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翌日、早々に医者がやってきて洋平をエコーにかけた。しかし医者の判断では爆弾はおろか余計なものも異常もなに一つ見つからなかったのだ。もちろん傷が治っている訳ではない。だがそれも快方に向かっていて、よほどおかしなことがないかぎりまず心配はないとの診断だった。
ただ、目が覚めないのが心配といえば心配である。花道はよほどうれしいのか眠る洋平の側から離れようとはしない。流川も珍しく文句を言うようすもなく、黙ってゴミを出し、花道に食事を運んでいた。そのうちに便利屋高宮、絵画ブローカー大楠、そして情報屋の彦一や野間から電話が入り、それまで止まっていた事態が一気に動き出していた。流川は洋平の世話の一切を花道にまかせ、あちこちを奔走していろいろな人間に会っていた。
要するに、花道は面倒な仕事を流川に押しつけたまま、自分は洋平の隣で幸せに浸っていた訳である。
そんな二人の心配も、どうやら終わりを告げたようである。ちょうど流川が帰ってきていて花道と二人で洋平の顔を覗き込んでいたときだった。洋平が目を覚ましたのである。
「洋平……目え覚めたのか?」
ぱちぱちと瞼をしばたく。目の前には心配そうに覗き混んでいる二人の仲間。そして、見慣れた花道の部屋の風景。
「……なんでオレ、花道の部屋……!」
気づいて、急に身体を起こそうとした。しかし目眩に押しとどめられる。とっさに手を伸ばした花道の腕に、洋平はしがみついていた。
「花道! すぐにオレから離れろ! オレの腹ん中、爆弾が入ってる。爆発したらお前ら道連れにしちまう!」
「大丈夫だ洋平、爆弾なんかねえから」
「あるんだよ! すぐに信じられねえかもしれねえけど、オレは手術されて爆弾埋め込まれたんだ! 頼むから ―― 」
言い合う二人の間に、流川が割り込んでいた。花道にまかせておいてもらちがあかないのは明らかである。
「落ち着け、水戸。動くな」
その言葉で自分の爆弾が衝撃に弱いことを思い出して、洋平は動きを止めた。
「流川、オレの爆弾は少しの衝撃で爆発するかもしれねえ。おまけに電池がなくなったら最後なんだ。頼む。花道つれて逃げてくれ。お願いだ」
「……お前はずっとそう言ってた。だからお前の身体の中調べてみたんだ。金属探知器も使った。エコーもかけた。だけどお前が言ってるような爆弾はなかった」
「……なかった? なかったのか?」
「ああ、なかった。お前が埋め込まれた爆弾は、肋骨に偽装してあったりとか、内臓に見せ掛けてあったりとかするのか」
「いや。小さいけど金属でできた……」
「そういうものなら見つかるはずだ。お前の身体には爆弾はねえんだ」
しばし呆然と、洋平は考えていた。確かに自分は手術をされたはずだった。しかし爆弾はない。宮益は爆弾を埋めなかったのだろうか。だとしたら、どうして……
心配そうに見つめる二対の目。思えば、洋平はいつもこの二人のリーダーだった。心配をするのが洋平の役目だった。しかし今、洋平は心配される側に回っている。そう、洋平はこの二人に助けられたのだ。
一人で助かるつもりだった。助かって、仲間に別れを告げるつもりだった。しかしそれがかなわず、捨てようとした仲間に助けられてしまうなんて……。洋平の気持ちは複雑だった。それならいっそ助からなかった方がましだったかもしれない。
洋平を助けることで、二人はどのくらい調べたのだろう。どのくらい自分のことを知っているのだろう。裏切り者と呼ばれていた自分を覚えている。二人は知っていて、今ここにいるのだろうか。
「オレがここに戻ってからどのくらい経ったんだ?」
礼を言うべきなのかもしれないと思った。しかし自分が心からありがとうと言えるかどうか、洋平には自信がなかったのだ。
「あれが昨日の夜だからまだ丸一日経ってねえかな。医者に見てもらって、でも大丈夫だって言われたよな、流川」
流川はうなずくことで答えた。目はじっと洋平のようすを見つめている。なんとなく目が合ってしまって、余計に不思議な気分になる。目を逸らすように花道を見ると、花道は大きなあくびをした。洋平は知らなかったが、花道は昨日の夜からずっと眠らずに洋平の様子を見ていたのである。安心したせいか急に眠気に襲われていたのだ。
「ずっとついててくれたんだろ、花道。眠ってもいいぞ」
対する花道はブンブン首を振って言った。
「眠らねえ。眠ったらお前またいなくなっちまう気がすんだ。目が覚めたら夢だったって……」
すねたような不安そうな視線と表情に、洋平はとても暖かい気分になっていた。ずっと触れていなかったから忘れていた。花道という男はこういう男だったのだ。洋平の中のかたくなな心を不思議に溶かしてしまう。知らず知らずのうちに、洋平はやわらかな微笑みを浮かべていた。
「どこにも行かねえよ。ほら」
手を伸ばして花道の手に触れる。その手を、花道は両手で包み込んでいた。
「貸してやっから、ゆっくり眠んな。どこにも行かねえようにがっちり握ってたらいいって」
「ほんとに、どこにも行かねえか?」
「ああ、約束する」
「よかった」
安心したように、洋平の腕を抱き締めたまま、花道は横になってすぐに寝息を立て始めた。洋平は少しの間微笑ましそうに眺めていたが、不意に流川に向き直る。表情は一変して、少し固くなっていた。
「流川、どのくらいオレのこと調べた」
花道が眠ってから、流川にだけされる話。自分と花道との存在の違いを、流川はまた感じていた。
「だいたい……ほとんど全部だ」
裏切り者という名を冠した水戸洋平の名前。知らなかったからこそ側にいたはずの仲間だった。
「それでお前はいいのか」
「オレは自分が見たものしか信じねえ」
これまで一年以上、流川は洋平を見て、その存在を刻んできた。水戸洋平という人間を見てきた。過去の裏切りも水戸洋平を構成するものの一部なのだ。流川の言葉は、流川が見てきた洋平が信じるに足る人間であることを意味していた。
「オレはお前と会ってから誰も裏切った覚えはねえ。だけどこれから先お前を裏切るかもしれねえよ。それでも」
「お前は絶対に桜木は裏切れねえ。裏切りってのは裏切った奴だけが悪いんじゃねえ。オレが裏切られたとしたらそれはオレがそれだけの人間だったってことだ。気にすることねえ」
それはひどく簡単な理論。人間は、本当に信じられる人間は裏切ることができないのだということ。裏切り続けてきたのは、洋平が誰も信じることができなかったから。
花道を信じていた。絶対助けに来てくれるのだと、押し隠した心の奥底で。
「花道も、そう思ってたんかな。……違うよな」
「桜木は知らねえ」
「……そうか。流川、花道のことありがとな。ずっと励ましてくれてたんだろ?」
励ました……というのは少し違う気がする。
自分のことで礼は言えないが、花道のことならばこれほど簡単に言えるのだから、洋平も変な男である。
「水戸、お前のことで一つ言っとくことがある。たぶんお前は知らねえことだ」
「何だ? オレのこと?」
洋平のことを調べていてこの話を聞いたとき、流川は思ったのだ。目が覚めたら真っ先にこの話をしてやろうと。
「お前の父親のことだ」
洋平はびくっと表情を固くした。もう二日前になるが、三井に言われたこと。父親は事業に失敗して誰かを包丁で刺し殺したのだと。
「別にこだわってねえ」
「今のお前の言い方、逆の意味に聞こえた」
幼いときに感じた思いが洋平の中に蘇ってくる。この話を聞く、あるいは思い出す洋平は、いつもこの幼い洋平に戻ってしまうようだった。自制がきかない。今まで積み重ねてきた経験がまったく役に立たない。いつもであれば即座に洋平の顔を覆ってくれる鉄壁の仮面が、このときには作動しなくなってしまう。
洋平の表情を見ながら、流川は思った。やはりこの話はしなければならないのだと。
「さっきこいつを受け取ってきた。お前の戸籍謄本だ」
そう言ってどこからか流川は紙を取り出して洋平の目の前に吊り下げる。寝転がっていた洋平は、空いている方の手でそれを受け取っていた。
「お前の両親はお前が五才のときに死んでる。届けた人間は警察の奴だ。もう二枚、これがお前の両親の親の戸籍謄本。原戸籍とかいうやつだ。ここに名前が載ってるのがお前の親戚だ。だが当時お前の両親とは絶縁した。だから警察が死亡届を出したんだ」
もっとよく見ようと身体を起こそうとする。それを流川は助けた。腹部の痛みはあったが、無意識にそれを押さえただけで、洋平は謄本を凝視したのだ。
「絶縁?」
「事業がうまくいかなくなって、お前の父親は親戚に借金を繰り返して踏み倒した。だから親戚の奴らに絶縁されたんだ。どうにもならなくなったらしい。そこに書いてある日に、お前の両親は心中をはかったんだ」
「……心中……?」
だって自分の父親は……。そう、言いかけた。だって洋平ははっきりきいたのだ。真夜中の大人たちの内緒話を。どんな形であれ人を殺したのは許されることではないと。
「心中だ。二人の自筆の遺書がちゃんと残されてた。警察の調書でもそうなってる。そいつがこれだ。……だけどそう判る前にちょっとした誤解があったんだ。二人で死ぬつもりで遺書を書いて、いざ死のうとお前の父親は母親の胸を包丁で刺した。追いつめられてたお前の父親はその時に思い出したんだ、お前のこと。それで警察に電話した。自分が妻を殺したって」
「……」
「その電話でお前の父親は言ったんだ。もうすぐ子供が幼稚園から帰って来る時間だ。家に帰ってきて親が二人とも血まみれで死んでたら子供がおかしくなっちまう。だから迎えに行ってくれ。……すぐに警察がかけつけたがその時には二人とも死んでた。だがそんな電話が最初にあったせいで、初動捜査が殺人になっちまった。だから、お前の父親が人を殺したってのは、殺人ていうより心中の実行犯てのが本当なんだ」
自分が今何を考えているのか、洋平には判らなかった。
父親が人を殺したという事実が幼い洋平を追いつめ、施設を飛び出させて人生を狂わせた。心の奥底にいつも存在していて洋平を苦しめ続けた。そんな事実は間違いであればいいと何度も思っていた。そうしているうちに意識の奥底にしまわれて、忘れ去られていった。
今の洋平を形作ったのは、父親の殺人がきっかけだった。そしてもしかしたらたった一人で生きる洋平をずっと支え続けていたのも、父親が殺人犯だったことなのかもしれない。
「お前の父親は最後の最後にお前のことを考えて死んだんだ。それはお前がちゃんと父親に愛されてたってことだ」
父親が人を殺したから、洋平は泥棒になったのだ。だが父親が人を殺していなかったのなら、洋平はなぜ泥棒になったのだろう。悪逆非道な人類の敵の子供だったからしていたことがある。理由がなくなってしまったら、自分のしてきたことはいったいどう理由づければいいのだろう。
落ち着いて何かを考えられなくなっていた。確かに父親が殺人犯でないのはうれしいのだ。だがもう一つの心で、殺人犯でなかった父を恨んだ。それは不思議な感情だった。
「水戸?」
「……流川、オレ、なんかすっげーショックだったみてえ」
「……」
「知らなかったけど、このことがオレの最大のトラウマだったんだなって。自分でどう考えていいか判んねえや。素直に喜んどきゃいいのかもしれねえけど、そう単純でもねえみてえ。ま、心中だってショックにゃショックだしさ」
「余計だことだったか」
「そうじゃねえよ。オレ、親の名前も知らねえし。……そうか。オレの親父、孝之ってんだ。オレとおんなじで平凡な名前……」
ふいに、抱き起こしていた腕に力を入れて、流川は洋平を抱き寄せていた。花道に抱えられた腕が引かれ、眠りながらも慌てた花道に離すまいとにぎりしめられる。今、洋平は流川と花道の間にいた。間にいて、二人に力づけられていた。
「早く元気になれ。もっとちゃんと生きてろ」
「……ああ」
そうして過去をすべて清算できたら、洋平はもっと別の生き方ができるような気がしていたのだ。
たっぷり睡眠をとり、翌朝目を覚ますと、昨日と同じように花道の視線が洋平を迎えた。結局昨夜は花道に手を握られたまま洋平は眠りについたのである。もう手は握っていなかったが、花道は一瞬も視線を離すことなく、目覚めたことを知ると嬉しそうに破顔した。
「あ、洋平が起きた。おはよう、洋平」
変な感じである。目覚めた瞬間、側に誰かがいるなど、洋平は経験したことも想像したこともなかったのだ。
「……おはよう」
「流川! 洋平が起きたぞ!」
さらに驚いたことに、花道がそう言ったあと、流川が洋平に朝食を運んできたのだ。寝起きの悪さに加えて、流川が料理をするなど考えたこともなかった。見れば部屋の中も思ったより片付いている。おまけに台所には分別用らしいゴミ袋が三つ並んでいるのだ。
「これ、お前が作ったのか?」
「医者に聞いたら朝食はおかゆがいいって言われた」
医者ならそう言うだろうな、と洋平は思う。それにしても流川がおかゆなど、キツネにつままれている気分である。
そんな変な気分で朝食を終え、また横になっていると、今度は二人が一致協力して洗濯を始めたのだ。これには驚きを通り越して感動を覚えた洋平だった。文句を言い合いながらも二人でちゃんとこなしているのだ。これならば洋平が帰って来なかったとしても心配する必要はない。果たして洋平が元気になったとして、二人はこの共助共援を続けてくれるだろうか。
昨日、流川に聞かされた自分自身の過去。そのあと洋平は何も考えずに眠った。そして朝になって平和な生活の風景を見ながら、ふいに思う。そうしたとき洋平はいつの間にか自分の中ですべてが解決していたことに気がつくのだ。どういう理屈なのか判らない。だが、洋平は自分が通ってきた道というものをただの一つも後悔できないと思うのだ。それは洋平が作ってきた自分というものへの自信。いつも、持っていたのは泥棒としてのプライドだった。
生きていれば失敗もある。恨まれることもある。それすらも洋平が生きてきた証なのだと、何の衒いもなく思うことができるような気がするのだ。理屈で思ったわけではない。本当に自然に、そう思うことができたのだ。
さて、洋平が戻ってきたといっても、物事には事後処理というものがつきものである。
今回の場合、そのほとんどは流川が担当していた。洗濯のあと流川は携帯で打ち合わせてはあちらこちらを飛び回っていた。洋平を一人にしたくはないが花道一人では頼りない、そんな事情の上の選択である。洋平も栄養や環境がよくたっぷり睡眠を取ったせいで地下室の時とは比べものにならないほど元気になっていたので、その間花道にこれまでの経緯を聞くことに時間を費やしていたのである。
もちろん、花道は自分に不名誉なことは言わなかったし、自分の活躍はこれ以上にはできないほど大げさに語った。対する洋平も花道の自慢話を割り引いて聞くことを忘れはしなかった。
そして、花道がいなくなることはそれほどなかったのだが、夕食を買いに出たわずかな時間や、風呂に入っている間などに、流川の方にも話を聞く。もちろん流川だって自分に不名誉なことは花道以上に言わなかった。(ということは、部屋片付け騒動や花道の発作事件については誰も語らなかったという訳である。ゆえにそれについて洋平が知ることはなかったのだ!)。それらを想像で補って、数日後には洋平はだいたいの経緯を知るに至ったのである。
元気になったら自分の部屋に戻りたいと思っていた洋平だったが、目の届かないところにいたら無理をすることがわかりきっていたし、同じ部屋で過ごすことは花道にとって非常に喜ばしいことであったから、二人とも洋平の希望をかなえてあげようとはしなかった。そのため、洋平は陽当たりがいい花道の部屋で数日経った今も花道とともに過ごしていた。花道の方は布団を洋平に提供していたため、夜は掛布団だけを洋平の部屋から拝借してきてそれで眠っていたのだが、それを苦痛に思うことは少しもなかった。
「……それじゃ、二人とも一人も殺してねえってことか」
「泥棒だかんな、殺さねえよ。流川の奴は殺しかけたけどな」
前にも何度も聞いたことを、洋平は口にしていた。流川が三井を殺しかけた話も聞いた。牧を殺すと言葉にした話も、清田信長を殺すと言ったことも。しかし流川は誰も殺さなかった。その事実に、洋平は心の底からほっとしていた。
二人の話をトータルして洋平が理解したのは、洋平を助けるという行動のほとんどが流川の力によって達成されたということである。ところどころで活躍した花道の大げさな話は本人に聞かされ知っていたから花道に感謝もしたが、流川の地道な努力は客観的に洋平は評価していた。助けられた側の人間としてではなく、同じ泥棒として、流川の仕事を評価したのである。人を殺さなかった流川。流川は洋平がいない間に、いつの間にかスナイパーではなく泥棒になっていた。
それは洋平にとってことのほか嬉しいことだった。いつか流川をスナイパーから一人前の泥棒として独り立ちさせること。それは一年と少し前、洋平が自分自身に誓ったことだったのだから。
「怪盗レッドフォックスらしくなったな」
「……どうした? 洋平」
「レッドとフォックスでレッドフォックス。オレを盗んだのは怪盗レッドフォックスだったんだな、ってさ」
「オレと流川だけ一緒にすんな! 洋平だってレッドフォックスだかんな! 洋平がいなけりゃレッドフォックスじゃねえんだかんな!」
まるで泣き出しそうな勢いで反論する花道に、洋平は不思議に暖かい気持ちになっていた。今なら言える気がした。感謝の言葉を。
「……サンキュ、花道」
「……何がだ?」
「オレを助けてくれたこと。……オレ、花道は助けに来ねえって思ってた。来るはずねえって思ってた」
「……そんなこと思うなよ。嘘でも思うな」
暖かくなる。花道がここにいるという、たったそれだけで。
「嘘だ。花道は来ると思ってた」
「怪我人でなけりゃサンドバッグだ。オレはほんとに心配したんだからな ―― 」
それから花道に自分がどれだけ洋平のことを心配していたのかを聞かされ、まるで罪滅ぼしのように洋平が微笑みながら聞いていると、やがてそれまでどこかに出かけていたはずの流川が帰ってきていた。一人かと思ったが、その連れに驚く。流川の後ろから現われたのは宝石ブローカー牧紳一だったのである。
「よう、生きてたな」
「牧……」
洋平捜索に牧が力を貸してくれたことは、洋平も聞いていた。そして花道と流川が昔の洋平と牧との関係を知らされているのだということも。
「こんなとこに来ていいのかよ。危ねえんじゃねえのか?」
牧は大物であるぶん敵も多い。流川達はここしばらく大きな動きをしていたのだ。こんな目立つ場所に訪れたりしたら、危害が及ぶことは十分考えられるのだ。
「見舞いはついでだ。フォックスがフォックスアイを売ってくれるって言うんでな、取りに来たのさ」
洋平は驚いて流川を見た。牧に協力を要請していたことは聞いていた。だが、フォックスアイを売るという話はまったく聞いていなかったのだ。
「フォックス! お前なんでフォックスアイを……。お前にとっちゃ命の次の次くれえに大切な……」
「一億積まれたって売らねえ」
流川の言葉を聞いて、洋平は赤くなった。いつか牧にフォックスアイを売ってくれと話を持ちかけられた。流川はその話を知っているのだ。
「そしたらなんで」
「一緒にキツネのぬいぐるみを引き取れってんだからこっちは大変さ。いくらオレが商売上手でもキツネのぬいぐるみだけ百やそこらどうやって売れってんだか。オレにキツネ博物館でも開かせるつもりかね」
流川が、キツネを、売る……?
それはとてつもない大事件である。もしも流川が再びスナイパーに戻ると言ったとしても、これほど驚くことはなかっただろう。
洋平は驚きのあまり呆然と声もなかった。見ている前で、牧と流川は少し打合せをし、やがて外から数人の若い連中が入ってきて流川の部屋からキツネのぬいぐるみを運び出し始めた。驚いたのは花道も同じである。フォックスアイを売るという話は聞いていたが、キツネまで売るとは初耳だったのである。
「前からおかしいとは思ってたけどあいつとうとうキレたか」
花道にまでおかしいと思われるようでは流川も並の変わり者ではなかったという訳であろうか。
ともかく流川が指示を終え戻ってきたとき、洋平は言った。
「お前、頭平気か?」
自分が売ったことを忘れてあとからキツネがないなどと騒がれては迷惑というものである。
「いらなくなった。……ていうか、邪魔んなった」
「邪魔?」
その問には答えず、流川は洋平の前に座って、真剣な面持ちで言ったのだ。
「お前、アメリカ行かねえか」
それは流川にしてみれば考えに考え抜いた結論だった。流川は洋平を探すとき、様々な人間に協力を頼み、洋平の過去を引きずり出してきた。そして、怪盗レッドフォックスはあくまで怪盗である。近所の人間は怪盗レッドフォックスのラビットが水戸洋平であること、その洋平が昔他人を裏切りながら生きてきたことを知っているのだ。すなわち怪盗が怪盗でなくなり、洋平の信頼というものもある意味でなくなってしまったのだ。
どちらにせよこの場所でこれからも怪盗レッドフォックスとしてやっていくことは難しい。別の場所にテリトリーを移さなければならないことは、洋平も感じていた。流川はもう少し考えを発展させて、というか飛躍させて、日本を出ていこうと思ったのである。アメリカは広い。そして、その分大きな仕事ができるところなのだ。
「……ア、メリカ……かいな」
海外には一度しか行ったことがないと豪語する洋平は、その思考の飛躍について行くことができなかった。
「そろそろレッドフォックスも国際舞台で勝負しておかしくねえ。お前はそれだけの実力はある。それにレッド、てめえも行きたかねえか」
水を向けられた花道も、洋平と同じくすぐに考えることなどできなかった。
「何で、オレが」
「てめえはいつも言ってるじゃねえか。レッドフォックスは世界最強だって。世界を見なけりゃ世界最強だって認められる訳ねえ。アメリカを制した奴が世界を制するんだ」
「……アメリカ行かなきゃ世界最強じゃねえのか?」
「そう認めねえ奴の方が多いってことだ」
流川の言葉が、花道のプライドを刺激していた。そこにはもうすっかり花道の操縦法を会得してしまった流川がいたのである。
「行くぞ、アメリカ! ラビット、レッドフォックスはアメリカ進出するからな! もう決めた! オレが決めた!」
盛り上がる二人に、洋平は苦笑しながらも認めない訳にはいかなくなっていた。どちらにせよ失うものは何もない。日本でできることはすべてしてしまった。未練がないと言えば嘘になるが、どこにいても洋平は水戸洋平だし、これから先はずっとレッドフォックスのラビットなのだ。
「お前ら、アメリカに行くのか?」
だいたいの作業を終え、話を聞き付けたらしい牧がやってくる。答えたのはすっかりその気の花道だった。
「ラビットの怪我が治ったらオレ達は世界最強の泥棒になるために出発すんだ。だから土産はねえぞ」
「ずいぶん景気のいい話だな。……ま、どこへ行くのも好きにすりゃいいが、借金だけは残していくなよ。オレは知らねえからな」
その言葉を残して、牧は本当にあっけなく帰っていった。その事自体は忙しいのだろうと気にも留めなかったが、借金という言葉はさすがに気になった。牧が帰ったあと、水を注された感じで盛り上がりも失せた二人に、洋平は言ったのである。
「借金て何だ? 何かあんのか?」
二人はなかなか答えなかったが、洋平に睨まれてやがてぼそっと言ったのは流川だった。
「今までの稼ぎとこの間の絵を売っただけじゃどうしても足りねえ。便利屋の分が」
その意味が洋平にも判っていた。洋平を探すために、二人は全財産を投げ打ってくれたのだ。洋平を探している間は二人もそれほど気にしなかったが、いざ事が終わって回ってきた請求書に愕然としていたのである。
「何でオレに言わねえ。元はといやオレのせいだろ?」
「家具とか売りゃ何とかなる」
「いくらなんだ」
流川に言われた金額は、洋平の蓄えのほぼ半分ほどだった。
「またずいぶんつぎ込んだな。……でもま、マシな方だ。そっちは心配すんな。……てことはだ、生活費はこうだから家賃がこうで偽造パスポートが−」
ブツブツ言いながら洋平が複雑な金計算を始める。洋平の頭の中はこれからアメリカに行くための下準備のことで一杯だった。
結局のところ、洋平がいないことにはどうにもならないレッドフォックスなのである。
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