ライセンス
複数のサイレンの音が彼らの背後に迫っている。
川縁の倉庫群。時は真夜中。いつものこの時間であれば人一人存在しないであろう建物地帯である。そこには街灯さえ満足に備え付けられてはいなかった。
僅かな明かりに見え隠れする者達 ――
先頭を走るのは、赤い髪をした長身の男だった。その手には一つの絵画を抱えている。疲れを知らない身体は建物の間を縦横無尽に走り回り、やがて川縁の一本道を川上に向かって全速力で駆け始めた。
「まずい、レッド。このままじゃ狙い撃ちされちまう。頃合い見て脇道逸れてくれ」
そのうしろを軽快な足取りでついて走るのは先の男よりもかなり小さめの男だ。いつもはオールバックに整えた髪も、今は洗いざらしのまま自然に風になびかせている。前を走るレッドの脇道を探すしぐさを確認したあと、更にうしろを走る男を振り返る。やや長めの髪を重力にまかせて放置したままのその長身の男は、精密機械やロープなど細々としたものを背負って、しっかりとあとをついてきているようだった。
三人の男はたくさんの警察官達に追われていた。彼らはたった今お屋敷から秘蔵の絵画を盗み出してきたところなのだ。
作戦は成功してあとは逃げるだけなのだが、それまで数回の盗みを成功させてきた彼らを追う警察も必死である。徐々に包囲網を狭め、彼らをここまで追い込んだ。しかし作戦参謀のラビットの作戦はいついかなる状況にも対処できる。回りの状況を見ながらレッドに指示を与え……
その時だった。
『パァ…………ン』
サイレンの音に混じって一発の銃声が鳴り響いたのだ。一瞬の間を置いて音に振り返ったレッドが見たものは、コンクリートに転がった最後尾にいたはずのフォックスと……
「フォックス!」
「来んな!」
慌てて戻って駆けよろうとしたレッドではあったが、すぐに身体を起こしたフォックスの声に足を止める。フォックスは立ち上がり、川と反対の方角、建物の方を見つめていた。そして気づく。さっきまでレッドとフォックスの間を走っていたはずのラビットがどこにもいないという事実に。
「ラビット……?」
一瞬前までは確かにいたのだ。そのラビットは今はどこにもいなかった。隠すもののない川縁の道。レッドの目はラビットを求めて激しくさまよった。
「ラビット、ラビットどこだ!」
サイレンの音は間近まで近づいている。気づいたフォックスは一足飛びでレッドに近づき、その身体に手を掛けながら耳元で言った。
「逃げるぞ、レッド」
「だってラビットは……」
「いい。早く」
なにも判らなかった。レッドが前を向いていたときにいったい何が起こったのか。その答えは一部始終を見ていた筈のフォックスが知っている。レッドは引きずられるままフォックスに従うよりなかった。
そしてこの夜の出来事が、悲劇の幕開けだったのである。
警察の包囲網をかいくぐり、ようやく彼らはそのアジトに帰りついていた。部屋の中はしんとしている。ラビットが先に戻っているかもしれないというわずかな期待はあえなく打ち砕かれていた。
靴を脱いで明かりをつけたレッドこと桜木花道は、前を歩くフォックスこと流川楓の肩を掴んだ。振り向いた流川に、それでも精一杯気を落ち着けて言う。
「流川、ラビットは……洋平はどうしたんだ」
流川は花道の手を振り払った。そしてこちらもかなり不機嫌そうに答える。
「川に落ちた」
ほとんど真っ暗と言っていいほどの川縁。追われる三人。サイレンの音に混じって一発の銃声がして、振り返ったら洋平がいなかった。流川の言葉に花道は一気に激情をたぎらせる。その激情のまま、花道は流川に掴みかかっていた。
「川に落ちただと! お前……洋平が落ちたのにお前、何で助けねえんだよ! 洋平が落ちたんだぞ!」
今度はそう簡単に振り払うことはできなかった。掴まれたままの体勢で短く言う。
「放せ」
「ふざけんな流川! てめえには仲間意識ってもんはねえのか! 洋平のこと大事じゃねえのかよ! ……助けてくる」
今からでもまだ間にあうかもしれない。真冬に近い凍りついた川の水。川縁から川まで、高さは十メートルもあった。今探さなければ間にあわないかもしれないのだ。最悪の事態を脳裏にちらつかせて飛び出して行きかけた花道を、今度は流川が引き止めていた。
「放しやがれ! ほっといたら死んじまう! 放せよ!」
「おもては警官だらけだ。出ていきゃ捕まるだけだ」
「捕まったってかまわねえよ! 洋平が死ぬかもしれねえんだぞ」
「捕まったら助けられねえぞ。それでもいいのか」
流川の言葉に、花道の力がふっと抜ける。花道は考えることと行動することの両方はいっぺんにはできないのだ。
「捕まったら……そしたら警察に頼んで探してもらう。てめえなんかよりよっぽど信頼できらあ!」
「水戸が自力で川から這い上がってたらどうすんだ。てめえの浅知恵で捕まらなくていいのに捕まるのか。それで水戸が喜ぶか」
「それは……だったらどうしろってんだ! 一刻争うかもしれねえじゃねえかよ」
「まずは服を着替えろ。それからだ」
「……っくしょーっ!」
流川なんかに言いくるめられてしまった自分に最高に腹が立った。でも、確かに言う通りなのだ。このまま出て行けばまず間違いなく花道は捕まるだろう。着ているものを変えるだけでその確率はずいぶん下がる。花道は服を脱ぎながら、流川が出してくれた着衣回収袋に洋服を放り込んだ。いつもは洋平が出してくれる袋だった。
流川も脱ぎながら、少し落ち着いたらしい花道に話しかける。流川からすすんで花道に話しかけることなど、普段であればまずありえないことだった。
「桜木、水戸は生きてりゃ自分でなんとかできる奴だ。判るな」
まるで子供に言い聞かせるような流川の言葉に、花道は少し熱り立った。
「てめえに言われなくたってそんなこた判ってら! オレと洋平はてめえより長いつきあいなんだからな。なめんな」
一言言えば倍は返してくる。そんな花道に辟易しながらも、流川は話を続けた。
「動けりゃ戻ってくる。警察がうろうろして戻れなけりゃ電話入れてくる。助けがほしけりゃなんとかして連絡よこすはずだ。万が一警察に捕まってりゃ盗聴器で判る」
具体的な流川の話は、花道を更に落ち着かせた。花道がうろたえている間に流川はひたすら考えをまとめていたのだ。花道の様子を見ながら、流川は言うべき時期を図っていた。図りながら更に続ける。
「様子が判らねえうちに動くのは危険だ。あの暗闇で川に落ちた人間探すことなんてできねえ。探すのは明るくなってからだ。朝まで連絡がなかったら探しに行く」
「……朝まで待つのか?」
「ああ、それしかねえ。そのころにはだいぶ警察もひいてるはずだ。バラバラに出て向こうで落ち合えばまず捕まらねえ」
花道が落ち着いて、流川の言うことを聞こうという体勢になっていた。流川が図っていた時期、それが訪れていた。
「ただ……」
「なんだよ」
居住まいをただす。それは流川にとっても辛い一言だったのだ。
「銃声がして、二発目を恐れて身体を伏せたオレに、水戸が川に落ちる音が聞こえた。自分がスコープで狙われてりゃオレにも判る。撃った奴は二発目は発射しなかった。それで目的は達したんだ。水戸を撃った一発だけで」
その時初めて花道は知ったのだ。洋平が川に落ちた訳を。洋平が、狙撃されたのだという事実を。
「流川……」
「水戸は殺されたかもしれねえ」
――――――――
長い沈黙だった。その沈黙を破ったのは花道だった。
「なん……そんな」
洋平が死んだかもしれない。その事実は、花道の目の前を真っ暗にした。万が一にも洋平がいなくなったら、花道はそれ以上生きていられないような気がしていた。ずっと恐れていた現実。その現実をいきなり突き付けられたのだ。流川にも判っていた。花道が洋平をどれほど必要としていたのか、どれほど頼っていたのか。
「流川……嘘だろ」
助けを求める花道に向けられた流川の言葉は、花道の期待を裏切ってそれまでで一番辛辣だった。
「死体で上がりゃ警察発表がある。あの婦人警官が証言しなけりゃ身元不明だ。テレビ見りゃ判る。……どっちにしても明日探しに行く。覚悟だけはしとけ」
「嘘だろ、流川。嘘だって言えよ」
「……シャワー先に使う」
立ち上がって風呂に消えかけた流川は、思い出して部屋に戻った。バスタオルを持って再び風呂に消える。『風呂に入るときはバスタオル用意しとけ! てめえはそうやっていつもいつも床中水浸しにしやがって……』 ―― 洋平の声は聞こえない。
花道はその場にへたりこんで中空を見つめていた。そして思いついて部屋の中を見回す。だが、どこにも洋平はいない。洋平だけがいない。
一番、失いたくなかったもの。
「洋平が……死んだ……?」
このレッドこと桜木花道とフォックスこと流川楓、および行方不明のラビットこと水戸洋平の三人は、ただいま売出し中の新鋭の泥棒さんである。その名も怪盗レッドフォックス。グループ結成から盗みを重ねること数件、狙ったものは逃したことがなく、百パーセントの成功率を誇っている。今や彼らは地域住民のアイドル。町おこしのシンボルにさえなりそうな人気者達なのだ。
金持ちの道楽品しか狙わず、前もって予告状を出して尚まんまと盗みだすその手口は、一般のサラリーマンには痛快であった。銃を持っても人を殺さない。己の才覚だけで世の中を渡り、なおかつ税金は一円も払わないのだから、これほどまでに羨まれる職業がほかにあるだろうか。国家権力の一つである警察組織を手玉に取ることからして、彼らは十分に人々の羨望の的たりえるのだ。
肉体派の泥棒レッド。狙撃屋フォックス。彼らが頭脳派ラビットの才覚で動かされ機能するとき、レッドフォックスは最強の泥棒となる。事実上のリーダーであるラビットがいてこその怪盗レッドフォックスだった。
そのラビットがいない今、彼らは ――
シャワーを浴び終えた流川がふと目を向けると、花道は自室のふすまを開け放したまま部屋の中央で呆然と中空を見つめていた。
花道が衝動的に部屋を飛び出すことを恐れて、流川は玄関にチェーンをかけた。そして自らの部屋のドアを開けて、閉める。部屋の中に散乱するキツネのぬいぐるみの中からひときわ大きなキツネを選び出して抱きしめた。プラ・メール。その名前の音には母という意味の響きを含んでいる。
銃声が響いた瞬間、流川が見たのは宙を舞い落ちる洋平の姿だった。危険を回避できるギリギリの時間を洋平の行方を確認することに費やし、自分は身体を伏せて次の弾丸を警戒した。瞬間的な弾道の計算も、流川がそれまでしてきた経験からは容易な作業だった。一瞬のうちに流川はその時の状況のすべてを記憶したのだ。
たとえば、泳げない人間がおぼれた人を助ける事は不可能である。自分を助ける事ができる人間だけが、人を助ける事ができるのだ。人を助けたいと思ったら、まずは自分が助かること。それでなければ共倒れになるのは必至であろう。流川の中にはそういった感覚が根強くしみついている。あのときのあの状況で二人が洋平を助ける行動に出ていたら、三人とも警察に捕まることは目に見えていた。身を引きちぎられるような想いを残して、流川は自分が助かる道を選んだのだ。洋平が生きていることを信じて。ただ、洋平を助けるために。
時に、花道を羨ましく思う。感情のままに行動できる馬鹿な花道を。だけど洋平がいない今、仲間達の運命は流川が握っているのだ。残った二人のうち冷静に考え行動できるのは流川しかいなかったのだから。
わずかな休息を経て、流川は優しいプラ・メールの腕から離れて、記憶を辿り始めていた。
花道が大きな足音を立てて流川の部屋のドアを開けたのは、夜明けまでまだ三十分はたっぷりかかりそうな時刻だった。
「もうこれ以上待てねえぞ。てめえがなんて言おうがオレは探しに行く!」
流川は目覚めていた。もちろん眠ることなどできる訳がない。待ち焦がれていた洋平からの連絡はなく、ラジオのニュースもいつもの朝と変わったところはなかった。
「……場所は判るか」
「たりめえだ!」
「だったら先に行け。警官に気をつけろよ」
「てめえに言われなくても判ってら!」
「携帯電話忘れんな」
花道が飛び出していってから十分後、流川も部屋をあとにする。あたりの様子に気を配りながら約二十分をかけて現場に到着すると、花道はすでにかなり川下の方を捜索していた。明るくなってきた現場で、もう一度距離や角度などを確認する。狙撃者がいたと思われる場所まで足を運んで、正確な位置を確認することも忘れなかった。
そのあと橋を渡り、花道とは反対側の川縁を歩きはじめた。この川は川というよりはほとんど水路に近いものである。だが水の量はかなりのもので、水面の低い今の時期でさえ深さは五メートルはあっただろうし、川幅も二十メートルほどはある。コンクリートで舗装された堤防が整然と築かれ、倉庫のある川縁から川面までの落差は約十メートル。普通に落ちたとすればコンクリートにたたきつけられてまず生きてはいなかっただろう。
流川が聞いた水音だけが頼りだった。直接水に落ちたのであればまだ望みはある。石ころ一つない整然とした水路の水面と、洋平が自力ではい上がったとしたら当然ついているはずの跡を探しながら流川は神経を研ぎ澄ませた。次第にあたりは明るくなり、遠くの釣り人の姿さえはっきりと浮かび上がっていた。
海に到達するまでの約二時間、二人は川の向こうとこっちで捜索を続けた。しかし洋平の痕跡はただの一つも見つけられなかったのである。
二人は再び部屋に戻っていた。花道はまだ捜索を続けると言ってダダをこねたが、有無を言わせず流川は花道をつれ戻した。二人が目を皿のようにして川を探してなお洋平の衣服の一部も仮面すらも見つからないのだ。それに、流川はあのときの銃弾の弾道と音と距離の間にかなり不自然なものを感じていた。川を捜索しながらそれについてずっと考え続け、おぼろげながらも少しだけ何かが見えてきたような気がしたのだ。
自分の置かれた状況が理解の範囲を越え、ただただ困惑する花道を、流川はソファに座らせた。今の花道に取れる行動は流川に文句を言うことだけだった。そうすることで花道はようやく精神のバランスを保っていたのである。
「洋平から電話もねえ。川から這い上がった跡もねえ。川に落ちて溺れちまったんだとしたら、あんとき探しに行かなかったてめえのせいだ。てめえが止めさえしなけりゃオレは……」
冷蔵庫からビールを取り出して花道の前に置きながら、流川が言う。
「溺れて死んだ人間は一回水に沈む。すぐに探したって見つかりゃしねえ」
「なんだと流川! それでもてめえは人間かよ! 洋平が死んだのはてめえのせいだ! てめえの首なんかさっさと切っちまやこんな……」
差し出された缶ビールを開けて、花道は無意識のうちに半分ほど飲み下した。その間に流川は部屋に戻り、カタログと愛用のライフルを抱えて部屋を出てくる。花道は流川の行動にはまったく気づいてはいなかった。自分が今飲んでいるビールが誰の手によって差し出されたものであるのかも。
そんな花道の様子は流川の哀れみを誘った。だが、花道を放り出したまま自分一人で事態を背負うこともまた、流川にはできなかった。流川一人で背負いきれるほど軽い事態ではないのだ。
「聞け、桜木」
流川の言葉はさらに花道の反感を買った。
「何を聞けってんだ! てめえには騙されねえぞ。洋平を助けに行かなかった野郎の言うことなんか」
構わずに流川はカタログを指差しながら話しはじめる。
「水戸を撃った銃はこのタイプだ。市販されてるライフルでは一番殺傷力に優れてる部類に入る。だけど普通に撃った訳じゃねえ。オレは銃声は聞き馴れてる。あれは銃身を短く切った音だった」
「今さら銃がなんだってんだ」
「ターゲットまでの距離は二百ヤード。元々かなり殺傷力のあるライフルの銃身を切ってるんだ。命中率は格段に落ちてる。おまけに水戸は全速力で走ってた。あの状況で狙撃する仕事なんて、オレでもやるかどうか判らねえ」
聞き馴れない流川の言葉は、花道の思考パターンの及ばないところにあるものだった。理解できないものに対して人間は自然体でいることができないものである。拒絶するか興味をひかれて心を止めるか、どちらかのパターンを踏むことになるのだ。花道が選んだのは後者だった。
「……お前、何の話を……」
「水戸は川縁から三メートルの場所を走ってた。普通に狙撃すりゃ、その場に倒れて終わりだ。それなのに水戸は川に落ちた。走ってた位置から、水のあるところまで、十ヤード近くあった。それだけの距離を水戸ほどの重さのある人間をすっ飛ばすには、身体の中心、重心を正確に狙わなけりゃならねえ。そんな仕事、オレなら絶対やらねえ。たとえば偶然そうなったんだとしたら、水戸が見つからねえ理由が説明できねえんだ」
「流川……」
「桜木、殺すためだけなら、そんな面倒なことしやしねえ。普通のライフルで一発撃ちゃ終わりだ。水戸の死体を欲しがる人間がいるとも思えねえ。撃った人間が誰にも気付かれねえように水戸をつれ去ったんだとしたら……」
その先の流川の言葉が、花道の想像通りであるのか、花道には判らなかった。自分の期待が裏切られるのが怖くて、花道はなにも言うことができなくなっていたのだ。まるで流川が洋平の命を握っているかのような、奇妙な感覚。少しでも洋平の生死について希望がもてるなら、花道は流川さえも全面的に信じただろう。
「……もしもそうなら、水戸は生きてるはずだ。偶然もなにもなく今回のことが全部相手の筋書き通りなら、水戸は死んでねえ。水戸洋平は、誘拐されたんだ」
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