人はいくらでも払うだろう。迷いはなかった。洋平の存在は金には代えられないのだから。
しかし部屋に入った流川は、その部屋に洋平の携帯電話を見つけることはできなかったのだ。うしろから花道も覗いてみたが、見えるところにはなかった。だからといってまさか空き巣のように捜し回るわけにもいかない。
「桜木、てめえの電話から水戸の番号にかけてくれ。音で見当つける」
「おお」
花道が自分の携帯から洋平の番号に電話をすると、洋平の部屋にはベルの音が鳴り響いていた。それを頼りに電話を捜そうとしたところ、花道は言ったのだ。
「あれ? 流川、話し中だ」
まさにその引き出しを開けようとしたときの花道の言葉。流川は慌てて花道の受話器を耳にあてる。その向こうには確かに話し中の発信音が鳴っていたのだ。さらに流川は花道の電話を切るが、洋平の電話のベルの音は消えなかった。花道の電話ではない。このベルがほかからかかってきた電話ならば、それはもしかして ――
緊張のおももちで、流川は引き出しを開け、まだ鳴り響いている電話器を取った。とっさに洋平の符丁を思い出して電話に出る。
「はい、ラビット運送」
『おいラビット! お前いつまで待たせんだよ。まさか忘れてた訳じゃねえだろうな。今どこだ?』
受話器の向こうの声は流川が予想したものとは大幅に違っていた。そのため一瞬言葉をなくす。予想していた返事がなかったため、相手もややとまどっていた。お互いの間に沈黙が流れたあと、口を開いたのは相手の方だった。
『……ラビット? ラビットだよな。確かにラビット運送って……』
「ラビットは今いねえ。オレはレッドフォックスのフォックスだ。お前は」
相手も事情を察するのに少しの時間を要した。だが、男はフォックスという名前に聞き覚えがあった。
『スナイパーのフォックスか。オレは高宮。便利屋の高宮だ。いつだったか会ったことがあるだろ、仮面付きで』
流川も思い出していた。便利屋の高宮なら覚えがある。盗みに使う機材を調達するときには必ず耳にする名前でもあった。
「覚えてる。ラビットに何の用だ」
『二時間も前に待合せしてんのにまだこねえんだ。こっちも時間内に品物返してもらわねえとヤバくてよ。なにせ借りもんだからな。ラビットはこっちに向かってんのか?』
「いや。機材はここにある。どこに行きゃいい」
『お前がもってくるのか? ラビットは』
「そんとき話す。場所指示してくれ」
地理に明るくない流川は苦労しながら高宮に場所を聞き出し、花道を伴って機材を持って部屋をあとにしていた。もちろん三つの携帯電話は持参している。
便利屋高宮。手さぐり状態の流川にとって、その名前は一筋の光明のように思えたのである。
携帯電話で待ち合わせた人気のない場所に二人が到着すると、高宮は不思議そうな顔で二人を迎えた。
「ブツは」
「こいつに入ってる。確認してくれ」
「オレはブツさえ戻りゃそれでかまわねえんだ。だけどよ、いったいどうしたんだよ、ラビットは。怪我でもしたのか?」
「誘拐された」
高宮は口をあんぐりと開けたまま絶句した。この男もラビットと誘拐という文字がどうしても結びつかなかった一人であるらしい。
「誘拐? 確かか?」
「目の前で銃で撃たれて消えた。今朝の一時ごろだ。身代金の請求はねえ」
「今が十一時か。……こりゃ怨恨の線が強えな。お前ら知ってるかどうか知らねえけど、ラビットはああ見えてけんかのツボは心得てる。身代金目的にラビット誘拐するなんて不自然過ぎるぜ」
生きてる人間を一人監禁するのは、想像を越えた困難さがあるのだ。誘拐犯は自分の安全が確保されたらできるだけ早く金を手にしようと考えるものである。誘拐されてから十時間がたって、未だなんの連絡もないとなれば、それはもはや金目的の誘拐とは考えられないだろう。
「金が欲しけりゃ普通は金持ちの令嬢かなんか誘拐すんだろ? 金とかじゃねえんだよ。ラビットのこと欲しい奴が盗んでったんだ。なあ高宮、ラビットのこと欲しがってた奴に心当たりねえか?」
花道の言葉には大きなラビットびいきがあるのだが、高宮はそれほど問題にしなかった。レッドがラビットにべったりなのは半年以上も彼らの便利屋をやっている高宮にはよく判っている。だが、怨恨が絡んでいるとなれば、これからラビットの過去についてもいろいろ調べていかなければならないだろう。人間は誰でもある程度罪を犯しているものである。事実が判っていくにつれてレッドのラビット神話が崩れるかもしれないと思うと、それだけが少し気がかりだった。
「オレはラビットとはたいして長いつきあいじゃねえ。一年くらい前に宝石ブローカーの牧に紹介されたんだ。お前らが持ってる携帯電話とか、ほれフォックス、お前が日本に来たときの偽造パスポート、あれもオレが調達したんだ。……恨みにしろ痴情のもつれにしろ、ここ最近の話じゃねえぜ。金さえ払や調べてやってもいいけど」
「頼む、調べてくれ」
花道が言うより早く、流川が頭を下げていた。花道は少なからず驚いてはいたが、もとより反対する理由は一つもなかった。
「……駆け引きしねーのか。まあ、その真っ正直さに免じて良心的な値段で取引してやるよ。ラビットの本名は知ってるか?」
「知ってる」
「ああ、言わなくていい。お前が知ってる本名は本当の本名か? 生まれて最初に親につけられた名前か?」
「……どういう意味だ」
話がここまでくると、それは高宮の領分だった。高宮は情報屋ではないが、人間の情報の根本を扱う業者なのだ。普段めったに見せることのない高宮の真の仕事。
「ラビットみたいな人間はな、本名が本名じゃねえ時があるんだよ。いろいろヤバいこととかがあって、自分の経歴すり替えちまうんだ。いわゆる『戸籍を買う』ってやつだ。もしもどこかで戸籍買ってたら、オレの手には負えねえ。ラビットが戸籍を買ってねえ証拠があるか?」
水戸洋平は、洋平の本名じゃないかもしれない。その言葉は、花道にはことのほかショックだった。いつも呼んでいた洋平という名前が洋平の本名じゃないのだとしたら……
「日本の戸籍のことはオレにはよく判らねえ。それは本籍地のことか?」
「本籍地? ……お前、知らねえとか言って意外な言葉知ってるな。確かに戸籍買えば本籍地も載ってるぜ」
「ラビットは自分の本籍地を知らねえって言ってたことがある。新しく戸籍買ったんなら本籍地を知らねえ訳がねえ。それが証拠だ」
いつか、流川が洋平に聞いたことがあるのだ。どうして運転免許を取らないのかと。その時洋平は、日本では自分の本籍地を知らないと免許が取れないのだと答えた。そんなたあいもない会話をなぜか記憶していた流川が言った言葉に、高宮は少し考えるそぶりをする。そして言った。
「確かにな。戸籍を買った人間は本籍地を知らねえとは言わねえ。調べてやるよ。ラビットの本名は」
「水戸洋平だ」
「水戸、洋平……」
口のなかでつぶやいた高宮は、記憶をさぐりながら少し変な顔をした。何か知っているようにも見える。だが、高宮が口にしたのはまったく別のことだった。
「……宝石ブローカーの牧に会ってみろ。もう少し何か判るかも知れねえ。……いけねえこんな時間だ。何か判ったらラビットの携帯にツナギ入れる。じゃあな!」
まるで追及されるのを恐れるかのように、高宮は早口でまくしたてると走り去っていった。その転がるような走りっぷりを見送って、流川はうしろを振り返る。そこには花道がこれまた変な顔をして立ちつくしていた。会話の途中から黙り込んでしまった花道の心の動きは流川には理解できる。
「桜木、水戸がてめえを騙す訳がねえ」
洋平の名前は本名だった。だけど一度持ってしまった疑いの心は消えてくれようとはしなかったのだ。流川の言葉は花道の不安を少しだけ救った。それはいつもは洋平の役目だった。
「そうだよな。洋平がオレのこと騙す訳ねえ」
洋平がいないことに対するツケは、この時から確実に流川に回ってゆくのである。
流川は一年と少し前までは狙撃屋で食っていた男だった。そのころ洋平や花道と海外で出会い、彼らにつれられて日本に来て狙撃屋をやめ、泥棒に転身したのだ。そんな身勝手が通じるはずもなく、流川が所属していた殺し屋組織の元締に見つかれば、今度は流川が狙撃される側に回るだろう。いつも覚悟はしてきた。警戒も怠らなかった。
それでも最初のころは、洋平や花道を巻き込むことになるかもしれないとは考えなかった。洋平も、花道も、自分の意志で動く一人の大人である。流川の隣にいたために狙撃手に間違えられ殺されたのだとしても、それは彼らの意志であり運であり人生だった。流川のせいで死んだのだとは考えなかったし、また、そう考えることは二人に失礼というものである。
だが、実際に洋平が撃たれたとき、流川が真っ先に考えたのはそれだった。洋平が撃たれたのは流川のせいではないか。流川を苦しめるため、流川が心を寄せる仲間である洋平を狙撃したのではないだろうか。流川のそれまでの行動に巻き込まれただけなのではないのだろうか。
その考えは洋平の人生に対してこれ以上はないほどに失礼である。洋平だって愛される理由もあるし、殺される理由もある。恨まれて拉致され痛めつけられる理由もある。それが生きているということなのだ。自分のせいだと流川が思い、それに浸ることは流川にとって甘い誘惑以外のなにものでもなかったが、洋平が自分に属するものだと考えるのと同じである。それは洋平を一人の人間として見ずに、付属品として見るのと同じなのだ。
高宮との会話のあと、二人は近くの店で洋平が誘拐されてから数えて初めての食事を摂った。それまで二人は自分達が食事をしていなかったことに気づきさえしなかったのだ。そうして空腹を満たしたとき、流川は一つの賭けをした。あの狙撃には自分のそれまでの行動が無関係であることを信じて、狙撃手を特定する方面から探ってみることに決めたのである。
流川は自分が連絡を取れる唯一の人間、天使のエースに連絡を取るため、アメリカとフランスに国際電話をかけた。
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